平安時代中期の寛仁3年(1019)3月末~4月に、中国大陸北東部を拠点とする民族「東女真(じょしん)族」とされる賊が大宰府管内に侵入した事件「刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)」。大河ドラマ「光る君へ」で時代考証を担当する倉本一宏さんに、この事件で活躍した者たちへの褒賞について伺いました。
――刀伊の入寇において勲功を挙げた者たちへ褒賞を与えることについて、藤原公任と藤原行成が反対していましたが、それはなぜでしょうか。
大宰府からの注進を受けて、勲功を挙げた者へ褒賞を与えるかどうかについて公卿(くぎょう)がどのような意見を述べたのかは、藤原実資の日記『小右記』の寛仁3年(1019)6月29日条に詳しく記録されています。
藤原隆家の指揮のもとで団結し、刀伊を迅速に追討した大宰府直属の兵や在地の武者の活躍はすばらしいものであり、「公卿が褒賞を与えることに反対しているのはなぜ?」と思われる方が多いとは思います。
けれども、朝廷の判断としては、公任や行成が正しいのです。個人的な理由で勝手に戦いを始めて、相手を打ち負かしたり、土地から追い出したりした場合に、勝利したほうに褒賞が与えられるというようなことを認めてしまえば、秩序が乱れて各地で戦いが頻発(ひんぱつ)し、国家が崩壊します。このため、これまでにも地方においてたびたび私的な戦いが起こっているのですが、貴族たちは一貫してこれを嫌い、勝手に戦った者へは重い罪を科しています。基本的に平和でなければならず、外国から侵攻されることは当時は想定されていないので、朝廷の指示もなく勝手に戦闘行為を行うなど、あってはならないんです。
――勝手に戦った者に対して、褒賞が与えられなかった例を教えてください。
例えば藤原道長の死後に、奥州において「前九年の役(ぜんくねんのえき)」と「後三年の役(ごさんねんのえき)」という戦いが起こりました。前九年の役は、永承6年(1051)から康平5年(1062)まで続いた戦いで、奥六郡の盟主である豪族の安倍氏が起こし、これを河内源氏である源頼義(みなもとのよりよし)・義家(よしいえ)の父子が、奥羽地方の豪族である清原氏の応援を得て平定したのですが、この際には朝廷の命を受けて戦っていますので、戦後に朝廷から頼義らに褒賞が与えられました。
一方、後三年の役は、永保3年(1083)から寛治元年(1087)まで続いた戦いで、前九年の役で勲功を挙げた清原氏一族の争いがもとで起こった内乱になるのですが、これを平定した源義家は朝廷の停戦命令を守らずに介入したために、褒賞が与えられないだけではなく、翌寛治2年(1088)に陸奥守を罷免されています。勝手に戦ってしまったのですから、当然の処遇です。義家は、後三年の役が私戦とされて褒賞が出なかったために、私財を投じて部下に与え、武家の棟梁(とうりょう)としての信望を高めたとよくいわれますが、朝廷からしたらとんでもないことです。だからこのあと、河内源氏は不遇になったんですよ。
――のちに河内源氏の嫡流である源頼朝も奥州へ攻め入り、奥州藤原氏を滅亡させますが、この際には朝廷の命を受けていたのでしょうか。
頼朝も朝廷の命を受けることなく、勝手に奥州へ攻め入っています。頼朝は治承4年(1180)8月に伊豆で平家打倒の兵を挙げましたが、この際には後白河院の第三皇子である以仁王(もちひとおう)が同年4月に発した平家追討の令旨に呼応する形で挙兵しています。また頼朝は、元暦2年/寿永4年(1185)3月24日に行われた壇ノ浦の戦いに勝利して平家を滅亡させましたが、この平家追討は後白河院の命を受けてのことです。しかし、文治5年(1189)7月から9月にかけて行われた奥州合戦については、後白河院は「やってはいけない」という宣旨を出しています。けれども頼朝は、「戦時は勅命を聞かず」などということで勝手に平泉へと兵を進め、勝手に奥州藤原氏を滅亡させたうえに、これを正当なものだと後白河院に認めさせて、褒賞を与えられています。勝手な戦いを認めてしまうと、それが当たり前というような時代になっていってしまうんです。刀伊の入寇で勲功を挙げた者たちへ褒賞を与えることに反対する公任や行成の意見は、非常に冷たいと思われるかもしれませんが、二人は正しい判断をし、筋をきちんと通したのだと思います。
――刀伊追討の陣頭指揮を執った隆家に対しても、褒賞は与えられないのですね。
襲撃を受けた際にこれを撃退するのは、大宰府が担う仕事の一つであり、その陣頭指揮を執ることは大宰府の長官である大宰権帥(だざいのごんのそち)として当然の職務になります。ですので、特別に与えられるようなこともあったかもしれませんが、基本的には褒賞はありません。隆家を賞賛し、英雄として持ち上げる方が多いとは思いますけれど、もっと冷静に見る必要があります。隆家が勝手に在地の武者を動員して戦ったことで、戦いに加わった武者たちがのちに九州武士団を作ってしまい、国家全体から見れば困った状況になってしまっているのです。
襲撃してきた刀伊を迅速に追討できたのは隆家の手腕によるところが大いにあり、すばらしい活躍だとは思いますが、そこだけを見て「隆家はすごい」「それに対して都の貴族はダメ」と考えるのは間違いだと思います。
――実資は、なぜ公任や行成の意見に反対し、勲功を挙げた者へ褒賞を与えるように訴えたのでしょうか。
実資は、原則に非常に忠実であるように見えて、実は身内や仲の良い人物にはとても甘い一面を持っています。隆家とはとても仲が良く、また書状をもらい、大変な事態であることを実感していました。このため実資は、刀伊の入寇において勲功を挙げた者たちへ褒賞を与えるように訴えたのだと思います。
ただし実際には、刀伊の襲撃を受けて命を落とした壱岐守の後任に大蔵種材が決まったくらいで、褒賞を与えられた者はほとんどいませんので、朝廷の判断としてはあくまでも“勝手に戦うことは許容できない”というスタンスだったと思います。