「400歳の街」なぜニュータウンの真ん中に 大阪・千里
ニュータウンの中心、北大阪急行の千里中央駅から南へ約5分歩くと上新田天神社の鎮守の森だ。辺りには家紋入りの瓦ぶきの屋根と白壁の住宅。周囲を団地群に囲まれた上新田1~4丁目の約100ヘクタールは開発の「除外地」と呼ばれる。
千里ニュータウンは広さ1160ヘクタール、住居数約4万戸、人口約9万人。1958年の計画決定で「1320ヘクタールの土地買収」とし、上新田も含まれていた。
買収地の大半は森林や田畑だったが、府によると上新田地区には当時、約1000人が居住。7割が農家で、古文書「新田由来記」によると、17世紀前半に新田の開発が始まった。400年前のニュータウンなのだ。1873年開校の新田小学校の旧校舎(1900年建築)は当時では珍しい純和風の建築で府の指定文化財だ。
ニュータウンの用地買収は難航した。「60年安保」の時代で、農業者は労働組合と手を結ぶ「労農提携」で対抗。府は「府民の住宅確保」の錦の御旗を掲げた。府職員として開発を担った片寄俊秀・大阪人間科学大学教授は「街開きの式典の周りで『土地取り上げ反対』のむしろ旗が翻っていた」と振り返る。
上新田でも反対の声が上がり、府は1960年5月、専門家会合で、同地区のニュータウン開発を断念。7月には用地買収対象を「既存集落周辺を除いた1155ヘクタール」に縮小、同地区を「除外地」とした。府の試算では住宅は当時、18万戸不足し、待ったなし。片寄教授は「府にとってニュータウン開業は最優先課題。人が生活する上新田を無理に開発するのは時間がかかりすぎ、困難だった」と話す。
「取り残された街」とも言われた上新田。今どうなっているのか。11月の日曜日、上新田天神社は七五三を祝う親子でにぎわっていた。初詣にはニュータウンから約2万人の参拝客が訪れるという。千里中央駅からの参道は参拝客でごった返す。
千里ニュータウンではコミュニティー形成が課題とされる。天神社の中村暢晃宮司は「人は人とのかかわり合いの中でしか生きられない。天神社がニュータウンの人にとって、コミュニティーの場所としての役割を果たしている」と強調する。上新田に古くから住む氏子総代会会長の山田昭治さんは「若い人は天神社を『パワースポット』と呼ぶ。非日常の空間がうらやましいのでは」と話す。
天神社では毎年1月、無病息災を願う火たきの行事「とんど祭り」がある。8メートル超の松を100本の竹で支える準備作業は「旧村」と呼ばれる昔ながらの地区の自治会9班が順番に担当。来年は8班だ。自治会のほぼ全戸にあたる約160戸が氏子。地区内に相次ぎ建設されたマンションの住人との交流も進み、伝統の秋祭りでは、みこしに乗る小学校4年生8人の「乗り子」は近年、マンションの子らが占める。
上新田はニュータウン開発による鉄道・道路網の整備で恩恵を受けた。地価は上昇、住人は1万8000人を超えた。一方、ニュータウンの住民は天神社や地区の自然に癒やしを求める。片寄教授は「千里ニュータウンは上新田に救われた面もある」と指摘する。400年前のニュータウンの上新田と、50歳を迎えた千里ニュータウンがお互いを補い合いながら未来へ向かっている。
(大阪地方部 泉延喜)
[日本経済新聞大阪夕刊いまドキ関西2012年12月19日付]