ジェンダー・イデオロギーと闘う? 反トランスの大統領令を読み解く

群馬大学准教授・高井ゆと里=寄稿

群馬大学准教授・高井ゆと里さん寄稿

 米国大統領に就任したドナルド・トランプは、初日から多くの大統領令に署名した。その一つが「ジェンダー・イデオロギーの過激主義から女性たちを守り、連邦政府に生物学的な真実を取り戻す」と題された大統領令である。

 トランスジェンダーの存在そのものを否定するこの大統領令は、言葉のうえでは「女性を守る」としているものの、その背景には「ジェンダー」を「イデオロギー」として敵視し、女性や同性愛者の権利を脅かそうとしてきた積年の右派運動が存在する。その運動の歴史をたどりつつ、大統領令が真に意味するところについて考えたい。

背景に「反ジェンダー運動」の歴史

 大統領令の表題にある「ジェンダー・イデオロギー」とは、研究者やジャーナリストが「反ジェンダー運動」と呼んできた右派政治運動で、広く用いられてきた概念である。

 反ジェンダー運動の歴史は1990年代中盤にさかのぼる。

 当時、国連の人口開発会議(カイロ会議、94年)や第4回世界女性会議(北京会議、95年)といった国際会議を通して、女性の人権としての「性と生殖に関する健康と権利(セクシュアル・リプロダクティブ・ヘルス/ライツ:SRHR)」が国際社会でも承認され始めていた。そしてそれは、フェミニズムの運動や理論を通して鍛え上げられてきた「ジェンダー」の概念が、女性に対して抑圧的な社会構造を指すための概念として、国際的に使われ始めるタイミングでもあった。

 女性や男性がもつ典型的な身体の特徴には、たしかに違いがある。しかしそうした「セックス(sex)」の違いがあるとしても、だからといって、女性は男性のみと性交渉すべきだとか、妊娠して子どもを産むべきだとか、そういった「べき」がそこから導かれるわけではない。にもかかわらず、そうした「べき」――すなわち性別にまつわる社会的期待――が文化・慣習・制度・経済・法律のなかに埋め込まれ、社会で「女性であること」や「男性であること」のリアリティーに深く影響を及ぼしている。このように、性別をめぐる社会的な構築物の存在を捉え、性差別を解消するための強力なツールとして、フェミニズムは「ジェンダー」の概念を鍛えてきた。

 女性や(女性を含む)性的マイノリティーが、性と生殖の健康と権利(SRHR)を取り戻す闘いにとって、「ジェンダー」の概念は大きな役目を果たした。どんな身体に生まれようと、性や生殖について、ひとりひとりには自分で決める権利がある。「あるべき家族」のなかで、社会が期待する性や生殖の役目を強いられるべきではない。あるべき性行動や、あるべき生殖のありかたを「セックス」から一元的に決めようとする「生物学的決定論」から人びとを解き放ち、SRHRを取り戻す闘いは、他でもないジェンダー平等を求める闘いでもあった。

 しかし、SRHRが国際社会の承認を得ていったこのプロセスは、中絶を「罪」と捉える宗教右派や、人権教育としての性教育を「文化を壊す過激なもの」と捉える保守勢力にとって、大きな衝撃として受け止められた。そうして彼らは、SRHR(なかでも中絶へのアクセス)を抑止するための運動を国際的に展開し始める。

 攻撃の矛先は「ジェンダー」の概念そのものに向かった。「ジェンダー」の概念によってフェミニズムや性的マイノリティーの権利運動が勢いを得ているのだから、「伝統的な家族」の価値を重んじる彼らがそこに焦点を当てるのは必然でもあった。こうして始まったのが「反ジェンダー運動」である。

「道徳を腐敗させる」「男女の境界をなくす」

 反ジェンダー運動の旗手は、カトリック教会である。2002年、当時の教皇ヨハネ・パウロ2世は「性について、あるいは女性の尊厳や使命について、誤った考えに導く概念が広められている」と警告した。「『ジェンダー』についての特定のイデオロギー」が、それを広めているのだと。これが、現在まで用いられる「ジェンダー・イデオロギー」という語の起源とされる。

