第11回

第11回 相互作用と合意(後編①)

1.おさらい

人間は、現実の世界と対峙する形で、日常生活を送っている。

人間は、現実の世界を知覚する、という形でしか知ることはできない。

換言するならば、パースペクティブというフィルターを通して、その領域に関する仮説を形成する、という形でしか、現実の世界を捉えることは出来ない。

人間にとって、現実の世界とは、間接的に不完全な形でしか捉えることが出来ないものである。

すなわち、人間にとって、現実の世界とは、常にいつまでも不可視的な存在であり続けるものなのである。

以上のことが、「他者」という存在にも当てはまる。

すなわち、人間Aと人間Bが向き合っている状況とは、現実の世界Aと現実の世界Bが向き合っている状態に他ならない。

なので、この二人は、どれだけコミュニケーションを行い続けても、互いに相手が不可視的な[1]存在であり続けることになる。どれだけコミュニケーションを積み重ねても、互いに相手[2]を「ありのままに」「ダイレクトに」把握することなど決してできない。

コミュニケーションという現象を理論化する上で必ず踏まえなければならない上記のような前提を「『ブラック・ボックス』としての他者」という。

コミュニケーションとは、

 互いに相手が「ブラック・ボックス」の関係にある個人Aと個人Bとは、互いに「表示」と「解釈」を繰り返しながら、お互いに

 相手のパースペクティブ

  と

 相手のパースペクティブから見た自分自身のパースペクティブ

 という二つのパースペクティブを探り合うプロセスとして理論化できる。

 これが、シンボリック相互作用論、なかでもHerbert Blumerの学説をもとに導き出したコミュニケーション把握(理論)です。

 htmlファイルの方をご覧ください。

 第3節の末尾では、「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」と表現しています。でも、この「観点」と「パースペクティブ」という言葉は全く同義の、同じ意味の言葉だと思ってください。こちらの方が語呂が良い、というただそれだけの理由です。

 さて、上記のコミュニケーション理論をさらに精緻化しよう、というのが今週と来週の目標です。

2.A. L. Strauss[3]という学者。

 Blumerの指導のもと、1942年にシカゴ大学で修士号を、Burgessの指導のもと、1945年に博士号を取得。シカゴ学派の第4世代、SIの第2世代。Blumerと同様に、G.H.Meadから強い影響を受ける。

 研究領域は、「多元的相互作用論」[4]、医療社会学[5]、社会学方法論[6]の三つに大別されるが、ここでは、医療社会学に絞ってお話をしたい。

2-1 認識文脈論

 日本においてストラウスの名前を一躍有名にしたのは、『「死のアウェアネス理論」と看護』という著作である[7]。1965年に原著が、1988年に邦訳が出版されている。原著のタイトルは、Awareness of Dyingである。終末期現場(ターミナルケア現場)における末期患者と医療スタッフ(+患者の家族)との社会的相互作用を経験的に明らか[8]にしたものである。

 1960年代前半、アメリカでは癌[9]告知を行わないことが一般的だった[10]

 対して日本では、1990年代中頃までは、癌の告知率はまだ20%台、2006年になってようやく病名告知が66%、余命告知が30%に達した[11]

 ストラウスが上記の調査を行った時代というのは、末期癌に罹患した患者が自分の病状を知らないということが一般的だった時期である。

 上記の研究はB. G. Glaserという社会学者との共同研究である。このGlaserという人物がよく分からない[12]。少なくとも日本では、ストラウスと共同研究を行った社会学者としてしか知られていない(と言っても過言ではない)。

 Glaser and Strauss(以下、G&S)は、上記の著作公刊の前年に「Awareness contexts and social interaction」という論文を発表している。ここで始めて「Awareness contexts」という概念が登場した。

 問題はこの訳語である。https://cir.nii.ac.jp/crid/1050858529758727680 は、私と教え子と研究者仲間の3人で作成した邦訳であるが、112頁に記してあるとおり、Awareness contextsという概念は、日本に導入されて以来、その訳語が迷走している。Awarenessには「覚識」「認識」「自覚」「意識」「気づき」と少なくとも5通りに訳し分けられている。私が2002年に執筆した教科書原稿[13]でもそれを改稿した雑誌論文[14]でも、私は「覚識」を採用しているが、現時点では「認識」という訳語がベストだと思っている。『「死のアウェアネス理論」と看護』でも「認識文脈」と訳されており、また使用頻度が最も高いのもこの訳語であることから、授業では認識文脈という言葉を使うこととする。

