令和3年度、児童相談所での児童虐待相談応対件数は20万7659件。過去最高だった令和2年度をさらに上回った(厚生労働省の資料より)。相談対応件数とは、相談を受け、援助方針会議の結果により指導や措置等を行った件数だから、相談されずに苦しむ人もいる。

一切児童相談所への相談をすることもなく、母の虐待に苦しんでいたのが若林奈緒音さん(40代・仮名)だ。幼少期から母親の暴言・暴力といった心理的・肉体的虐待にさらされてきた。その後信頼できるパートナーに巡り合えたことで初めて自分は自分のままでいいんだと思うことができるようになった。そして「自分のように苦しむ人を増やしたくない」と自身の体験に向き合い、連載「母の呪縛」を綴っている。

虐待をする側のケアも、される側のケアも重要になる。
また、虐待を受けた方々の心のケアが大切なことを、若林さんの体験は教えてくれる。連載15回は、18歳のとき高校卒業を前に自立、しかしその後病気や性暴力の体験を経て、20歳で結婚したときのことをお伝えする。

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結婚は唯一の味方ができることだと思っていた

高校生のときから必死にアルバイトをしてコツコツ貯めたお金は、自立し、自分だけの城を作るためだった。高校卒業前にようやく母のもとから脱出ができ、仕事に邁進していた中で病気で入院し、犬の散歩中に車に引きずり込まれる性暴力にも遭った。成人式直前に結婚を決めたのも、このような中で気持ちが折れて、一番つらい時にそばにいてくれた人となら幸せになれると思ったことが大きい。

結婚式で誓った通り、死が二人を別つまで、生涯添い遂げたいと思っていた。迷いや不安もあったが、決して安易に決めたつもりではなかった。数年後の予定だった夫の両親との同居が結婚して数週間でスタートし、2人の結婚プランとは多少変わってしまったけれど、結婚は、誰よりも信頼できる唯一の味方ができること。自分に大切な家族ができることのはずだと思っていた

この人と結婚したら幸せになれる、と思っていた Photo by iStock

そう信じて進んだ結婚生活が、2年そこそこで破綻しそうになるとは思ってもみなかった。彼は、私の意見や意思を必要としていなかった。黙って彼の言ったことについてくればいい、それで幸せにしてやる。そう思っていた。

誰も、離婚を考えて結婚するはずがない。これまでの人生でどれだけ苦しくて辛くても、「家を出る、お金を自分で貯める、親に頼らない」と決め、ブレずに努力してきた自負があった。自分がようやく築いた城から出て、人生のパートナーとして選んだ彼と暮らし始めたことは間違いじゃないと思いたかった。当時はまだ今ほど離婚も一般的ではなく、結婚したらお互いに我慢や辛抱しながら添い遂げるのが普通と思っていた。

自分の両親を見ていてもそうだ。父がなぜ母と離婚しないのかと不思議でたまらなかった。時代もあっただろうけれど、男は外で働き家族を養えばそれで他は何もしなくていいという典型的な家庭だった。母は父に従い、家事を完璧にやりながらも、父に見えないよう長女の私が小学校にあがるころから手を上げ続けていた。

母が別人のように家事を放棄し始めたのは、私が中学生の時に起こった阪神淡路大震災がきっかけだ。お気に入りのお皿がすべて割れたのを見て、へたり込んでいたこともよく覚えている。いくら取り繕っても、一瞬にして割れてなくなってしまうお皿のように、家族の気持ちはバラバラになり、家も荒んでいった。

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