米国の「反日親中」への憂慮

米国の「反日親中」への憂慮

大戦前「日米中関係」の教訓


 

 「日米同盟」から「米中戦略的パートナーシップ」へ――米国の対アジア政策の根幹に関わるこのような方向転換への動きが、今わが国民の心に深刻な懸念をかきたてている。何と九日間にも及ぶ異例ともいうべき米大統領の中国訪問――。アメリカは東アジアにおける国際政治の基軸を日米ではなく、米中に切り換え始めているのではないか、との懸念が広がっているのだ。

 根拠はいくつかある。まず何といっても、「戦略的パートナーシップ」という言葉――。これまでの「エンゲージメント」という、どうとでも解釈のついた言葉が、いつの間にか「同盟国」級にしか使わないかかる重要な意味をもつ言葉に置き換えられ始めているのである。そして、何といってもこの長逗留――。それも目と鼻の先にある「同盟国・日本」を全く素通りしての、ひたすら「中国のためだけ」の旅である。各方面から強い懸念の声が噴出するのも無理はない。

 それだけではない。むろん、これは米国の意向とは関係のない話だが、中国はこの大統領訪問日程にかの「南京」をも加えようとしたとされる。昨年の江沢民訪米の際の「真珠湾」に続くこの「南京」――。とすれば、日米から米中へ――というのは、少なくとも中国にとっては明確に方向づけられた反日=日米分断策以外の何物でもない、ということだけはいえるであろう。

 折からの日本株下落に対する中国株上昇――。こんな中で「何もしない、何もできない日本」に対する「アジア経済の優等生・中国」といった見方も米国民の間には広がっている。もはや日本をパートナーとは考えるべきではない、と書いたE・リンカーン・ブルッキングス研究所研究員のような反日論を誇大視するわけではないが、日米関係は今微妙な「試練の時」を迎えているであろうことだけは間違いない、とはいえるのではなかろうか。

 

◆戦争の原因は米国の「中国幻想」

 さて、冒頭から不景気なことを書いてしまったが、このように書いた理由は他でもない。こうした「日米中」関係の先行きに大いなる危惧を抱かざるを得ない、というのが率直な感想なのである。かつてわが国をあの戦争の泥沼へと追い込んだのは、こうした歪んだ〈国際構図〉に他ならなかった。それが今、まさにわれわれの前で再び頭をもたげ始めているのではないか、と懸念せざるを得ないのだ。

 今、筆者の手元にあるのは、一年前に原書房から刊行された問題の書『平和はいかに失われたか――大戦前の米中日関係・もう一つの選択』(ジョン・V・マクマリー原著、A・ウォルドロン解説)である。それによれば、あの戦争は日本の「一方的な侵略とか軍国主義のウイルスに冒された結果」などでは毛頭なく、むしろ当時の国際関係――端的にいえば反日に視点を定めた中国とそれに迎合した米国といった構図によってもたらされたものだという。日本はそうした敵対的構図の中で、自力で自らの中国における権益を確保すべく、むしろあのような強引かつ単独的な行動をとらざるを得ない所へと「追い込まれた」というのだ。

 当時、米国は中国には異常ともいえるほどの関心と同情を払う一方、アジアの中心的大国・日本に対しては驚くほど冷淡かつ無関心だった。そして、そうした米国の偏った態度(親中反日)に力づけられ、中国は日本に終始侮蔑的・挑発的な態度を取り続けたのである。それが中国による相次ぐ条約無視の行動だったが、かかる行為が日本をして、あのような行動を余儀なくせしめた背景だというのだ。

 当然のことながら、今日日米中の間に起こっていることが、これと同じ種類のものだというのではない。しかし、米国にもし、これと同じような中国への一方的幻想が今なお残存しているとしたら、やはり問題の種は依然としてそこに伏在しているというべきなのではなかろうか。たしかに、今日の中国はかつての「統一なき中国」ではない。しかし、中国は今なお共産主義を国是にし、熾烈な権力闘争とナショナリズムを政治の基礎におく、未だ真の政治的安定にはほど遠い国であるという事実も否定しがたいのである。にもかかわらず、その中国に日本に代わるアジアの基軸としての役割を夢想するとしたら、その帰結はやはり無視しがたいものなのではなかろうか。いずれにせよ、かかる「致命的な幻想」がかの悲劇をもたらした――というのが、この本がまさに説かんとする所でもあるのである。

