ここは私たちみたいな人が堂々としていられる場所

そして母との話にもなった。私の体に残っている傷を見ると、抱きしめてくれた。彼女の人生も、大好きな人たちにアイデンティティを認めてもらえず困難だったのだろう。私からはあえて聞かなかったが、彼女が自分のセクシャルマイノリティの話をした。今のようにLGBTQ+など言葉がない時代。「思い切り差別があるし、認められていない世界だけど、ここで自分を大切にし、ありのままの自分を愛し貫きたいからこの恰好をしている、ちっとも恥ずかしくない」と話した。私は歩き続けて、気付かない間にサンフランシスコのレインボーフラッグタウンにいたのだ。彼女は、「知らずにここに入ったの?」と大笑いしていた。「ここは私たちみたいな人が堂々としていられる街なのよ」と。

虹色の横断歩道があるサンフランシスコ Photo by iStock
 

私は、自分が本当に世間知らずで、いかに小さく狭い世界にいたのかが分かった。コーヒーを受け取りに行くのを忘れて話していたので、お店の人がテーブルまで持ってきてくれた。初めて飲んだスタバは、甘すぎてびっくりした。

「なぜ私のことを掛けてくれたのですか?」と聞くと、「人に親切にするのに理由はないし、見返りも求めないからよ」と言った。
彼女は続けてこう言った。

「敬虔なクリスチャン家庭で育って、親はまあびっくりよ。今の私の姿に。勇気を振り絞ってカミングアウトしたけど親は受け入れられないし、頭がおかしい病気なのではと病院に連れていかれたし、汚いものでも見るようだった。神様にも叱られるかもしれないけど、これも神様の悪戯なのか、計画のうちね。これを神様からのギフトと受け取っているわ。人として正しく、人に親切でいることは生きる上で軸でしょ。見た目やアイデンティティ、セクシャルマイノリティがどうであれ、私たちはまず人としてキチンと生きなきゃいけない。

他人を敬い親切にするってクリスチャンでいることを大切にしているし誇りだわ。親は、そう教えておきながら子供に対しては敬えない。親って子供に対してはそういうところあるのよね。自分たちが絶対って、自分たちが正しいって」