大河ドラマ「光る君へ」

躍動せよ!平安の女たち男たち! 創造と想像の翼をはためかせた女性 紫式部

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ちなみに日記には… 大河ドラマ「光る君へ」第44回より

平安時代の貴族は、日記を書くことによって、後世に記録を残していました。ちなみに、どのようなことが書かれていたのか…。

紫式部『紫式部日記』、藤原道長『御堂関白記(みどうかんぱくき)』『御堂御記抄(みどうぎょきしょう)』、藤原実資『小右記(しょうゆうき)』、『小右記』の目録である『小記目録(しょうきもくろく)』、藤原行成『権記(ごんき)』に記された主なエピソードを紹介します!
 


ちなみに
『小右記』には…

長和4年(1015)10月2日条

◆◇◆◇◆

(藤原)資平が云(い)ったことには、「主上(三条天皇)が、密々におっしゃって云われたことには、『この何日か、左大臣(藤原道長)が頻(しき)りに譲位の事を責め催してくる。はなはだ奇怪な事である。・・・』ということでした。・・・
 


ちなみに
『小右記』には…

長和4年(1015)10月2日条

◆◇◆◇◆

・・・また、おっしゃって云(い)われたことには、『大納言(藤原)公任と中納言(源)俊賢は、吾(三条天皇)の為に不善の事が多い。左大臣(藤原道長)をそそのかして、吾の禅位(ぜんい)を責めさせている。この事は安心できない。・・・
 


ちなみに
『小右記』には…

長和4年(1015)10月2日条

◆◇◆◇◆

・・・吾(三条天皇)は十善の故に宝位に登ったのである。ところが臣下が、どうして吾の位を危うくすることが有るであろうか。憂心は一時も休まらない』ということでした」と。外に漏らしてはならない。
 


ちなみに
『小右記』には…

長和4年(1015)10月15日条

◆◇◆◇◆

(藤原資平が)密かに語って云(い)ったことには、『右金吾(うきんご/藤原懐平)が云ったことには、『主上(三条天皇)は女二宮(禔子[やすこ]内親王)を権大納言(藤原)頼通に降嫁させるよう、左相府(藤原道長)におっしゃられた。・・・
 


ちなみに
『小右記』には…

長和4年(1015)10月15日条

◆◇◆◇◆

・・・「但し、妻(隆姫女王)がいるので、如何(いかが)であろう」と。相府(藤原道長)が申して云(い)ったことには、「仰せ事が有るのですから、あれこれ申すわけにはいきません」ということであった』と」と。
 


ちなみに
『御堂関白記』には…

長和4年(1015)10月27日条

◆◇◆◇◆

今日から除目(じもく)の召仰(めしおおせ)が有る。これより前に、(藤原)資平朝臣(あそん)が来て、(三条)天皇の仰せを伝えて云(い)ったことには、「太皇太后宮大夫(藤原公任)に、『左大臣(藤原道長)を以て、摂政に準して除目や官奏を行わせよ』と命じる宣旨を下させるように」と。・・・
 


ちなみに
『御堂関白記』には…

長和4年(1015)10月27日条

◆◇◆◇◆

・・・「宣旨は書き終わりました」ということだ。「大弁(源道方)、および外記(小野文義)に仰せ下しました」ということだ。飛香舎の私の直廬(じきろ)において、除目(じもく)を行った。
 


ちなみに
『御堂関白記』には…

長和4年(1015)12月12日条

◆◇◆◇◆

「大将(藤原頼通)は、この何日か、病悩の気が有った。ところが今日、極めて重くなった」ということだ。今回の疫癘(えきれい)は、治まろうとしているはずではなかったのであろうか。大将の家(高倉第)は物忌(ものいみ)であった。
 


ちなみに
『小右記』には…

長和4年(1015)12月16日条

◆◇◆◇◆

早朝、(藤原)資平が来て云(い)ったことには、「御譲位について、正月に行うということを、去る夕方、左相府(藤原道長)におっしゃられました。・・・」と。(三条)天皇の様子を見ると、神恩が無かったからであろうか。
 


ちなみに
『小右記』には…

長和4年(1015)12月24日条

◆◇◆◇◆

左相府(藤原道長)に参り<小南第と称する。つまり宮の内>、謁談した。「御譲位と新東宮の事が決まった。事は早々とすべきである。李部宮(りほうのみや/敦明親王)が東宮に立たれることになった。あれこれ申すことはできない。・・・」ということだ。
 


ちなみに
『御堂関白記』には…

長和5年(1016)2月7日条

◆◇◆◇◆

天が晴れた。御即位式を行った。・・・未一剋に、(後一条)天皇は礼服を着された。未二剋に、大極殿(だいごくでん)の高御座(たかみくら)にお就きになられた。他は、式次第と同じであった。大后(おおきさき/藤原彰子)もまた、高御座に登壇された。
 