 さて、これにも書いてあるように、G&Sは、人間間のコミュニケーションを、

 そこにおいて個々人が、本論でいう「考慮の考慮」を駆使することによって、互いに「相手のアイデンティティ」(the other's identity)と「相手の目に映った自分自身のアイデンティティ」(one's own identity in the eyes of the other)の双方を想定し合う過程と捉え、その内実を「覚識文脈」(awareness context)という概念をもとに分析している。

 

 ほぼほぼ、Blumerと同じ捉え方をしています。

 ただし、「アイデンティティ」という言葉と先ほどの「観点」とは完全にイコール(同義)ではありません。これを見ても分かるように、アイデンティティという概念の方が「外延」が広いです。アイデンティティには、その人間の認識枠組み[15]のみならず、その人間の生物学的・社会的属性も含まれます。男なのか女なのか、何人[16]なのか、何をしている(どんな仕事をしている)人なのか、なども含まれます。その意味では、「正体」と訳した方が良いかもしれません。原語は言うまでもなくIdentityです。

 ちょっと邦訳を見てみましょう。pp.93-94 第1段落

 これがG&Sの考える「アイデンティティ」です。G&Sは、二人の相互作用者[17]がコミュニケーションにおいて「相手のアイデンティティ」と「相手の目に映った自分自身のアイデンティティ」の双方を探り合うプロセスを探究対象としています。

 ところで、コミュニケーションというものは真空の中で行われているものではありません。「異文化の中で全く見知らない者同士が初対面で相互作用を行う」、という極めて特殊なケースでない限りは。

 個人Aと個人Bがコミュニケーション[18]を行うに先だって、両者の関係を大雑把に規定する「枠組み」というものがある。両者の相互作用の初期設定みたいなものがある。このようにストラウスは考えています[19]。それが「組織」です。

 コミュニケーションはいつでも何らかの組織の中で行われている。これはBlumerも述べていることですが[20]、ここで組織とは、企業や学校などの、いわゆる我々が「組織」という日常用語でイメージする人々の集まりor機関or制度体のみならず、地域社会や国家や社会階層[21]や国際社会なども含む、極めて広義の言葉です。

 このストラウスの考えを踏まえて、G&Sは、この組織を「認識文脈」と「構造的条件」という2つの構成要素[22]に分けました。まず、「認識文脈」から見ていきましょう。

 htmlファイルの方をご覧ください。

 覚識文脈[23]とは、ストラウスらによれば、「ある状況において、各々の相互作用者が、互いに、相手のアイデンティティや、相手の目に映った自分自身のアイデンティティについて知っている事柄の全体的な組み合わせ」を意味している。なお、ここで「知っている」とは、あくまで知る側による、相手に関する“想定”(「名付け」(naming))の次元で行われていることであり、知る側が相手の内奥をダイレクトに把握しているという意味で使われているわけではない。彼らは、その組み合わさり方の数あるタイプより、4つの覚識文脈を提示している。

 まず、「知っている」イコールあくまで「想定」という説明を見ても分かるように、G&Sも「ブラック・ボックス」としての他者、という前提を踏まえています。

 次に「全体的な組み合わせ」という表現ですが、邦訳では「組み合わせの総体」となっています。こちらの方が訳としてはbetterです。

 ではどういう「組み合わせ」なのか? 注の15を見てください。邦訳の該当箇所はp.108の下から2段目です。「我々はこれまで」の部分から読み上げます。

 これを図式化すると次のようになります。

 3×3×2の18通りの認識パターンを示す二人の相互作用者がコミュニケーションを行うと、論理的には、182、すなわち、324通りの「組み合わせの総体」が生まれます。

 つまりG&Sは、A=18×18=B としなければならないところを、18×2(AとB)というわけの分からない計算をしてしまったわけですね。より正確には、

ここで著者らは、2×2×3×3=36通り、という計算式によって「36種類」という解を導き出しているが、これは誤りである。正しくは、(2×3×3)の二乗=324通りである。第1番目の変数は2者の認識文脈を説明する説明項であり、第2番目以下の諸変数は、それぞれの相互作用者を説明する説明項である。著者らは、すべての変数を2者の認識文脈の説明項と捉える過ちを犯している[24]」わけです。

