平安時代の貴族は、日記を書くことによって、後世に記録を残していました。ちなみに、どのようなことが書かれていたのか…。
紫式部『紫式部日記』、藤原道長『御堂関白記(みどうかんぱくき)』『御堂御記抄(みどうぎょきしょう)』、藤原実資『小右記(しょうゆうき)』、『小右記』の目録である『小記目録(しょうきもくろく)』、藤原行成『権記(ごんき)』に記された主なエピソードを紹介します!
ちなみに
『小右記』には…
寛仁2年(1018)12月17日条
◆◇◆◇◆
太閤(藤原道長)から左中将(源)朝任を介して、命が有った。そこで堂前の座に着した。大殿(藤原道長)が云(い)ったことには、「式部卿敦康親王は、未剋(ひつじのこく/午後1時~午後3時ごろ)、薨(こう)じた<年20>」と。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛仁3年(1019)1月5日条
◆◇◆◇◆
夜に入って、(藤原)資業が、摂政(藤原頼通)の使として来た。「叙位の議を行おうとしたのに、両大臣(藤原顕光・藤原公季)が障(さわ)りを申して、内裏(だいり)に参りませんでした。これを如何(いかが)いたしましょう」と。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛仁3年(1019)1月5日条
◆◇◆◇◆
私(藤原道長)が命じて云(い)ったことには、「叙位の召仰(めしおおせ)は、すでに行われている。叙位を停止(ちょうじ)すべきではない。大納言を召して、叙位の議を行うべきである」と。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛仁3年(1019)1月6日条
◆◇◆◇◆
摂政(藤原頼通)がおっしゃって云(い)ったことには・・・「昨日、左大臣(藤原顕光)が参らなかったのは、蔵人頭(くろうどのとう)を遣わして召さなかったからでした」ということだ。不覚の事である。
ちなみに
『御堂関白記』には…
寛仁3年(1019)1月6日条
◆◇◆◇◆
摂政(藤原頼通)は大臣を兼ねている。すぐに召仰(めしおおせ)を行うべきである。そこで外記(げき)に、そのことを伝えた。左大臣(藤原顕光)は、召仰の時、蔵人頭が、これを伝え仰すのである。
ちなみに
『小右記』には…
寛仁3年(1019)3月21日条
◆◇◆◇◆
宰相(藤原資平)が来て云(い)ったことには、「大殿(藤原道長)は出家しました。法印院源を戒師としました。僧綱(そうごう)たちが伺候しました。院源及び事に従った僧綱たちに皆、禄を下給しました」ということだ。
【『紫式部日記』(むらさきしきぶにっき)】
紫式部によって書かれた日記。寛弘5年(1008)~同7年(1010)正月までのおよそ1年半の間の出来事が記されている。
【『御堂関白記』(みどうかんぱくき)】
平安中期に摂関政治の最盛期を築いた藤原道長が書いた日記。長徳4年(998)~治安元年(1021)までの記事が収められている。
【『小右記』(しょうゆうき)】
小野宮流藤原氏の当主・藤原実資の書いた日記。貞元2年(977)~長久元年(1040)まで60年以上にわたり漢文で記された平安中期における最重要史料。
【『権記』(ごんき)】
九条流藤原氏の嫡流で三蹟(さんせき)の一人と称される藤原行成の書いた日記。正暦2年(991)~寛弘8年(1011)までのものが伝存し、さらに万寿3年(1026)までの逸文が残されている。