「女啄木」と呼ばれた歌人がいた。石川啄木(1886~1912年)と同じ、岩手県出身の西塔幸子(さいとう・こうこ)(1900~36年)である。全国的には無名だが、故郷への強い思いや生活苦を吐露した啄木に通じる作風で知られ、大正から昭和初期の岩手歌壇で活躍した。
盛岡市の南隣の岩手県矢巾(やはば)町(旧不動村)出身。県師範学校女子部卒で、岩手県内の三陸沿岸や北上山地の小学校で教鞭(きょうべん)をとりながら、8人の子宝に恵まれ、教師、妻、母の3役をこなしつつ約1千首を残した。実弟の大村次信氏が、そのうち約450首を遺稿歌集「山峡(やまかい)」にまとめた。
「いちごゼリー作る手もとを見守れる三人の吾子のひとみよろしも」「同僚の冷たき仕打に泣きぬれてうなだれ帰る畑の細道」「愛人が待つとふ人に髭(ひげ)それとすすめし後の何か淋(さび)しき」
「いちごゼリー…」は、母親の視線で子供たちの日常を生き生きと描写。「同僚の冷たき…」は、当時は少なかった女性教師として職場で苦悩する思いを表現したのだろう。「愛人が…」は、愛人のところへ行くという夫との微妙な関係をうかがわせる。
『山峡の歌人西塔幸子その作品と生涯』を編集した元川井村(宮古市)職員、横道広吉さん(65)=宮古市=は「周りを気にせずに本音を歌に残したので、共感が得られるのだろう」と説明する。
4月、幸子の最後の赴任地、宮古市江繋にある記念館を訪ねた。盛岡から、国道106号と340号を車で約1時間半。地区の振興センターに、併設されている。78歳の女性が立ち話で、「以前は、記念館のある場所に江繋小学校があった。小さい頃には、近くに幸子が住んでいた住宅もあったのよ」と、教えてくれた。
玄関を入ると、展示スペースは7メートル四方しかない。『山峡』の序文に目が留まった。筆者は言語学者であり、くしくも啄木の友人だった金田一京助(1882~1971年)だった。
「読み終(おわ)って目がしらが熱くなるのを覚えた。(中略)歌集であるけれども、決して一女教員の風流韻事と見て止むべきものではなく、そのまま人間苦の体験記として数多の問題を投げる尊い生活記録であるやうにさえ思われる」
36年の短い生涯を全力で駆け抜けた「女啄木」の作品と、それを育んだ岩手の豊かな自然に、多くの人に触れてほしい。(盛岡支局 土樋靖人)
■私のふるさと岩手
盛岡市の西にある雫石町生まれ。北に岩手山、西に駒ケ岳を望む。温泉に恵まれ、スキー場や民間最大の牧場、小岩井農場も有名。