 とにもかくにも、その324通りの組み合わせの中から、これは経験的に研究に使えるな、とG&Sが考えた組み合わせが、次の四つになります。

 まず第1に、合意が成立していない状態。これはストラウスらのいう「閉鎖覚識文脈」(a closed awareness context)を意味する。すなわち、2人の人間が相互作用を行っているという状況において、「一方の相互作用者が、他方の相互作用者のアイデンティティないしは他方の相互作用者の観点から見た自分自身のアイデンティティの、いずれかないしは双方を知らない」という状況を意味する。

 第2に、そうした状態から合意へと移行して行く過渡的な状態。これは「疑念覚識文脈」(a suspicion awareness context)を意味する。すなわち、「一方の相互作用者が、他方の相互作用者の本当のアイデンティティないしは他方の相互作用者の観点から見た自分自身のアイデンティティの、いずれかないしは双方について疑念を抱いている」という状況を意味する。すなわち、一方の相互作用者が、「相手のアイデンティティ」や「相手の目に映った自分自身のアイデンティティ」について、“もしかすると、自分が知っていると思っていただけで、実際には(自分の認識は)間違っていたのではないだろうか”と疑念を抱いている状況を意味する。

 第3に、「〔相互〕虚偽覚識文脈[25]」(a pretense awareness context)とは、双方の相互作用者が、“完全に”「相手のアイデンティティ」と「相手の目に映った自分自身のアイデンティティ」の双方を知っているにも関わらず、あたかも知らないかのごとく振る舞い合っている状況を意味する。例えば、ゴフマンの言う「察しの良い無関心」[26](tactful inatention)を双方の相互作用者が互いに行い合っている状態がそれにあたる。それは、あたかも相互作用者たちが「仮面舞踏会」(masquerade)に参与しているかのごとき状況と捉えられる(Glaser and Strauss, 1965, pp.70-74=1988年、72-76頁)。

 最後に、「オープン覚識文脈」(an open awareness context)とは、「双方の相互作用者が、互いに相手の本当のアイデンティティと相手の目に映った自分自身のアイデンティティの双方を知っていて」かつ、互いに知っているということを表明し合っている状況を意味する。

 ストラウスらは、この最後の状態を指して、両者の間に「合意」が成立した状況と捉えている

邦訳ではpp.94-5にあたります。

 図示するとこうなります

 G&Sは、上記の4つの認識文脈は、あらゆる人間のコミュニケーションに適用可能な分析枠組みである、としています。そして、その分析枠組[27]終末期医療の現場に適用した「一適用例」が1965年(邦訳1988年)の文献だと位置づけています。あくまで「一適用例」なんですね。

 しかしながら、よーくみてください。この4つの認識文脈、極めて特殊な状況を示しています。どこが特殊かというと、必ずスタート地点では、一方の相互作用者が「すべて」を知っていて、他方は「すべて」or「半分しか」知らない、となっています。つまり情報の流れが一方的なんですね。もう一つ、「虚偽」という変数の存在です。疑念からいきなりオープンに向かわないのです。間に「虚偽文脈」という状態が介在しているのです。どう考えても、1960年代初頭のアメリカにおける終末期現場の分析を行うために、その分析専用に作られた分析枠組であることは明らかです![28] Aが医療スタッフ、Bが末期患者であることは明らかです。この分析枠組を本当の意味で「あらゆる」場面に適用可能なものに作りかえたのは、次にお話しするT. J. Scheffという社会学者です。

 ともあれ、G&Sによれば、AとBの相互作用のあり方は、上記の認識文脈によって方向づけられます。そして、その認識文脈を維持する役目を果たすのが、彼らの言う「構造的条件」です。これは定義が難しいです。なのでいきなり具体例を見てみましょう。

 p.96の第3段落からです。パラダイム[29]という言葉は「分析の仕方(分析例、その模範例、基本方針)」ぐらいに捉えておいてください。

 医師が決定権を持っている、医師がどこまで患者に情報を与えるかを決めるのが当然である。当時の医療現場の精神文化

 つまり、構造[30]的条件とは、ある認識文脈が維持される条件ですね。しかも相互作用がスタートする前に、患者を取り巻く集団に、予め(事前に)備わっている、そういう条件[31]です。