 「ジェンダー・イデオロギーは家族制度への攻撃であり、同性婚や中絶を認める法律は道徳を腐敗させる」。カトリック教会は00年代以降さかんにそうした主張を行い、「ジェンダー」を敵視しつつ「家族」の価値を守るための運動に多額の資金を投じた。つい昨年も、フランシスコ教皇が「もっともおぞましい危険はジェンダー・イデオロギーである。なぜならそれは、男性と女性の境界をなくすからだ」と述べている。

 彼らの認識では、男女の性差は社会的・歴史的な条件とは無関係に存在しているため、女性であることや男性であることのリアリティーに社会構築的な視点を持ち込む「ジェンダー」という概念や分析の視点そのものが、「男女の境界をなくす」イデオロギーだとみなされる。

 なお、このようにカトリック教会で「ジェンダー」が危険視されるようになったきっかけは、1997年にジャーナリストのデール・オレアリーが刊行した『ジェンダー・アジェンダ』にさかのぼる。同書では、「ジェンダー」は国際的なフェミニストの陰謀論であり、新しい植民地支配の道具であるとされていた。

 反ジェンダー運動の担い手は、カトリック教会に限らない。ナショナリスト・政治家・宗教団体など、それぞれの地域のアクターを巻き込みつつ、東欧、ラテンアメリカ、アフリカ、インド、そして米国などで運動を展開した。それにより、「世界家族会議」や「ファミリー・ウォッチ・インターナショナル」といった米国右派団体が、ガーナの反LGBTQ法の成立を支援するといったグローバルな連携がみられた。

 ある調査によれば、米国のキリスト教右派勢力が、生殖の権利とLGBTQ+の権利に対抗するために世界で費やした資金は、2007~19年の間だけでも280万ドルに上った。第1次トランプ政権が指名した最高裁判事らによって「ロー対ウエイド」判例が覆され、各州が独自の州法で中絶を規制・禁止できるようになったのも、米国における反ジェンダー運動の一つの「勝利」である。

中絶、性教育、同性愛…広がる攻撃対象

 反ジェンダー運動を理解する際に留意すべきことは、そこで攻撃の対象となる「ジェンダー」が「なんでもあり」である点にある。これまでみてきたように、「ジェンダー・イデオロギー」として攻撃される対象は、中絶の権利や(包括的)性教育、同性愛者の権利など多岐にわたる。

 しかし、これこそが反ジェンダー運動の強みである。とにもかくにも、市民社会の「常識」を破壊しようとする「イデオロギー」が存在し、性差にまつわる国家や宗教の価値観を破壊しようとしている――。そのような構図を作ることさえできれば、そこで敵対視される「ジェンダー・イデオロギー」には、どのような対象でも代入可能なのである。

 そんな反ジェンダー運動において、近年の主要な攻撃対象の一つがトランスジェンダーである。米国のキリスト教右派は、婚姻平等が最高裁で認められた15年以降、LGBを攻撃するのは得策でないと考え、「ジェンダー・イデオロギー」を体現する存在としてTに狙いを定めた。LGBTの連帯に亀裂をもたらし、フェミニズムを部分的に巻き込んで進められるこの政治戦略は、確かに功を奏した。ただでさえ人口が少なく、その生活の現実が誤解されていることも多いトランスジェンダーの存在は、人びとに「ジェンダー」の危険性を吹聴し、社会に分断をもたらす格好の材料となった。

 今回の大統領選挙でも、トランプ陣営はトランスジェンダーの存在を政治的な「火種」として用い、「トランスジェンダーの狂気を終わらせる」などと宣言した。「学校で子どもが性別適合手術を受けさせられている」といった虚偽も交えつつ、トランプは人びとの不安をかき立てる論争的なテーマ(トランスの女児のスポーツ参加や、未成年を対象とした医療など)を選び、トランスジェンダーの存在と権利を認めることは社会の「常識」的な秩序を破壊すると印象付けた。

