数え7歳で即位し、さまざまな苦難にぶつかり続ける人生を送った一条天皇。最愛の后(きさき)・定子(高畑充希)への想(おも)いを抱えながら、中宮彰子(見上愛)とはどのように向き合おうとしていたのか、まひろ(吉高由里子)が執筆する『源氏物語』をどのように思っていたのかなどを、演じた塩野瑛久さんに伺いました。
―― 一条天皇を演じきった、今のお気持ちをお聞かせください。
一条天皇としても、ひとりの俳優としても、とても色濃い撮影期間でした。「光る君へ」における一条天皇は、自分の中に強い信念があるけれども、周りの人たちにも思惑というものがあって、それに振り回され続けた人物だったと思います。民も政(まつりごと)もないがしろにしているわけではないけれども、理解してもらえないことが多くて、とにかく、演じながらずっと苦しかったんですよね。
だからこそ、いただいた愛や人とのつながりを大切にして、一条天皇なりに懸命に目の前のことに向き合ってきたつもりだったのに、最後の最後まで望みどおりにはいかず、苦しかったです。
――長い期間、ひとつの役を生きたからこその感情ですね。
そうですね。物語の中心にはいない人物を演じるときって、その人物のことが物語の中で描かれるのがどうしても少なめになるじゃないですか。そうなると、俳優側はその役のバックボーンを想像して掘り下げ、お芝居をすることになります。僕としては、「なるべく長い時間をかけて、物語を背負って生きていく役を演じたい」とずっと思ってきましたので、「光る君へ」の一条天皇はまさに物語の鍵を握っていた人物であり、僕の俳優人生の中でも非常にやりがいを感じる役柄でした。“大河ドラマ”という大きな舞台で物語の一端を担うことができて、とてもうれしかったです。
――政に対して苦悩することが多かった一条天皇は、左大臣・藤原道長のことをどのように思っていたのでしょうか。
僕の解釈で言うと、信頼しています。道長は物事をとてもハッキリと言ってくれる人物なので、何を考えているのかわかりやすいですし、一条天皇が物語を好きだと知ったうえで『源氏物語』を与えてくれたり、「理解してくれている」と感じることが多かったので。その中に陰謀もあるかもしれないですけれど、やはり理解する姿勢がないと起こせない行動だと思うんですよ。史実では「つけいるため」だと見られたりもしているけれど、もしかしたらちゃんと一条天皇の性格や好きなものを熟知したうえで、寄り添うような行動を見せたから一条天皇も反発するだけではなく、「道長が言うんだったらそうしてみよう」と思うこともあったのではないかと思ったりしています。
――『源氏物語』に引き込まれる過程には、どのような心の動きがあったと思いますか。
定子が亡くなってから喪失感がすごくて、心のよりどころを探していたところで出会った物語だったので、読むことで気を紛らわせていた部分はあったと思います。あとは『源氏物語』に書かれている内容が、自分をけなしているような物語にも受け取れたから興味を持ったのかなと。直接的ではないけれども、何か自分が今まで行ってきたことに対して刺さることがあって、それを認めたくないから最初は道長にも冷たい反応を見せた。
でも、まひろと話をして物語に込められた思いを知ったときに、「キレイなだけではない『源氏物語』の世界観」というものが痛いほど響いたのだと思います。もちろん『枕草子』は大好きだけど、『源氏物語』に興味を抱いたのは、そういう理由かなと感じました。
――中宮彰子への思いは、どのように変化していきましたか。
最初は探っても探っても探りきれなくて困惑していた部分はあったけれども、それこそ製本した『源氏物語』をくれたりとか、『新楽府(しんがふ)』を勉強していたりだとか、一条への好意によって教養を深めようとしていることを知り、その心遣いや無償の愛に応えてあげたいと思うようになった気がしています。
第35回で殻を破って思いを伝えてくれたことも一条天皇にとってはとても大きな出来事だったと思いますし、何より、自分が一番愛した定子との子である敦康親王を一生懸命支えて育ててくれたというスタンスを絶対に無下にはできないと思いました。
―― 一条天皇が最期まで敦康親王を東宮にすることを望んだのはなぜだと解釈されていますか。
「順当にいけば長男である敦康が東宮になるべき」という思いはあったでしょうし、「光る君へ」における一条天皇は情に流される人でもあるので、やはり「定子との子である」というのは大きかったと思います。だから彰子には申し訳ないですけれど、ずっと定子には甘えっぱなしなんですよね、きっと。彰子とちゃんと向き合えたならば敦成でもいいところなんですけれど、根本を見れば、彰子と向き合おうと思えたのは、かつて定子が言ってくれた「人の思いと行動は裏腹でございます」という言葉があったからなので、定子への感謝の思いもあるし…。敦康が定子との間にやっとできた皇子だからこそ、初志貫徹じゃないですが、思いを貫きたかったのだと思います。なので最期は、「奮闘しても思いどおりにできなかった。定子ごめん」という悔しい思いと、「何の不満も見せず、むしろ背中を押すような行動をしてくれた彰子、ありがとう」という思いが湧き上がってきました。