 つまり、構造的条件が認識文脈を規定し、その認識文脈が相互作用のあり方を規定する、という関係になっている。しかしこの規定のあり方は一方的ではなく、逆に、相互作用が構造的条件をきり崩し、認識文脈を変化させ、その変化した認識文脈に基づいて、また別のあり方の相互作用が行われる、という関係にもなっている。

 もう一つ重要なこと、それは、人々の相互作用は「オープン認識」で「終わる」わけではない、ということ。1回目の「オープン」の後に、2回目の(次の)、3回目の(次の次の)、・・・N回目の「閉鎖」が始まる(その可能性がある)、という点です。終末期現場で例証するならば、

 「『ガン告知』も一枚岩ではない」[32]

   

                         2025/01/27

3.多元的合意論

3-1. T. J. Scheffという学者。

 1960年にカリフォルニア大学バークレー校で社会学で博士号を取っています[33]。この時代は、1952年[34]にシカゴ大学から赴任してきたハーバート・ブルーマーが[35]主任教授として同大において絶大な影響力を誇っていた時期であり、後にブルーマーの功績をたたえる論文集[36]にもシェフが寄稿していることを考えるならば、Scheff=「SIの第3世代」、と表現しても過言ではないと思います。

 さて、シェフによれば、G&Sの議論は、少なくとも以下の二点において問題がある[37]

 ①認識文脈論の領域限定性、適用状況の特殊性:そもそも特殊な状況を念頭に置いて作られているので、あまりに適用可能範囲が狭い。「情報の争奪戦」があまりに強くテーマ化されている。しかも初期設定(スタート地点)での情報の一方的な偏りが目立ちすぎる。承認するか否か、という変数の特殊性etc。

 ②「アイデンティティ」の中身が曖昧。ある箇所(1964年の論文)では「スタッフの目に映った患者のアイデンティティ」を「末期患者(であること)」[38]としていながら、また別の箇所(1965年の著作)では「(患者が)自分が末期であることを認識していること」[39]としていたりする。使い方に一貫性がない。

3-2. 「合わせ鏡」としての相互理解

 pdfファイルpp.75-76をご覧ください。

 “完全な”合意というのはあり得ない。というのも、個人Aにしても、個人Bにしても、「取得」とはあくまで「想定」、すなわち、仮説を形成する、という意味でしかなされえないからである。しかし、もし、万が一、その仮説が一時的にでも「まごうことなく100%」正確なものであったとしても(そんなことは決してあり得ないが)、それで合意が完成する、とシェフは考えていたはいない。合意形成は、このように1次2次、3次・・・・と延々と続く「未完のプロジェクト」なのである。図示すると次のようになる

 しかしシェフも、実際の「分析」において、そうした「延々と続く」合意形成を追いかけようとしていたわけではない。実用上は、2次の合意までしか対象としていない。

 操作化(モデル化)[40]pp.78-9を見てください[41]

 

→これも64通りの間違い。G&Sに釣られて、彼らと全く同じ轍(2×2×2×2)を踏んでしまった[42]。(2×2×2)2としなければならない。

→多元的無知。集団の規模が大きくなればなるほど、互いの関係が二次的[43]な関係(ゲゼルシャフト[44]的な関係表面的・部分的・一時的)になればなるほど、この状態が発生しやすくなる。TVや新聞による大衆操作に弱いのも、この種の集合体である。「沈黙のらせん」を生み出しやすい。

 上記のモデルなら、かなりのヴァリエーション(対象領域)をカバーすることができる。ちなみに、シェフモデルをG&S(1964=2023)の「オープン認識」に適用すると、次のようになる

