寛仁3年(1019)3月21日に出家をした藤原道長(柄本佑)。大河ドラマ「光る君へ」で時代考証を担当する倉本一宏さんに、道長が出家をした理由などについて伺いました。
――道長はなぜ出家をしたのでしょうか。
紫式部の父・藤原為時も晩年となる長和5年(1016)に出家していますが、政治から身を引いて出家するというのは、当時はよくありました。そのうえで道長が出家した理由の一つには、病気がなかなか良くならなかったことが挙げられます。病気になるとその都度いろいろな人物が霊となって現れ、日記などに記録されていたりするのですが、道長の場合は兄である道隆と道兼に加えて、定子、伊周、三条天皇、敦康親王、そして顕光といった人たちが現れていたと思います。
――顕光はいまだ健在なのですが、霊となって現れているのですか。
このころになると、顕光は道長のことを非常に恨んでいて、生霊(いきりょう)になっている感じです。顕光は、長女の元子を一条天皇に入内(じゅだい)させていましたが、道長が邪魔をして一条天皇と元子をあまり会わせないようにしていました。
また、次女の延子が敦明親王の妃(きさき)となり王子も出産していましたが、道長が圧力をかけて敦明親王に東宮を辞退させ、さらに娘の寛子(母は源明子)との結婚を推し進めて自陣に取り込んで待遇などを保証し、延子らを捨てさせました。延子はこののち、悲嘆のあまり健康を害して亡くなっています。これらのことから顕光は道長のことを非常に恨んでいて、生きているころから呪詛(じゅそ)をしており、亡くなったのちには悪霊となっています。
ただし、道長が一番恐れていたのは、敦康親王だと思います。寛仁2年(1018)10月16日に娘・威子の立后(りっこう)の儀が行われ、そのあとの穏座(おんのざ/二次会)において道長が有名な「望月の歌」を詠みました。ところが2か月後の同年12月17日に、敦康親王が20歳という若さで亡くなります。道長は彰子が皇子を出産すると、それまでとは一変して敦康親王を冷遇するようなことをしており、恨みを買っているという自覚はあったでしょうから、これはまずいと思ったでしょう。実際、寛仁4年(1020)10月1日には、敦康親王の霊が、病悩している後一条天皇(敦成親王)に出てきています。
そこで、これ以上病気が続いていろいろな人物の霊が出てくるのは恐ろしいし、嫡男の頼通を摂政に就かせ、后(きさき)となった娘も三人いるので権力はまず安泰ということで、俗世でやり残したことはないという考えに至って出家したのだと思います。
――出家して以降も、道長は大きな影響力を維持していたのでしょうか。
道長は出家してからも禅閤(ぜんこう)と呼ばれて、権力を行使し続けています。頼通も、いちいち道長にお伺いを立てていますね。『春記』(しゅんき/藤原資平の長男・資房の日記)によると、頼通は人柄が穏やかでいい人だったようですけれども、道長と比較すると実行力などで見劣りしたようです。このためか、実資をはじめとした公卿(くぎょう)たちは、出家して以降も道長のもとをよく訪ねています。
――道長の信仰心は、どれほどだったのでしょうか。
道長の信仰心は、かなり深いと思います。道長に限らず当時の人々は、仏教、神祇(じんぎ)、そして陰陽道を信仰しており、仏教については各宗派をすべて信仰していました。最初は密教の現世利益を求めていたけれども、徐々に浄土信仰の来世利益に移っている感じがします。道長は出家後、自邸である土御門殿の東側に摂関期最大級の寺院である法成寺(ほうじょうじ)を建立しますが、ここには中心となる阿弥陀堂のほかに、金堂や講堂などさまざまな堂舎が建てられました。これらは違う宗派であり、道長はいろいろな宗派の偉いお坊さんを集めています。つまり法成寺は、総合仏教寺院という感じであり、道長には日本中の仏教を統合したいという思いがあったと思います。
――平安時代中期の貴族は、寺院をよく建立していたのでしょうか。
結構建てています。大きなお寺を建てることは、いろいろと大掛かりになってしまうのであまりしないのですが、例えば法性寺(ほっしょうじ)という藤原北家の氏寺的存在のお寺がありますが、ここにお堂を建てたりしています。当時の法性寺はとても広大で、現在の東福寺と泉涌寺の寺域までもがその境内地であったといわれています。ここに道長だけではなく、実資も、公季も、道綱もお堂を建てていました。道長の建てた五大堂の故地にある東福寺同聚院(どうじゅいん)には、現在も不動明王像が残っています。上半身だけは道長当時のものと推定されています。
――妻である倫子や明子は、道長の出家のことをどのように思っていたのでしょうか。
明子については史料に残っていないのでわかりませんけれども、倫子はこれからも政治に関わり続けてほしいと考えていたと思います。実資の『小右記』に記録があるのですが、道長が出家してから8日後の3月29日に実資が道長のもとを訪れてかなり親しく面談し、このまま山林修行などをするのではなく、ときどきは内裏(だいり)へ行き、後一条天皇にも会うように勧めています。つまり実資は、政治に関わり続けるようにアドバイスをしているんです。これに対して、倫子があとで実資にお礼を言っていますので、倫子としては道長に頼通を引き続き指導し、引っ張っていってもらいたいと思っていたと思います。道長がいたほうが、絶対に有利ですからね。