大河ドラマ「光る君へ」

躍動せよ!平安の女たち男たち! 創造と想像の翼をはためかせた女性 紫式部

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ちなみに日記には… 大河ドラマ「光る君へ」最終回より

平安時代の貴族は、日記を書くことによって、後世に記録を残していました。ちなみに、どのようなことが書かれていたのか…。

紫式部『紫式部日記』、藤原道長『御堂関白記(みどうかんぱくき)』『御堂御記抄(みどうぎょきしょう)』、藤原実資『小右記(しょうゆうき)』、『小右記』の目録である『小記目録(しょうきもくろく)』、藤原行成『権記(ごんき)』に記された主なエピソードを紹介します!
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)6月9日条

◆◇◆◇◆

夜に臨んで、宰相(藤原資平)が来て云(い)ったことには、「入道殿(藤原道長)は、羅漢を供しました。四条大納言(藤原公任)と左兵衛督(源)頼定が云ったことには、『左府(藤原顕光)が辞退される』と云うことです」ということだ。
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)6月15日条

◆◇◆◇◆

宰相(藤原資平)が来た。・・・次いでに云(い)ったことには、「或いは云ったことには、『(藤原)道綱卿が入道殿(藤原道長)に申させて云ったことには、「私(道綱)は一家の長兄である。今回、もし丞相に任じられなければ、何の恥がこれに勝ろうか。・・・
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁3年(1019)6月15日条

◆◇◆◇◆

・・・ただ、一、二箇月、貸してくだされ。・・・」と』と」ということだ。私(藤原実資)の思うところは、(藤原道綱は)第一の大納言で、年労ははなはだ多い。・・・但し、一文不通の人は、未だ丞相に任じたことはないので、世は許さない。
 


ちなみに
『小右記』には…

寛仁4年(1020)10月16日条

◆◇◆◇◆

「入道大納言(藤原道綱)が、昨夜、入滅した」と云(い)うことだ。
 


ちなみに
『小右記』には…

万寿2年(1025)8月3日条

◆◇◆◇◆

申(さる/午後3時~午後5時)の終剋の頃、左衛門尉(宮道)式光が馳せて来て、云(い)ったことには、「尚侍(ないしのかみ/藤原嬉子)は男児(王子親仁)を産みました。後産(のちざん)については未だ遂げられていません」と。
 


ちなみに
『小右記』には…

万寿2年(1025)8月5日条

◆◇◆◇◆

宰相(藤原資平)が帰って来て云(い)ったことには、「未剋(ひつじのこく/午後1時~午後3時)の頃から、鬼籍に入ったようです。(藤原嬉子は)遂に入滅しました。諸僧は分散しました」と云うことだ。
 


ちなみに
『小右記』には…

万寿2年(1025)8月6日条

◆◇◆◇◆

早朝、上東門院(土御門院)に参り向かった。立ったまま、源宰相朝任に相対した。退帰した。禅閤(藤原道長)・北方(きたのかた/源倫子)・関白(藤原頼通)・内府(藤原教通)は、同処に於いて悲泣していた。
 


ちなみに
『小右記』には…

万寿3年(1026)1月19日条

◆◇◆◇◆

太皇太后(たいこうたいごう/藤原彰子)は御出家される。そこで上東門院(土御門院)に参った<宰相(藤原資平)は車後に乗った>。・・・渡殿の簾中に於いて謁談した。起って太后の御出家について語った。涕泣は雨のようであった。
 


ちなみに
『小右記』には…

万寿3年(1026)1月19日条

◆◇◆◇◆

(後一条)天皇がおっしゃって云(い)ったことには、「(藤原彰子の)太皇太后宮職を停めて、上東門院とするように。・・・」ということだ。
 


ちなみに
『小右記』には…

万寿4年(1027)6月13日条

◆◇◆◇◆

興昭阿闍梨が云(い)ったことには、「すぐに危ない様子はありませんでしたが、未だ日没に及ばない頃、(源俊賢が)入滅しました」と云うことだ<69歳。員外帥(源高明)の遷化(せんげ)も69歳であった>。
 


ちなみに
『小右記』には…

万寿4年(1027)11月10日条

◆◇◆◇◆

夜に入って、中将(藤原資平)が来て云(い)ったことには、「初め禅室(藤原道長)に参りました。はなはだ危急でいらっしゃいました。臥したまま、汚穢(おわい)が有りました。ところが心神は、通例のとおりでした」と云うことだ。
 


ちなみに
『小右記』には…

万寿4年(1027)11月13日条

◆◇◆◇◆

夜に入って、中将(藤原資平)が来て云(い)ったことには、「禅閤(藤原道長)は増減はありません。昨夜、沐浴し、念仏を始められました。外の人は、その声を聞いて、上下の者が走り迷いました。・・・
 