4.シンボリック相互作用論と4つの論難

1)社会構造が人々の解釈過程に与える影響を軽視している(主観主義批判)。

2)人々の解釈過程から社会構造が生み出されるプロセスが理論化されていない。

3)社会構造それ自体に関する分析(理論化)が欠如している。

4)社会構造を経験的に解明する手法が準備されていない。

1)については既に検討した。ここでは4)について検討してみたい。

4-1. 研究者と研究対象者の相互作用

 SIは、社会というものを、互いにブラック・ボックスの関係にある複数の人々が、自己相互作用(考慮の考慮)を通じて、互いに相手のアイデンティティと相手の目に映った自分自身のアイデンティティの双方を探り合いながら、互いに自らの社会的行為を相手のそれにかみ合わせていく、そうしたプロセスとして捉えた。

 ここから、この視点を携えて、実際に調査研究を行う際には、インタビューや手記、手紙、自伝の収集などを通じて、研究対象となる人々の「二つの」アイデンティティを直接把握しようと努めなければならない。Blumerはこのように考えている。すなわち、

「シンボリック相互作用論の立場から研究者にもとめられるのは、人々がそれを通じてみずからの行為を構成する解釈の過程〔=自己相互作用〕を把握するということである。・・・・この過程を把握するためには、研究者は、みずからが研究している、行動主体としての活動単位〔行為者、集団〕の役割[45]を取得しなければならない。・・・・この過程は、活動単位の側から見られなくてはならない。こうした事実を認識していたからこそ、R・E・パークやW・I・トーマスといった学者の調査研究は、あれほど優れたものとなったのである」[46]

「活動単位の役割を取得せずに、いわゆる『客観的』観察者の超然とした姿勢で、解釈の過程を把握しようとすることは、最悪の主観主義におちいる危険性をおかすことになる。というのも、客観的観察者なるものは、解釈の過程を、それを実践する活動単位のなかで生じるものととらえず、かわりに、自分自身の当て推量でその過程を充当してしまうからである」。

「私の結論は・・・・極めて短いものである。それは一つの単純な命令法で表現することが出来る。すなわち、経験的世界の特性を尊重し、そうした姿勢を反映するような方法論的な立場を確立せよ。シンボリック相互作用論がなしとげようとしていることはまさにこのことであると私は思う」。

 上記の引用文が要請していることは、「活動単位は斯く斯く然々のパースペクティブを持っているはずだ」ではなく、彼らがどのようなパースペクティブを持っているのか、それを実際に調べ、その実像[47]を把握しなければならない、ということである。

 しかしここで二つの問題が発生する。

3-2-1. 「活動単位」の内実

 ブルーマーは相互作用の担い手に言及する際に「活動単位」[48]という言葉を使っている。これには二つの理由がある。

 1)社会の内実を相互作用という概念で説明し尽くすため。

 2)ミクロレベルのみならずマクロレベルの研究も行えるようにするため。

 

 とりわけ問題となるのは、「2)」である。活動単位=個人である場合には、なるほどブルーマーも言うように、活動単位の役割=パースペクティブを取得するのは可能であろう。しかし、活動単に=集団、それも大規模な組織、とした場合、研究者はどのようにして「その」役割を取得すれば良いのか。集団の役割とはそもそも何なのか? それは果たして集団を構成するすべての個々人の役割の「総和」を意味するものなのか? ブルーマーの説明を見てみよう。

「労使関係の分野においては、大規模で複雑な形式で観察を行わなければならない、というのは、困難なことであるが、現実にそくすためには致し方ないことである。労使関係における観察の意義と近代的な戦争における偵察の意義には相通じるものがある。自らの偵察地点にいる兵士には、その兵士の能力がどれほど優れていようとも、戦場全体で何が起きているのかを知ることは出来ない。社会学者が、ある工場で観察を行う場合にも、間違いなく同じ限界を感じることになるであろう。適切な観察を行うためには、観察者は、そのフィールドで起きていることを感じとり、さまざまな役割を取得し、さまざまな状況を判断し、そうすることを通じて、そうしたさまざまな事柄を、ある統一された形式にまとめあげるという、困難な作業を行わなければならない。われわれがそれを好むと好まざるとに関わらず、こうした観察が的確なものであるためには、高度な創造力を伴った研究者の判断が必要とされるのである」[49]

 これは、SIがミクロ主義である[50]という批判に対して、否、SIでもマクロな分析はできると回答したブルーマーが、その論拠として提示した論文の結論部である。Wallace and Wolfも言うように、ブルーマーは説得力のある回答を用意していない[51]。さしあたり、活動単位=個人、とするほうが良さそうである。

4-2. 活動単位の「役割」とは?

