大河ドラマ「光る君へ」

躍動せよ!平安の女たち男たち! 創造と想像の翼をはためかせた女性 紫式部

共有

ちなみに日記には… 大河ドラマ「光る君へ」第47回より

平安時代の貴族は、日記を書くことによって、後世に記録を残していました。ちなみに、どのようなことが書かれていたのか…。

紫式部『紫式部日記』、藤原道長『御堂関白記(みどうかんぱくき)』『御堂御記抄(みどうぎょきしょう)』、藤原実資『小右記(しょうゆうき)』、『小右記』の目録である『小記目録(しょうきもくろく)』、藤原行成『権記(ごんき)』に記された主なエピソードを紹介します!
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)4月17日条

◆◇◆◇◆

戌剋(いぬのこく/午後7時~午後9時)の頃、惟円師が帥中納言(藤原隆家)の書状<ただ一行>を持って来た。
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)4月17日条

◆◇◆◇◆

今月7日の書状に云(い)ったことには、「刀伊(とい)国の者50余艘(そう)が対馬島に来着し、殺人・放火しています。要害を警固し、兵船を差し遣わします。大宰府は飛駅(ひえき)言上します」ということだ。
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)4月18日条

◆◇◆◇◆

「昨夜、飛駅(ひえき)の解文について、侍従中納言(藤原)行成卿が処理した」と云(い)うことだ。宰相(藤原資平)は、大宰府の解文の詳細を行成卿に問い遣わした。返報の書状に云ったことには、「大宰府の解文に云ったことには、・・・
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)4月18日条

◆◇◆◇◆

・・・『刀伊(とい)国が、対馬・壱岐島を攻撃しました<対馬守(大春日)遠晴が、大宰府に参って、事情を申しました。壱岐守(藤原)理忠は殺害されました。また、筑前国乃古島[「警固所の近々の所」と云(い)うことです]が伝えたことには、・・・
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)4月18日条

◆◇◆◇◆

・・・「あの賊は、多く来襲して、敵対することができません。その速さは隼(ハヤブサ)のようです」と云(い)うことだ>。帥(藤原隆家)は軍を率いて警固所に到り、合戦することになりました』と云うことです」と。
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)4月18日条

◆◇◆◇◆

入道殿(藤原道長)に参った。すぐに拝謁した。大宰府が言上した兵船について談られた。
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)4月18日条

◆◇◆◇◆

次いで内裏(だいり)に参った。右大臣(藤原公季)、大納言(藤原)斉信・(藤原)公任、中納言(藤原)行成・(藤原)頼宗・(藤原)実成、参議(源)道方・(藤原)公信・(藤原)通任が、先に参入していた。
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)4月18日条

◆◇◆◇◆

刀伊(とい)国について、壁の後ろに於いて(藤原)行成卿に問うた。「議定は、すでに終わりました」ということだ。私(藤原実資)は陣座(じんのざ)に着した。・・・私が答えて云(い)ったことには、「諸卿の僉議(せんぎ)は、如何(いかが)だったのでしょうか」と。
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)4月18日条

◆◇◆◇◆

大臣(藤原公季)が云(い)ったことには、「要害を警固し、追討を加えることとなった。勤功が有った者に賞を加えることとなった。大宰府解は『官裁』と記しているが、本来ならば官符を給わらなければならない。・・・
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)4月18日条

◆◇◆◇◆

・・・ところが、勅符ではなかったので、遅く到ったのであろうか。函の上に『飛駅(ひえき)』と記し、やはり勅符を給わらなければならない。但し、官符の文には、違例であることを記さなければならない。・・・
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)4月18日条

◆◇◆◇◆

・・・また賞すという事は、前例を調べると、勅符に載せていない。そこで官符に載せることとした。種々の内外の御祈祷<仏事>を行わなければならない。山陰・山陽・南海道は、要害を警固しなければならない事を定め申した」と。
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)4月18日条

◆◇◆◇◆

私(藤原実資)が云(い)ったことには、「この他には、また申すことはありません。但し、警固しなければならない事は、同じく北陸道にも下給すべきでしょう」と。
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)4月25日条

◆◇◆◇◆

酉剋(とりのこく/午後5時~午後7時)の頃、惟円が帥(藤原隆家)の書状<去る16日の書状>を持ってきた。「異国人が来寇(らいこう)しました。9日に来寇しました。合戦の子細は大宰府解にあります」と。
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)4月25日条