 その戦略は、一昨年の時点ですでに確立していた。23年のサウスカロライナでのイベントで、トランプは次のように述べた。「私たちはジェンダー・イデオロギーというカルト宗教を打ち負かし、次の事実を再確認するつもりだ。神は、男性と女性という、二つの性別を創造したのだ」と。以上が、今回の大統領令を読みとくために不可欠の歴史的背景である。

トランスの人びとを概念のレベルで否定

 改めて、今回の大統領令に戻ろう。

 その表題は「ジェンダー・イデオロギーの過激主義から女性たちを守り、連邦政府に生物学的な真実を取り戻す」である。「ジェンダー・イデオロギー」という前半の表現だけでなく、後半の「生物学的な真実を取り戻す」という言い回しからも分かるように、これは反ジェンダー運動の思想を体現したものである。

 大統領令では、「男性(man)」と「女性(woman)」は、「オス(male)」と「メス(female)」と同義であるとされた。そのうえで、そうした「生物学的な性」とは異なる「ジェンダー」という新たな性別の枠組みを浸透させる「イデオロギー」によって社会の秩序が壊され、「女性」の安全や尊厳が脅かされていると主張する。

 この大統領令は、直接的にはトランスジェンダーを標的とする。およそ「性自認(ジェンダーアイデンティティー)」に一切の科学的・社会的な妥当性を認めず、出生時に割り当てられた性別とは異なるアイデンティティーや生活の現実を生きる人びとを概念のレベルで否定する、危険な文章である。日本の当事者団体であるTネットが、これを「トランスジェンダーの人びとの人権とその生活を深刻に脅かす危険なもの」と評するのも当然である。

 具体的な影響も懸念される。

 文字通りこれが実行されれば、連邦機関で働くトランスの職員はプライバシーを暴かれ、使えるトイレもなくなり、職場を追われる。刑務所に収容されたトランスの人びとは、最低限の医療すら奪われる。現実の生活に合わせて訂正したパスポートの性別欄は以前の表記に戻され、トラブルを経験する。

 そして、大統領がトランスジェンダーの存在を否定したのだからと、差別やハラスメント、暴力のリスクも世界中で増えるだろう。

大統領令の「女性を守る」は本当か

 しかしこの大統領令は、トランスジェンダーを否定するだけのものではない。これは、社会の基本的な在りかたを「セックス」に準拠させ、「ジェンダー」を「イデオロギー」と関連付け、「家族」に対する脅威として女性のSRHRやLGBTの権利を否定してきた、反ジェンダー運動の一つの集大成なのである。

 さらに悪いことに、男女は「受精の時点で、身体で精子・卵子を作る性に属す人(パーソン)」として定義された。冗談に聞こえるだろうが、実際にそう書かれている。これは原文では「a person belonging, at conception, to the sex that produces the large/small reproductive cell」なのだが、この表現は受精の時点に人格を想定する点で、「胎児の人格性(fetal personhood)」や「未生の人格(unborn person)」に道徳的な地位を与える中絶反対派に秋波を送るものであると考えられている。

 「常識の革命」を掲げる米国大統領が、はっきり「ジェンダー・イデオロギー」を打倒すると宣言した。これから、この「ジェンダー」に様々なものが代入され、攻撃されるだろう。そこで失われるのは、トランスジェンダーの権利のみならず、LGBTQ+の権利であり、女性の健康と権利である。

 だからこそ、改めてはっきりさせておきたい。「女性を守る」と主張する右派政治家が、女性の人権を守ることなどありえないのだ。

 たかい・ゆとり 群馬大学准教授。専門は西洋哲学、生命倫理学。ノンバイナリーの当事者で、トランスジェンダーの人権に関する発信もしている。著書に『ハイデガー』(講談社)、編著に『トランスジェンダーと性別変更』(岩波書店)、共著に『トランスジェンダー入門』(集英社)、『トランスジェンダーQ&A』(青弓社)。

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