 では、活動単位=個人、とすればすべて問題が解決するか、と言えばそうはならない。

 ブルーマーは、社会学者の研究姿勢を説く際に、「経験的世界の特性を尊重」というフレーズを頻繁に用いる。すなわち、社会学者は研究対象の実像を把握するよう努めなければならない、ということである。

 それを踏まえてブルーマーは、社会学の一分野であるSIは、活動単位の役割の実像を把握しなければならない、と強く要請する。先に見たとおりである。もしそれが研究対象となっている人々のパースペクティブやアイデンティティを「直に把握すること」を意味しているのであれば、結論を先取りするならば、それは“不可能”である。

 前回、前々回の授業でも繰り返し強調したように、社会的相互作用を行っている個々人は、互いに相手がブラック・ボックスの関係に置かれている。すなわち、個々人はどれだけ互いに社会的相互作用を行おうとも、互いに相手を見通すことは永遠に不可能なのである。

 であるならば、当然ながら、研究者と研究対象者との関係も、ブラック・ボックスの関係にあるものと考えなければならない。つまりいくらインタビューという「社会的相互作用」を行い続けても、研究者が研究対象者(活動単位)の役割を直に把握することは不可能である、と考えなければならないのである。

 極論するならば、どれだけどんなやり方で頑張ったとしても、そこで研究者によって「把握」された活動単位の「役割」とは、研究者による「想定」、すなわち、「自分自身の当て推量」の域を超え出るものにはならないのである。

 であるならば、その「当て推量」が、ある一定の基準を満たしていればOK、という方向に舵を切り直さなければならないことになる。しかし、その基準についてブルーマーは「経験的世界の特性を尊重」以上をことは何も述べてはいない。

 ここで、G&Sが1965年の著作で概略を示し、1967年[52]に、その詳細を提示したGTAアプローチの四つの基準が役に立つ。

 1)適合性 fit

 2)理解可能性 understandable

 3)一般性 general

 4)統制可能性 controlable

 絶対的な基準にはならないかもしれない。しかしこれが「プラグマティズム」哲学[53]の流れをくむSIのあるべき姿である。


[1] 見えない、わからない

[2] の中身はおろか、その外見さえも

[3] 1916~1996

[4] https://web.archive.org/web/20120223124151/http://sites.google.com/site/articlesoftsukasak/yamaguchi/02

[5] 富山病院看護学校社会学20110511(死のアウェアネス理論): 高山龍太郎のブログ (archive.org)

[6] GTA(Grounded theory approach)。データ対話型理論。データの中から理論を生み出す、という方法。データも見ずに、学説(文献)だけで、頭の中で壮大な理論(Grand theory)を作るT. パーソンズの立場を皮肉って、Grounded theoryと命名した。

[7] https://www.amazon.co.jp/%E6%AD%BB%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A2%E3%83%8D%E3%82%B9%E7%90%86%E8%AB%96%E3%81%A8%E7%9C%8B%E8%AD%B7%E2%80%95%E6%AD%BB%E3%81%AE%E8%AA%8D%E8%AD%98%E3%81%A8%E7%B5%82%E6%9C%AB%E6%9C%9F%E3%82%B1%E3%82%A2-Barney-G-Glaser/dp/4260347772

[8] 調査を行って、調査結果をある一定の理論枠組みで分析すること。

[9] 末期癌

[10] 70年代には、医療費の高騰と患者の権利意識の高揚に伴ってほとんどの医師が告知を行うようになった(https://www.amazon.co.jp/%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E8%AC%9B%E5%BA%A7-%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%AD%A6%E3%80%8814%E3%80%89%E7%97%85%E3%81%A8%E5%8C%BB%E7%99%82%E3%81%AE%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%AD%A6-%E4%BA%95%E4%B8%8A-%E4%BF%8A/dp/4000107046226-7頁)。1990年代に入り、ほぼ100%告知が行われるようになった。

[11] https://www.amazon.co.jp/%E3%82%88%E3%81%8F%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%82%8B%E5%8C%BB%E7%99%82%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%AD%A6-%E3%82%84%E3%82%8F%E3%82%89%E3%81%8B%E3%82%A2%E3%82%AB%E3%83%87%E3%83%9F%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%82%8B%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA-%E4%B8%AD%E5%B7%9D-%E8%BC%9D%E5%BD%A6/dp/4623058212、40頁。

