大河ドラマ「光る君へ」

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をしへて! 倉本一宏さん ~刀伊の入寇における藤原隆家と藤原実資の動き

平安時代中期の寛仁3年(1019)3月末~4月に、中国大陸北東部を拠点とする民族「東女真(じょしん)族」とされる賊が大宰府管内に侵入した事件「刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)」。大河ドラマ「光る君へ」で時代考証を担当する倉本一宏さんに、この事件に対応する藤原隆家と藤原実資について伺いました。

――隆家は、刀伊の入寇が起きていることを実資にも書状を送り伝えていますが、それはなぜでしょうか。

寛仁3年(1019)4月17日に隆家から実資のもとへ刀伊の入寇に関する情報がもたらされますが、まずこのときに隆家は、妻への手紙も一緒に実資へ届けています。当時は、遠方からの使者が、面識がなく名前や所在もわからない女性のもとへ手紙をきちんと届けることは、なかなか難しかったと思います。そこで隆家は、手紙を確実に妻へ届けるためには、知名度が高く、仲が良く、みなからの信頼も厚い実資にまず届けて、そこから妻へと送ってもらうのが最も安全であると考えたのだと思います。
それから、朝廷への解文は大宰府の役人が書いた公式の文書になるのですが、公式であるがゆえに、刀伊による襲撃を受けて大宰府管内が厳しい状況に置かれていることが十分に伝わらない可能性があります。

そこで隆家は、「要害を警固し、兵船を差し遣わせます」というように、より端的に、より具体的に記した書状を実資のもとへ送り、緊迫した事態に直面していることを伝えたかったのだと思います。

――隆家の書状を受け取った実資は、なぜ一番に道長のもとを訪れたのでしょうか。

実資は九州にも荘園を持ち、港を通して交易なども行っていましたので、九州の事情にも詳しく、隆家の書状から大宰府管内が危険な状態だとすぐに察したと思います。このころになると道長は朝廷の会議からは離れ、摂政に就いている嫡男の頼通が取り仕切っていたのですが、頼通では頼りなく、結局は頼通が道長に相談して指示を仰ぐような状態でした。大宰府から届いた解文は陣定(じんのさだめ)にかけられますが、陣定は決定機関ではなく、公卿(くぎょう)の意見を羅列して天皇や摂政に奏上するだけであり、最終決定にあたっては頼通が道長へ相談することが濃厚です。

それならば最初から道長に相談したほうが話が早いということで、会議を軽視する形にはなってしまいますが、この事態を重く捉え、迅速な対応が必要だと考えた実資は、権力の中心であり続ける道長のもとへ意見を突き合わせに行ったのだと思います。

――大宰府からの報告を受けた実資以外の公卿は、どのような認識だったのでしょうか。

実資以外の公卿は、事態をほとんど認識できていなかったと思います。外国からの襲撃の先例は新羅(しんら/しらぎ)海賊の入寇までさかのぼりますが、その際には現地の住民たちが追い払っています。一時、朝廷が九州に軍を配備したこともあるのですが、その後に外国から襲撃されることがほとんどなくなったため、軍は解除してしまっています。このようなことから、多くの公卿は刀伊の入寇に対しても、今回も大したことはないというように思っていたと思います。

―― 一方、隆家は刀伊を追討するべく迅速に行動しますが、大宰府の兵を動かすのにも朝廷の指示が必要だったのでしょうか。

大宰府は外交と軍事を管轄する機関になりますので、大宰府直属の兵を動かすことは可能です。けれども、管轄外である九州以外の地域から兵を動員するためには、中央の指示を仰ぐ必要があります。また本来は、直属軍ではない在地の住民を動員することもできなかったと思います。例えば、乱を起こして一時は関東を従えた平将門は天慶3年(940)2月に朝廷によって倒されますが、この際には将門の対応に苦慮した朝廷が褒賞を与えることを官符で約束し、その結果、藤原秀郷(ふじわらのひでさと)・平貞盛(たいらのさだもり)ら地方の武者が立ち上がって討伐に貢献しました。刀伊の入寇の場合、現場の指揮官である隆家としては、相手の目的や規模を正確には把握できないなどの理由から、戦力をかき集めて整える必要があると判断したのだと思いますけれども、朝廷としてはどのくらいのことが起きているのかを把握できていなかったと思いますので、この時点では「大宰府の兵が対応せよ」という考えだったと思います。

【NHK for School】平将門の乱

 

――隆家は大宰府の政庁を出て、指揮を執ったのですね。

現在の福岡城があるところに大宰府の警固所がありましたので、隆家はそこへ入り、指揮を執っています。現場である海岸線から離れた大宰府政庁よりも、近くにある警固所にいたほうが、より迅速に、臨機応変に対応することができますからね。いざという際には、大宰府の責任者は軍事の指揮を執らなければならないと決められていますので、隆家はこれにのっとり、職務を全うしています。

けれどもドラマのように、隆家自らが大鎧(おおよろい)を身にまとって最前線に立ち、鏑矢(かぶらや)を放つようなことはなかったでしょう。指揮官である隆家が戦闘へ参加し、もしものことがあったりしたら大変ですから、指揮は警固所で執っているはずです。また、公卿である隆家が大鎧を身にまとうようなことも、まず考えられません。

――隆家らの活躍により襲撃してきた刀伊が追討され、4月25日に朝廷にも吉報が届きますが、多くの公卿の反応としては「大宰府が仕事をして粛々と解決した」という感じなのでしょうか。

そうだと思います。襲撃を受けた際にこれを撃退するのは、大宰府が担う仕事の一つであり、特別なことではありません。もしも刀伊の入寇が起きた際の大宰権帥(だざいのごんのそち)が隆家ではなくほかの公卿(たとえば行成)であったならば、あたふたしてしまい、これほど迅速に対処できなかったかもしれませんので、隆家の活躍は賞賛されるべきものだとは思います。しかし、あくまでも職務を全うしたに過ぎません。

また、褒賞を与えるかどうかは、申請されたのちにこれが検討されます。田畑が荒廃しているとか、人口が減少しているなどの問題も同様に、地方から陳情があったのちにこれを受けて中央で議論がなされます。ですので、“大宰府から追加でアクションがない限りは何もしない”というのが、中央のスタンスになります。

 

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