◆◇◆◇◆

惟円が云(い)ったことには、「使者は隼船(じゅんせん)に乗って参上します。但し、異国は8日、急に能古島に来着しました。同じく9日に博多田(はかた)に乱れて上陸しました。大宰府兵は、急に徴発することはできません。・・・
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)4月25日条

◆◇◆◇◆

・・・先ず平為忠と平為方が帥(藤原隆家)の先駆として、合戦に馳せ向かいました。異国軍は多く射殺されました。・・・また、兵具や甲冑(かっちゅう)を奪取しました」ということだ。・・・
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)4月25日条

◆◇◆◇◆

・・・「一船の中に5、60人がいました。合戦の場では、人毎に楯(たて)を持っていました。前陣の者は鉾(ほこ)を持っていました。次陣は大刀を持っていました。次陣は弓箭(きゅうせん)の者でした。箭(や)の長さは一尺余りほどです。・・・
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)4月25日条

◆◇◆◇◆

・・・射力ははなはだ猛々しいものでした。楯(たて)を穿(うが)ち、人に当たりました。大宰府軍で射殺された者は、ただ下人だけです。将軍である者は射られませんでした。馬に乗って馳せ向かい、射取りました。・・・
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)4月25日条

◆◇◆◇◆

・・・ただ鏑矢(かぶらや)の声を恐れて、引き退きました。<『刀伊(とい)国の人々の中には、新羅(高麗)国の人もいました』と云(い)うことです>。船に乗って遁(のが)れ去りました。・・・大宰府軍は、兵船が無いので、追撃することができませんでした。・・・
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)4月25日条

◆◇◆◇◆

・・・10日と11日は北風が猛烈に吹きました。還り渡ることができず、海中に逗留しました。神明が行ったものでしょうか。両日の間、大宰府は兵船38艘を急ぎ造らせて、追襲させました。賊徒は遁(のが)れ去り、本州(高麗)を指して漕(こ)ぎ去りました。・・・
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)4月25日条

◆◇◆◇◆

・・・大宰府の兵船は、また今、20余艘が、勝ちに乗じてこれを追撃しました。また(平)致行朝臣は、10余艘を調備して合流しました。・・・
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)4月25日条

◆◇◆◇◆

・・・但し、先ず壱岐・対馬島に到るように、日本の境に限って襲撃するように、新羅(高麗)の境に入ってはならないということを、都督(藤原隆家)が誡め仰せたところです」ということだ。
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)4月25日条

◆◇◆◇◆

使者がまた云(い)ったことには、「只今では、追討して平定されたようなものです。賊徒の甲冑(かっちゅう)や兵具を、少々、奪取されました」と。・・・あれこれの説には、信受することができないばかりである。
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)6月29日条

◆◇◆◇◆

左中弁(藤原)経通が、大宰府が言上した筑前国・壱岐・対馬島の人や牛馬が、刀伊(とい)人の為に殺害され、および拉致された解文、勲功者の注申について、また処々の合戦の状況、刀伊人及び今回、漂着した未斤達を勘問した文書、・・・を下給した。
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)6月29日条

◆◇◆◇◆

仰せを伝えて云(い)ったことには、「大宰府が言上した解文の中で、勲功を注進してきた者を賞すべきか否か。また、漂着した者、および初めの刀伊(とい)人の勘問について、定め申すように。・・・」ということだ。
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)6月29日条

◆◇◆◇◆

大納言(藤原)公任と中納言(藤原)行成は、行ってはならないということを申した。その理由は、忠勤が有る者に賞を進めるということは、勅符に載せているとはいっても、刀伊(とい)を撃退したのは、勅符が未だ到らない前の事である。
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)6月29日条

◆◇◆◇◆

私(藤原実資)が云(い)ったことには、「勅符が到っているかどうかを謂(い)ってはならない。たとえ賞を募っていない事とはいっても、勲功が有る者については、賞を賜うのに何事が有るだろう。・・・
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)6月29日条

◆◇◆◇◆

・・・寛平6年(894)、新羅の凶賊が対馬島に到った際、島司(文室)善友が打ち返した。すぐに賞を下給した。募られることは無かったとはいっても、前例はこのようである。他の事は同じである。特に刀伊(とい)人は、近く警固所に来た。・・・
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)6月29日条