[12] 奥さんと娘さんによれば、ストラウスがSymbolic interactionismの理論構築を、そしてGlaserがGTAという研究方法を作った、とのこと。しかしGTAはストラウスの作った研究方法として有名になってしまい、「ストラウスに横取りされてしまった」とのこと。

[13] 伊藤勇徳川直人編『相互行為の社会心理学』北樹出版(2002年)[第3章]。

[14] https://web.archive.org/web/20180119023724/http://www.geocities.jp/ptk20120118/20170801-31/20170901-30/20171001-31/20171101-7/20171108-13/20171114/201711141642/Lecturenotes/consensus.html

[15] =パースペクティブ、頭の中

[16] 国籍

[17] Blumerと同様に、個人のみならず集団も含めている。

[18] =相互作用=社会的相互作用

[19] https://web.archive.org/web/20201120181051/https://www.jstage.jst.go.jp/article/soshioroji/33/3/33_79/_article/-char/ja/

[20] 後藤将之訳、1991年、113頁。

[21] 社会成層

[22] 「単位」(unit)

[23] =認識文脈

[24] いつか論文で書こうと思っています。

[25] https://drive.google.com/drive/folders/10ym4sZlo1SshqrXMEPktzEFuHAU5JPIw

[26] 来週説明いたします〔課題資料で〕。

[27] それが提示されたのが、Glaser and Strauss, 1964=2023、今読んでいる邦訳です。

[28] 私が思うに、G&Sは、先に(1964年に)認識文脈論を作成して、その後に(1965年に)それを医療現場に適用し、分析し、その分析結果を発表した、という順番で研究を進めたではないと思います。先に1965年の本の内容が既に完成していて、そこで使った認識文脈論を「まず最初に」「一般理論として」発表し(1964年)、しかる後に本の方(1965年)を後で公刊する、という順番を取ることで、「あたかも」1965年の著作は、認識文脈論という一般理論の一適用例なのだ、という体裁を取りたかっただけ、なのだと思います。同じようなことはHerbert Blumerもやっています。まず先に「シンボリック相互作用論の方法論的立場」という論文を完成させ、しかる後に、その内容と整合性を持つような、その内容に適合的な「ジョージ・ハーバート・ミードの思想の社会学的意味」という論文を作成し、まず先にミード論文を発表し(1966年)、その論文を第2章に再録した既発表論文集の第1章の書き下ろし論文として「方法論」論文を収録した『シンボリック相互作用論』(1969年)を公刊することで、あたかも「ミードの思想をベースにしてSIの方法論を作りました」、という体裁を取ろうとしました。Cf. 内田健(https://www2.sal.tohoku.ac.jp/soc/cgi-bin/wiki.cgi?page=%A1%D8%BC%D2%B2%F1%B3%D8%B8%A6%B5%E6%A1%D9%C2%E882%B9%E6

[29] =https://eowf.alc.co.jp/search?q=paradigm

[30] 何故「構造」という言葉をわざわざ使ったのか。それは、当時(今でも)社会学のあるべきスタンダードとされている構造-機能主義(Parsons, Talcot)を意識していたからである。パーソンズの理論は、人間のパーソナリティを規定する相互作用を規定する社会構造の解明を重視するものであった(https://archive.vn/RqpZ1#selection-559.1-559.394)。それに対して、当初、SI(シンボリック相互作用論)は、ブルーマーに代表されるように、その真逆の理論的主張を強調していた(「主体的人間」「動的社会」)。しかしそのようなブルーマーの理論化には、「非構造論的偏向」の傾向がある、すなわち、社会学が主たる研究対象とするべき社会構造に対する視点がない、と批判されることになった。なので、ストラウスもG&Sも、社会構造に対するSI的な視点をなんとかひねり出そうと考えて、「構造」という言葉を使ったのである。ちなみに、ブルーマーが活動単位という言葉を使って、G&Sが相互作用者(interactant)という言葉を使って、相互作用の担い手に、個人のみならず集団や組織を含めたのは、「SIがミクロ分析ばかり行って、マクロな分析を行っていない」、「そもそもSIではマクロな分析はできない」という批判に反論するためである--加えて、あらゆる社会現象を「相互作用」の観点から分析し尽くしたい、というジンメル的な考え方もあったのだと思う--。