 以下、大戦前のこの日米中の関係を、この本を手掛かりとして再検証しつつ、今日新たな展開を見せつつあるこの三国関係の意味を考えてみたい。

 

◆中国の背信と偏狭

 この本の原著者マクマリーは、一九二〇年代後半、中国駐在公使を務めた当時の米国における中国問題の最高権威の一人であった。ところが二九年、彼はワシントンの本省と意見を衝突させ、この中国公使の職を辞する。その彼が辞職後、ワシントン会議以来の極東情勢とアメリカの政策を振り返り、なぜ、いかにしてワシントン体制は崩壊したのかを問い、このままでは戦争が起こる――と警告したのがこの本の柱となっている彼のメモランダムなのである。しからば、マクマリーがこのメモランダムで具体的に指摘しようとしたことは何だったのだろうか。

 まず、ワシントン会議から話を始めよう。それは彼によれば、第一次大戦後の国際関係の変容に対応し、アジアに安定した秩序を作り出そうとする真摯な国際協調のための試みに他ならなかった。しかし、それにより生み出されたワシントン体制は、それを作動させようとする関係各国の心からの努力なしには、有効に作動し得ない微妙な体制でもまたあった。彼はこの体制の原則を次のように述べている。

 「その原則とは、各国がお互いの共存共栄を実行するための政策に協力し、他国の権利と利益を相互に尊重し(特に中国の政治的自主性を侵害しないよう心がけること)、特別な特権を要求せず、何か問題が生じた場合には、お互いが率直に協議するよう予め同意しておくことが有利であると考えることである」

 そして、そのためには、中国もまた「他の列強諸国との協力を快く受け入れ、ある一つの外国の権益を他国の権益と競争させたりせず、この原則を受け入れることが前提条件」――とされていたのであった。

 しかし、実際に起こったことはその逆であった。まず中国は、数年を経ずしてその協調的な態度を根本的に変えてしまった。彼らはこうした「体制」そのものを「恥辱」とし、所謂「権利回復」を性急に求める民族的な自己主張一色に染め上がっていってしまったからである。これは第三インターナショナルの既定政策を実行してきたボロディンやその他ソビエト政治顧問たちによって熱心に、かつ巧みに助長されたものでもあったが、その中でもとりわけ孫文は、これまでの米国や日本に対する援助要請の姿勢をかなぐり捨て、むしろ「反帝国主義」と「不平等条約」廃棄こそ、中国再生のための「基本教義」だとすら主張することになっていったのである。

 そうした排外的状況を象徴的に示すものが、二五年秋に北京で開催された「特別関税会議」における中国側代表の姿勢であった。彼は次のように述べている。

 「この指導者たちにとって……この会議は、外国人とその権利に対する侮蔑の念を派手に演出してみせて、自らの個人的な政治的運命を向上させる絶好の機会にすぎなかった。会議の議題そのものも、中国人議長の裁量によって会議召集の根拠となった条約を無視して進められる始末だった(中略)。……中国は、ワシントン会議が条件付きで中国に認めたものは当然のものとして要求しつつ、ワシントン会議の諸条約や諸決議は目ざめた中国の需要や要求にこたえていないとして、その妥当性を否定した」

 むろん、こうした義務の履行は拒否しつつ、権利だけは求めるという姿勢は、指導者たちだけのものではなかった。激しい暴力的示威運動によって、中国民衆はワシントン条約で保障されている外国人特権の「即時廃棄」を主張することになった。例えば二五年五月三十日、上海の共同租界で十数人の中国人が警官に射殺されたことにより発生した、後に五・三〇運動として有名になる反外国感情の排外主義的大波は、たちまちのうちに華南・華中の大半をのみ込むことになっていった。

 

◆「無法中国」に迎合した米英

 とはいえ、ここで指摘しておくべきは、こうした中国の背信と偏狭にもかかわらず、各国は少なくとも二六年の秋まではワシントン体制の維持に向け、緊密な協力をしようとしたということである。その原則は、中国側が自らの義務を履行し、かつ当該条約によって保障されている外国人の権利と利益を守る意思と能力を実証しさえすれば、関係各国は現行条約の変更を求める彼らの要求を前向きに考慮する用意がある――というものであった。

