「僕の評価につながるから教会にきてほしい」
彼はスクールの人に見られたらまずいと、少し離れた駅で待ち合わせをして、駅ビル内のレストランに行った。クリスチャンなら、食事前に祈らないの?と私が聞いたことで、彼はさらに顔を明るくした。私が宗教にとても興味があると思ったのだろう。
彼は、自分がどれだけ日本に暮らしたいかということ、日本人と結婚して永住権が欲しいと思っていること、アメリカの田舎出身で、父親は移民だからアメリカでいい就職できないことなどを話した。「お役に立てることがあれば」と、社交辞令的に話したつもりだったが、では付き合って欲しい、次の日曜日に所属している教会に来てほしいと言われた。宣教師として来ているため、クリスチャンではない人を教会に呼ぶことが僕の評価につながると言った。「教会に行くくらいならできる」と思ってしまった私は、快諾した。
きっと20代前半で離婚してすぐ出会った40歳年上の既婚の彼同様に、私は「誰かに必要とされること」を生きている喜びとしてすがってしまったのだろう。年上の彼とはほとんど会わなくなって必要とされなくなったし、母からは幼少期から役立たずと言われ続けていたから、私なんかでもできることがあるのかと自分自身を疑ってしまう癖がついていた。アメリカ人の彼とは不倫でもないし、スクールに行かずとも英語で会話をしているのは勉強にもなるし、「付き合う」と言っても友達としてからだろうし、とてもいいことだと感じた。