[31] 初期設定(=認識文脈)の初期設定

[32] 今では、アメリカでも日本でも「告知する」のが主流である。しかしながら、「告知」して、文脈がいったん「オープン」になったとしても、今度は、別のテーマに関して--いつ死ぬのか、どう死ぬのか、どれほど苦しいのかetc--、また(別の)閉鎖認識が始まる可能性がある。Glaser and Strauss, 1965=1988: 第6章。

[33] Wikipedia contributors. (2023, July 24). Thomas J. Scheff. In Wikipedia, The Free Encyclopedia. Retrieved 02:16, January 17, 2024, from https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Thomas_J._Scheff&oldid=1166959818

[34] =後藤将之訳、1991年『シンボリック相互作用論』勁草書房、276頁。

[35] ~1967年。定年退職。

[36] https://www.amazon.co.jp/-/en/Tamotsu-Shibutani/dp/0878555811

[37] T. J. Scheff, 1970, On the concepts of identity and social relationship, Tamotsu Shibutani (ed.), Human nature and collective behavior, Transaction, pp. 195-196.

[38] 患者の病状。

[39] 患者の頭の中。

[40] 尺度化。知能→知能指数→IQテスト。

[41] 「そう思う」にも、色々な思い方考えられる。また「思う」温度差の違いもある。←Black Box ness

[42]  注18[https://web.archive.org/web/20180119023724/http://www.geocities.jp/ptk20120118/20170801-31/20170901-30/20171001-31/20171101-7/20171108-13/20171114/201711141642/Lecturenotes/consensus.html]、思いっきり間違い!

[43] 2025/01/25a)

[44] 2025/01/25b)

[45] =パースペクティブ≓アイデンティティ

[46] https://megalodon.jp/2023-1019-1730-40/web.archive.org/web/20140331012543/http://www.geocities.jp/issn03890104no57/DPno0701Reflected/doctor/englishwriting/2013/Blumerascs.htm ⊂

https://sekaishisosha.jp/book/b354356.html

[47] 人や物事の、表面的な名声評判・うわさなどから知ることのできない本当の姿(https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E5%AE%9F%E5%83%8F/)

[48] 個人、集団、組織、コミュニティetc

[49] https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3492948/ecowww.leh.kagoshima-u.ac.jp/staff/kuwabara/19700121/doctor4.htm

 私の博士論文の結論。この考え方は修士論文(2025/01/25c))以来変わっていない。

[50] マクロな分析ができない

[51] Wallace and Wolfの見解:https://drive.google.com/drive/folders/10ym4sZlo1SshqrXMEPktzEFuHAU5JPIw

[52] https://www.amazon.co.jp/Discovery-Grounded-Theory-Qualitative-Observations/dp/0202300285

 =https://www.amazon.co.jp/%E3%83%87%E3%83%BC%E3%82%BF%E5%AF%BE%E8%A9%B1%E5%9E%8B%E7%90%86%E8%AB%96%E3%81%AE%E7%99%BA%E8%A6%8B%E2%80%95%E8%AA%BF%E6%9F%BB%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%84%E3%81%8B%E3%81%AB%E7%90%86%E8%AB%96%E3%82%92%E3%81%86%E3%81%BF%E3%81%A0%E3%81%99%E3%81%8B-%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BBG-%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%A4%E3%82%B6%E3%83%BC/dp/4788505495

[53] 「科学や哲学は、日常生活における諸問題から立ち現れ、その問題の解決に向けられる。・・・・多くのプラグマティストたちは、科学を、人間の知識がそうあるべき雛形と捉えており、同時に、人間の知識を発展するものとして、その結果として、人間同士の相互適応および人間の環境に対する適応を漸進的に促進するものと捉えていた」。

 人間の知識とは、人間が環境に適応するための道具である。科学は、そうした人間の知識の雛形(模範)である。これを特に「道具主義」という。

https://warp.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3492948/ecowww.leh.kagoshima-u.ac.jp/staff/kuwabara/CAPTION.HTM