 しかし、問題はそれ以後であった。ここにも示したように、中国の無法な行動には協調して対処し、その上で、もし条約の改訂に応じるのであれば、それは列強の協調下で、それも国際法の原則の厳密な枠内で行う――というのがワシントン体制の精神であったにもかかわらず、この中国の無法にむしろ進んで迎合し、この国に対しては自分こそが本当の友人である、とでもいわんばかりにその歓心を買おうとする国が出始めたからである。それが英国であり、とりわけ米国であった。

 マクマリーによれば、米国民の中国に対するナイーブでロマンチックな親近感は、いわば「国民性」とでもいえるものであった。それは、米国が利己的な国々から中国を守ってやっているのだと信ずる若干恩着せがましい「自負の念」と、この国の教会組織がその布教活動により、数世代にもわたる中国との親密な関係を育ててきたという歴史的経緯からなるものであった。そしてそうした雰囲気の中で、例えば中国国民党は一七七六年の愛国精神(アメリカ独立時の)と二重写しにされ、蒋介石は中国のワシントンと目されたりもしたのである。

 かくて二七年、かかる雰囲気が形になって現われたのが、ステファン・ポーター下院議員による、以下のような驚くべき決議案の提出であった。

 「……中国人民は、一九一二年に採択した共和政体を強固にして効率的な基礎の上に置こうとする努力に関し、合衆国が供与する適切な援助、および激励を享受し得るものとする。
……偉大にして文明的な人民が、他の列強諸国の特権拡大のために強制された拘束条件によって制約されることは、不当至極である。
……極東の現情勢は、アメリカ合衆国が他の諸国との紛糾した関係から自由になる適切な時機である。これら諸国の利害と政策は合衆国とは異なるものである」

 これはワシントン体制下の国際協調政策を、利己的な国々の身勝手で反動的な目標に奉仕するもの、と一方的に極めつけるものであり、米国政府はそうした「不平等条約」体制下の米国の権利を、他の調印国の動向とは一切関係なく、中国のために無条件で放棄せよ、と要求するものでもあった。しかし当然のことながら、それは実質的にはワシントン体制の根底を掘り崩す意味をもつものであり、かかる要求が他国の利害や極東における究極の情勢に一体どんな影響を与えるか、一切考えることもない無責任な提案であった。

 

◆ 迎合で増長した中国の「排外感情」

 しかし、かかる迎合的な姿勢を示したからといって、先に指摘したような中国人の排外的感情が何とかなるものでもなかった。というより、当時の中国にはエリー・キドゥーリがいう所の「ナショナリズムの政治」が横溢しており、そのような譲歩は彼らの排外的感情に更に火に油を注ぐような効果しかもたらさなかったのである。それゆえ、状況はますます深刻化し、複雑化したというのが実情であった。マクマリーは述べている。

 「関係各国政府は、南北両グループとも、統治権を有する責任政府として(中国を)扱うことはできなかった。両派とも、地方的影響力以上の権威を有していなかった。両者とも正統政府として要求する利益に伴う対外義務を、民衆の不評を気にせず引き受けるほど強力ではなかった。また実際問題として、他国との関連については両派とも、外国の権利や利権をすべて削るという以外の何の政策ももっていなかった。こうした目的についても、いくつかの党派が互いに協力するわけではなく、ただ列強諸国を無視する点において競争し合っているだけであった」

 それゆえ、かかる政策の実際の帰結は、米英両国お互いが中国の好意を得ようと無思慮に競い合い、結果的にはその善良なる意図にもかかわらず、中国の無責任と暴力の風潮を更に一層助長することとなった――というのが正直な所であった。

 この頃、蒋介石は北伐の進行途上にあったが、この軍隊には政治局員もしくは宣伝部員がかなり前を先行し、北伐軍は中国人の生計の道を奪ってきた外国人の桎梏から農民を解放し、自由にするためにやって来たのだ―と宣伝していたという。そしてその際、孫文の論文が引用され、中国の対外貿易は輸入・輸出とも帝国主義者への「貢ぎ物」であり、中国人の長期にわたる貧困と苦難は、中国の意思に反して強制されてきた対外貿易の結果である―とも強調されていたという。むろん、そうした工作の底流には、中国人の外国人嫌いの心情が限りなく存在していたから、かかる「宣撫」の効果はまさに絶大であった。

