寛仁2年(1018)に藤原道長(柄本佑)と源倫子(黒木華)の娘・威子(佐月絵美)が中宮となり、威子の立后(りっこう)の儀のあとに行われた穏座(おんのざ)において、道長が有名な「望月の歌」を詠みました。大河ドラマ「光る君へ」で時代考証を担当する倉本一宏さんに、一家三后や道長が歌を詠んだ状況などについて伺いました。
――道長と倫子の娘である彰子が太皇太后(たいこうたいごう)、妍子が皇太后、威子が中宮となりました。これはどのくらいすごいことなのでしょうか?
例えば道長の父・兼家は、長女の超子を63代・冷泉天皇に、次女の詮子を64代・円融天皇に入内(じゅだい)させていますが、いずれも女御(にょうご)であり、天皇の后(きさき)である皇后にはなれていません。自分の娘から后を一人出すだけでも、すごいことなんです。そんな中で道長と倫子は、彰子が66代・一条天皇の中宮、妍子が67代・三条天皇の中宮、そして威子が68代・後一条天皇の中宮となり、娘から三人も后を出しています。
しかもこの時、娘三人だけではなく、両親も健在です。実資も『小右記』[寛仁2年(1018)10月16日条]に「一家が三后を立てるのは、未曽有である」と書き記していますけれど、これは本当にすごいことだと思います。
――威子は後一条天皇よりも9歳年上です。後一条天皇よりも1歳年上の嬉子のほうが年齢が近いのですが、威子を入内させたのですね。
ドラマのセリフにもありますが、嬉子は後一条天皇の弟で東宮でもある敦良親王(のちの69代・後朱雀天皇)に入侍(にゅうじ)させることが決まっていたと思います。
後一条天皇と嬉子を結婚させると、威子が浮いてしまいます。入内先がありませんからね。このため、天皇となる順に、娘を上から結婚させていったのだと思います。ちなみに、嬉子は早くに亡くなったために東宮妃で終わりましたが、長生きしていれば間違いなく後朱雀天皇の皇后もしくは中宮となっていたでしょうから、一家四后の可能性がありました。
――いずれも倫子の娘で、明子の娘は入内させていないのですね。
明子の娘も入内させると、自分の娘の間で競わせることになりますから、父親である道長としては考えられなかったのだと思います。また、明子との差を明確にしないと、倫子が怒ると思います。
――有名な道長の「望月の歌」は、どのようなタイミングで詠まれたのでしょうか。
以前に、立后の儀は「立后宣命」「宮司除目」「本宮の儀」の3つに分かれているとお話ししましたが、「望月の歌」は「本宮の儀」のあとに行われた「穏座」という二次会で詠まれました。出席者がかなり酩酊(めいてい)してから詠んでいますので、道長自身も気分が良くなって、かなりできあがってきた状態で、喜びの気持ちやその場の光景を歌にしたのだと思います。
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――二次会でできあがってしまうのは、よくあることだったのでしょうか。
それはよくあることです。ただし、こういう付き合いがそれほど良くない実資が参加しているのは、わりあい珍しいと思います。
「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる事も 無しと思へば」という道長の有名な歌は、実資が『小右記』に書き記したことで、後世まで残ることとなりましたが、これはいくつもの偶然が重なった結果です。
まず第一に、実資が二次会である穏座に珍しく参加していたということ。第二に、『小右記』に歌を書き記したということ。以前に公任についてお話をした際に、道長は日記『御堂関白記』に三首ほど自身の歌を残しているが、それはいずれも公任に関連した歌だとご紹介しましたけれど、実資が『小右記』に歌を書くこと自体が極めて稀(まれ)です。おそらく、“漢文日記には、歌など記すものではない”と思っていたと思います。
それから第三に、『小右記』には実資が書いたそのままが残る広本と、省略された略本とがあるのですが、寛仁2年(1018)10月に関してはたまたま広本が残っています。略本であれば、歌をわざわざ写すようなことはしなかったでしょうから、残らなかったと思います。そしてこの広本も、一番良い写本は平安・鎌倉期の書写とされる前田家本と呼ばれる、江戸時代の元禄年間に三条西実教から加賀百万石を治める前田綱紀に贈られたものになるのですが、江戸時代に一部が焼けてしまいました。この「望月の歌」の箇所については「望月の欠け」が残るくらいでその前後の文字の多くは焼失し、この状態ではよくわからないのですが、江戸時代にたまたま新写本が作られていたために、その新写本から歌の内容を確認することができるのです。
有名な道長の「望月の歌」は、このような偶然が重なった結果、奇跡的にいまに残っています。けれども、道長に対する「天皇をないがしろにした傲慢な人」という悪評は、この歌の解釈によってなされたという側面もあります。平安時代に対する理解にも悪影響があったと思いますし、果たして残って良かったのかは、私としては疑問に思います。
――ちなみに、実資はなぜ二次会まで参加し、『小右記』に歌を記したのでしょうか。
一家で三后というのは未曽有のことですので、再びこのような状況となった際の前例として、どのようなことが行われたのかを日記につぶさに記し、残す必要があると考えたからだと思います。ですので実資としては、特別なことをしているわけではなく、やるべきことを、ふだんと同じようにこなしていただけだと思います。