ちなみに
『小右記』には…

長和5年(1016)5月1日条

◆◇◆◇◆

早朝、(藤原)資平が来て云(い)ったことには、「・・・一昨日、前越後守(藤原)為時が、三井寺に於いて出家しました」と。
 


ちなみに
『御堂関白記』には…

長和5年(1016)12月7日条

◆◇◆◇◆

私(藤原道長)は辞表を後一条天皇に奏聞して、左大臣を停任(ちょうにん)された。この外は、「摂政は元のとおりとする」とのことであった。太皇太后宮大夫(藤原公任)が、上表を扱う上卿(しょうけい)であった。
 


ちなみに
『御堂関白記』には…

寛仁元年(1017)3月16日条

◆◇◆◇◆

摂政を辞任する表を(後一条)天皇に献上した。辞表は天皇の手許に留められ、勅答があった。左近中将(藤原)兼綱が、勅答使として来た。左衛門督(藤原教通)が、代わりに勅答使を拝したことは、常と同じであった。
 


ちなみに
『御堂関白記』には…

寛仁元年(1017)3月16日条

◆◇◆◇◆

すぐに内大臣(藤原頼通)を摂政とするという詔(しょう)が下った。太皇太后宮大夫(藤原公任)が、詔を作成する上卿(しょうけい)を勤めた。
 


ちなみに
『御堂関白記』には…

寛仁元年(1017)5月9日条

◆◇◆◇◆

丑剋(うしのこく/午前1時~午前3時)の頃、三条院から(源)頼清が来て云(い)ったことには、「三条院の御容態が重くいらっしゃいます」と。私は驚きながら、三条院の許に参入した。・・・辰剋(たつのこく/午前7時~午前9時ごろ)に、崩御なされた。
 


ちなみに
『御堂関白記』には…

寛仁元年(1017)8月6日条

◆◇◆◇◆

東宮(敦明親王)がおっしゃって云(い)われたことには、「東宮の地位を停めるという事を申すために、書状を差し上げた。ここに立ち寄られた事は、有難いことです」と。私は、遜位についてのご意向は、確かに承ったということを申し上げた。
 


ちなみに
『御堂関白記』には…

寛仁元年(1017)8月9日条

◆◇◆◇◆

三宮(敦良親王)を皇太弟(こうたいてい)に立てた。立太子宣命は、申剋(さるのこく/午後3時~午後5時ごろ)に下した。右大臣(藤原公季)が、宣命の内弁を勤めた。
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁2年(1018)10月16日条

◆◇◆◇◆

今日は女御藤原威子を皇后に立てる日である<前太政大臣(藤原道長)の第三娘。一家が三后を立てるのは、未曽有である>。
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁2年(1018)10月16日条

◆◇◆◇◆

太閤(藤原道長)が戯(たわむ)れて云(い)ったことには、「右大将(藤原実資)は、我が子<摂政(藤原頼通)である>に勧盃するように」と。私(藤原実資)は盃を執って、摂政に勧めた。
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁2年(1018)10月16日条

◆◇◆◇◆

太閤(藤原道長)が下官を招き呼んで云(い)ったことには、「和歌を読もうと思う。必ず和すように」ということだ。答えて云ったことには、「どうして和し奉らないことがありましょうか」と。
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁2年(1018)10月16日条

◆◇◆◇◆

また、(藤原道長が)云(い)ったことには、「誇っている歌である。但し準備していたものではない」ということだ。

「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の  欠けたる事も 無しと思へば」

と。
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁2年(1018)10月16日条

◆◇◆◇◆

私(藤原実資)が申して云(い)ったことには、「御歌は優美です。酬答(しゅうとう)する方策もありません。満座は、ただこの御歌を誦すべきでしょう。元稹(げんしん)の菊の詩に、(白)居易は和すことなく、深く賞嘆して、終日、吟詠していました」と。
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁2年(1018)10月16日条

◆◇◆◇◆

諸卿は私(藤原実資)の言に饗応して、数度、吟詠した。太閤(藤原道長)は和解し、特に和すことを責めなかった。夜は深く、月は明るかった。酔いに任せて、各々、退出した。
 


【『紫式部日記』(むらさきしきぶにっき)】

紫式部によって書かれた日記。寛弘5年(1008)~同7年(1010)正月までのおよそ1年半の間の出来事が記されている。

【『御堂関白記』(みどうかんぱくき)】

平安中期に摂関政治の最盛期を築いた藤原道長が書いた日記。長徳4年(998)~治安元年(1021)までの記事が収められている。

【『小右記』(しょうゆうき)】

小野宮流藤原氏の当主・藤原実資の書いた日記。貞元2年(977)~長久元年(1040)まで60年以上にわたり漢文で記された平安中期における最重要史料。

【『権記』(ごんき)】

九条流藤原氏の嫡流で三蹟(さんせき)の一人と称される藤原行成の書いた日記。正暦2年(991)~寛弘8年(1011)までのものが伝存し、さらに万寿3年(1026)までの逸文が残されている。 


 

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