 マクマリーはこうした中国の状況を分析しつつ、そうした中国に無原則的に擦り寄り、その機嫌を取り結ぼうとする米国や英国の宥和的な姿勢を批判し、重ねて次のように述べている。

 「外国人の利益はすでに損なわれているのに、関係諸国が争って中国側の要求に――中国人は外国人を海に放り込みたいだけなのだ――あいまいに譲歩しつづけることで望みをつなぐなら、事態は破滅的になるだろうということが容易に理解されなかった。外国政府、特に米国と英国は、嵐に屈しようとしたばかりではなく、自国のほうが、他の国より従順なことを中国に示そうと躍起になっていたように思われる」

 

◆日本へ向けられた排外の矛先

 こうした中で起こったのが、二七年三月の南京事件であった。この地にいた北方軍閥である馮派の軍隊を壊滅せしめるべく掃討作戦を展開していた蒋介石軍が、突如その矛先を在留の外国人に向けたのである。日本と英国の領事館が襲撃され、外国人の家屋が手当たり次第に略奪の対象となった。またその結果、若干の負傷者と六人の死者(英・米・仏・伊国人)が出た。これに対しては、米英の砲艦が艦砲射撃で襲撃者を追い散らし、ようやく事態は鎮定されることとなった。

 さすがに、この事態には米英両国も衝撃を受けた。中国国民党の行動は決して理想主義的なものではなく、それどころかむしろ風紀の頽廃した、外国人への憎しみをことさら煽る排外主義運動そのものに他ならないことを、彼らもようやく身をもって知ることとなったからである。またそれを指導者は統制できないし、統制するつもりもないことを併せて認識せしめられた。かくて、この時ばかりは彼らも共同歩調をとり、中国に対し適切な弁償を行うよう強硬な態度に出ることとなった。

 とはいえ、これに対する国民党政府の回答は全く不充分かつ誠意のないものであった。当然、列強は更に協同して圧力を加えようとしたが、この時の米国の態度が問題なのであった。彼らはまたしてもそこから一方的に脱落してしまったのである。強硬策は挫折に終わり、中国の無法は結果的に容認された。つまり、米国のかかる行動はワシントン体制の前提であった国際協力を無力化し、協調して積極的に行動しようとする各国の立場を根本から裏切ることとなってしまったのである。

 一方、南京でのこの事件は、これまで国民党の政治運動に必ずしも共鳴しなかった中国人にも深刻な群衆心理的作用を及ぼすこととなっていった。マクマリーは書いている。

 「国中に不穏な緊張が高まった。どこでもいつでも、暴動が突発しそうな気配が漂っていた。一九七二年も残り少なくなった頃には、宣教師も不本意ながら奥地での布教活動をやめ、また商人たちは、外港でのビジネス活動を放棄するしかなかった。中国在留外国人の大部分は、あきらめて故国へ帰るか、嵐が過ぎるまで上海に終結し避難していた」

 二八年、山東省済南で起こった、蒋介石軍の先遣隊と日本軍との衝突(有名な済南事件)は、まさにそうした状況下のものであった。済南は当時日本の権益が集中していた所であったが、そこに排外的な意気上がる北伐軍が進軍してきたのである。衝突はこの過程で、日本軍が日本人居留民に適法な保護を与えようとして起こったものだが、戦闘は日本軍の自制もあり、局地戦に留まった。しかし、中国側はこの事態を誇大視し、日本軍の行動を「敵対的干渉」とみなして激しい抗議の声を上げたのである。その結果、彼らの外国人排斥の矛先は英国から日本へと劇的に変わることとなった。中国全土にわたって強硬な反日ボイコットが行われ、日本の対中貿易は甚大な損害をこうむった。そればかりか、中国に在留する日本人の生命や日本の権益が危殆に瀕せしめられたのである。