◆◇◆◇◆

・・・また、国島の人民千余人を拉致し、および数百の人や牛馬を殺害し、また壱岐守(藤原)理忠を殺した。ところが、大宰府は兵を発し、忽然(こつぜん)と追い返し、および刀伊(とい)人を射取った。やはり賞が有るべきである。・・・
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)6月29日条

◆◇◆◇◆

・・・もし賞を進めることが無かったならば、向後(こうご)の有事には、士を進めることは無いのではないか」と。大納言(藤原)斉信も、私(藤原実資)の意見に同じであった。その後、大納言(藤原)公任、中納言(藤原)行成、及び次席の者も、皆、同じであった。
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)6月29日条

◆◇◆◇◆

大宰府が注進した勲功を挙げた者。散位平朝臣為賢、前大宰大監藤原助高、傔仗大蔵光弘・藤原友近、友近の随兵紀重方。
以上の五人は、警固所の合戦の場で戦った者は、数が多いとはいっても、賊徒に正中したのは、この為賢たちの矢であった。
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)6月29日条

◆◇◆◇◆

筑前国志摩郡の住人文室忠光。
賊徒が初めて志摩郡に来襲した日、警固所が差し遣わした兵士と合戦した際、忠光の矢に当たった者が多かった。また、賊徒の首を斬って進上し、およびその武具を進上した。
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)6月29日条

◆◇◆◇◆

大神守宮・擬検非違使財部弘延。
賊徒を撃退した際、要害の所々を計った。この守宮たちは、兵士を遣わし加えて、あらかじめ遣わしたものである。・・・
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)6月29日条

◆◇◆◇◆

・・・そして筑前国志摩郡船越津辺りに於いて合戦した際、この守宮たちの矢に当たった者が多かった。特に生け捕った者は二人。但し、一人は傷を蒙(こうむ)って死んでしまった。
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)6月29日条

◆◇◆◇◆

前大宰少監大蔵朝臣種材。
賊徒が逃却した日、兵船が遅れて出撃するという告げが有ったので、大宰少弐兼筑前守源朝臣道済を博多津に遣わし、且つ纜(ともづな)を解かせ、且つその事情を問い遣わしたところ、・・・
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)6月29日条

◆◇◆◇◆

・・・使者を奉った者が、各々申して云(い)ったことには、「賊船の数が多い。やはり兵船を造って、一度に追撃すべきである」ということだ。その中で、(大蔵)種材が独り申して云ったことには、「私(種材)は、齢が70を過ぎている。・・・
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)6月29日条

◆◇◆◇◆

・・・身は功臣(大蔵春実)の後裔である。兵船を造り終わるのを待つ間に、賊徒が早く逃げるのを恐れる。命を棄て、身を忘れ、一人で先ず進発しようと思う」ということだ。・・・
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)6月29日条

◆◇◆◇◆

・・・「(源)道済は、(大蔵)種材の言ったところを善しとして、無理に衆軍を出撃させた」ということだ。賊船が早く去ったので、実際は戦を遂げることは無かったとはいっても、種材が言ったところは、忠節が浅くない。
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)6月29日条

◆◇◆◇◆

壱岐講師常覚。
賊徒は三度、来襲した。毎回、撃退した後、数百の兵に堪えられず、一身で逃れ脱した。身は在俗ではないとはいっても、その忠節は隠れることはない。
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)7月13日条

◆◇◆◇◆

子剋(ねのこく/午後11時~午前1時)の頃、宰相(藤原資平)が内裏(だいり)から退出して云(い)ったことには、「直物に次いでに、叙位と小除目(こじもく)が行われました。・・・(大蔵)種材は、壱岐守に任じられた」と。
 


【『紫式部日記』(むらさきしきぶにっき)】

紫式部によって書かれた日記。寛弘5年(1008)~同7年(1010)正月までのおよそ1年半の間の出来事が記されている。

【『御堂関白記』(みどうかんぱくき)】

平安中期に摂関政治の最盛期を築いた藤原道長が書いた日記。長徳4年(998)~治安元年(1021)までの記事が収められている。

【『小右記』(しょうゆうき)】

小野宮流藤原氏の当主・藤原実資の書いた日記。貞元2年(977)~長久元年(1040)まで60年以上にわたり漢文で記された平安中期における最重要史料。

【『権記』(ごんき)】

九条流藤原氏の嫡流で三蹟(さんせき)の一人と称される藤原行成の書いた日記。正暦2年(991)~寛弘8年(1011)までのものが伝存し、さらに万寿3年(1026)までの逸文が残されている。 


 

全特集 リスト