ちなみに
『小右記』には…

万寿4年(1027)11月13日条

◆◇◆◇◆

・・・『入滅されるということを思っている』と云(い)うことです。公家(くげ/後一条天皇)は、千人の度者を奉られました。関白(藤原頼通)は禅閤(藤原道長)の為に万僧供(まんぞうく)を行います」と。
 


ちなみに
『小右記』には…

万寿4年(1027)11月21日条

◆◇◆◇◆

中将(藤原資平)が禅門(藤原道長)から来て云(い)ったことには、「時に従って、いよいよ危急です。無力は特に甚だしいものです。痢病(りびょう)は、数えきれません。また、背中の腫物(しゅもつ)が発動しました。・・・
 


ちなみに
『小右記』には…

万寿4年(1027)11月21日条

◆◇◆◇◆

・・・医療を受けません。あれこれ、多く危ないです。行幸の日を待つことは難しいであろうということについて、家の子が談ったところです」と。・・・
 


ちなみに
『小右記』には…

万寿4年(1027)11月21日条

◆◇◆◇◆

・・・「女院(藤原彰子)と中宮(藤原威子)がいらっしゃいました。ところが親しく見舞うことは難しいのです。汚穢(おわい)の事が有るからでしょうか」と云(い)うことだ。
 


ちなみに
『小右記』には…

万寿4年(1027)11月25日条

◆◇◆◇◆

早朝、(宮道)式光が云(い)ったことには、「禅閤(藤原道長)は夜半、阿弥陀堂の正面の間に移られました。座主が催し申したからです」と。
 


ちなみに
『小右記』には…

万寿4年(1027)11月30日条

◆◇◆◇◆

(和気)相成朝臣(あそん)が云(い)ったことには、「召しによって、御堂に参りました。背中の腫物(しゅもつ)は、針治を行うという決定が有りました。ところが今日は、忌みが有ります。・・・
 


ちなみに
『小右記』には…

万寿4年(1027)11月30日条

◆◇◆◇◆

・・・来月4日、病状に随(したが)って、瘡口(かさぐち)を開き奉るべきであるということを申しました。不覚の瘡の様子とはいっても、通常のようであれば、治りません。そこで延期を申しておきました」と。
 


ちなみに
『小右記』には…

万寿4年(1027)12月2日条

◆◇◆◇◆

(宮道)式光が云(い)ったことには、「去る夜半の頃、禅閤(藤原道長)は(但波)忠明宿禰に、背中の腫物(しゅもつ)に針治を施させました。膿汁と血が少々、出ました。吟(うめ)かれる声は、極めて苦しい様子でした」ということだ。
 


ちなみに
『小右記』には…

万寿4年(1027)12月2日条

◆◇◆◇◆

中将(藤原資平)が来て云(い)ったことには、「禅室(藤原道長)は、同じようなものです。その頼みは、すでに少ないものです」と云うことだ。
 


ちなみに
『小右記』には…

万寿4年(1027)12月4日条

◆◇◆◇◆

巳剋(みのこく/午前9時~午前11時)の頃、(宮道)式光が来て云(い)ったことには、「禅閤(藤原道長)は、昨日、入滅しました。ところが、『夜に臨んで、揺れ動く気配が有る』と云うことでした。今日、寅剋(とらのこく/午前3時~午前5時)、すでに入滅しました。・・・」と。
 


ちなみに
『小右記』には…

万寿4年(1027)12月4日条

◆◇◆◇◆

夜半の頃、中将(藤原資平)が伝え送って云(い)ったことには、「禅室(藤原道長)は入滅しました<62歳>。また、按察大納言(藤原)行成卿が、急に薨じました<56歳>」と。
 


【『紫式部日記』(むらさきしきぶにっき)】

紫式部によって書かれた日記。寛弘5年(1008)~同7年(1010)正月までのおよそ1年半の間の出来事が記されている。

【『御堂関白記』(みどうかんぱくき)】

平安中期に摂関政治の最盛期を築いた藤原道長が書いた日記。長徳4年(998)~治安元年(1021)までの記事が収められている。

【『小右記』(しょうゆうき)】

小野宮流藤原氏の当主・藤原実資の書いた日記。貞元2年(977)~長久元年(1040)まで60年以上にわたり漢文で記された平安中期における最重要史料。

【『権記』(ごんき)】

九条流藤原氏の嫡流で三蹟(さんせき)の一人と称される藤原行成の書いた日記。正暦2年(991)~寛弘8年(1011)までのものが伝存し、さらに万寿3年(1026)までの逸文が残されている。 


 

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