 いうまでもなく、これはどの国が当事者となって起こっても、不思議ではない事態であった。けれども残念なことに、この出兵の裏には日本軍の「華北制圧」の企みがあるのではないかという穿った受け止め方が米国などを中心に広がった。現場の近くにいた外国人の多くは、日本軍は自国居留民保護のために誠意をもって行動したと主張したにもかかわらず、米国政府は日本軍は故意に済南事件を起こした――との見解をあえてとったのである。それはまさに、日本の国民党に対する「敵意の証拠」に他ならなかった。この頃、マクマリーが指摘するごとく「アメリカ人は中国国民党を自分の理想を具現する闘士のように」、一方的に肩入れするに至っていたからである。

 

◆国際協調を破っ米国の「反日親中」

 しかして、この事件に前後して起こったのが、中国による唐突な日清条約廃棄宣言であった。これは、当時の日本政府がまとめた外交覚書にもあるごとく、「条約の尊厳性の問題を抜きにしても、この種の処置が認められるならば、条約や協定で合法的に日本に保証されている権利や権益を、一切壊滅させてしまう結果となる」――といった重大なものであった。

 日本政府としては、それはワシントン体制の枠組みそれ自体にも関わる問題でもあることから、政府はこの件についての米国政府の理解を得べく、内田康哉伯爵を米国に派し、その見解を同政府に伝えることとなった。というのも、このような問題に関しては、「折にふれて率直にお互いの意見を交換」し、「可能な限り連携して行動する」――というのが、同条約に込められた精神でもあったからである。

 しかしながら、米国政府の反応はまことに冷たいものであった。木で鼻をくくるごとく、「米国政府は、国民政府が国際慣行の最高基準に従って行動しようとしているものと確信し、国民政府がその意図を行動で示すだろうと期待している」――というのが、その回答であったのである。それは要するに日本の主張に対する不同意の表明であり、換言すればその〈中国びいき〉を言外にほのめかすような内容であった。マクマリーは指摘している。

 「米国政府の理屈や意図がどうであったにせよ、この回答は日本政府に対する拒絶と同じであった。特に条約の遵守という基本問題で、中国が横車を押したのに対し、アメリカ政府は日本にきびしく、中国に好意的な立場を取ったのが、日本にとっては重大だった。アメリカのこうした姿勢は、……中国の高飛車な行動を許容し、またそれがさらに一層反抗的な行動を中国にとらせることになるであろうことを、日本人は理解したのである」

 さて、このような事態の経過が、二六年秋以降の日米中関係を特色づけるものだった。むろん、厳密にいえば、これに米中間の新関税協定の締結、中国による一方的な治外法権規定の無効宣言……といった事実もつけ加わるのだが、要はワシントン体制の枠組みが完全に有名無実化してしまった、という現実だったのである。
いうまでもなく、日本は地理的な必然性により、他の列強諸国とは比較にならないほど経済的に、それゆえにまた政治的にも中国へ大きく依存していた。そして、その日本の立場を最低限保障するのが、このワシントン体制であったのである。にもかかわらず、中国はこの条約に真っ向から違反する日本に対する敵意と無責任の政策をとり続け、一方米国はそれを押さえるどころか、むしろそれに迎合し、へつらうような姿勢すら見せたのである。

 「協調政策は親しい友人たちに裏切られた。中国人に軽蔑してはねつけられ、イギリス人とアメリカ人に無視された。それは結局、東アジアでの正当な地位を守るには自らの武力に頼るしかないと考えるに至った日本によって、非難と軽蔑の対象となってしまったのである」「我々は、日本が満州で実行し、そして中国のその他の地域においても継続しようとしているような不快な侵略路線を支持したり、許容するものではない。しかし、日本をそのような行動にかりたてた動機をよく理解するならば、その大部分は、中国の国民党政府が仕掛けた結果であり、事実上中国が『自ら求めた』災いだと、我々は解釈しなければならない」

 マクマリーはこのように述べるが、これこそが彼のメモランダムが訴えようとした主張の核心でもあったといえるのである。

 このメモランダムより六十年余、国際政治の様相は驚くほど変わったが、未だ変わらない部分もあるというのが正直な感想であろう。親中反日――それは杞憂に過ぎない部分もあるとはいえ、われわれにはおろそかにできない一つの時代底流――国際政治の現実の一つでもあるからである。(日本政策研究センター所長 伊藤哲夫)

〈初出・『明日への選択』平成10年7月号〉