幼少期から母の身体的、心理的虐待に苦しんできた若林奈緒音さん(40代・仮名)。奈緒音さんのように苦しむ人を出したくないと、当時のことを絞り出すように伝える連載「母の呪縛」12回は、母から逃げるために周到に準備をして自立したのち、尋常ではない腹痛に苦しんだときのことをお伝えしている。奈緒音さんは仕事を休めないと鎮痛剤でごまかしていたが、もはや耐えきれなくなって実家の父親に電話をかけたのだ。

厚生労働省が発表した令和3年度の児童相談所での虐待相談件数は、令和2年度の過去最多を更新した20万7653件。相談されずに闇に紛れていたものが、虐待への意識が高まったことで明るみにでたという一面もあるかもしれないが、いずれにせよ虐待に苦しむ子どもたちが20万以上いることが考えられる。

奈緒音さんはそんな虐待の被害者だった。だからこそ19歳でのたうち回るような痛みに襲われても、数日だれにも相談ができなかった。「実家に甘える」という選択肢を持っていなかった。それを超えてまで連絡したほど、命の危険を感じたのだ。

母から逃れるためにコツコツ準備をして自立した奈緒音さん。前編「「毒母から逃げたい」自立した19歳の私が再び実家に連絡せざるを得なかった理由」では痛みに耐えに耐え、悩んだ末に父へ電話をかけるまでをお伝えした。しかしその電話はすぐに母につながってしまう……。

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母がうちにくることに…

痛みに慣れている私も耐えられないようなお腹の激痛。悩みに悩んだ末、23時ごろ父に電話をした。
救急車を呼ぶかどうか相談していると、電話の向こうで母に変わり、「大げさやな、大したことないのに救急車なんか呼んだら病院の方に迷惑やから、待っとき。行くわ」と言った。
こうして私はあっさりと、逃げまくっていた母の助けを借りなければならなくなったのだった。

母はある時期から私と妹を看護師にさせることを諦め、看護助手のパートをしながら、ホームヘルパーの資格を取り、働いていた。それだけ聞けば母も偉いと思うのだが、その頑張りや稼いだものを生活費に入れることは一切なかった。家族のお金はすべて父の稼ぎから出しており、パートのお金は”旅行にいきたい、遊びに行きたい”といった自分の楽しみのために使っていた。私がアルバイトをしたお金は家に入れろといい続けていたのに……。不思議でしかなかった。

母は、これまで抑圧されてきたことを恨みに思い続け、その反動があるようだった。
元々は勤勉で真面目。母自身も中学を卒業後、家庭の事情で進学を諦めて就職させられ、お見合いで父と結婚し、父の実家から抑圧されて正月も奴隷のように働かされていた。チャンスや可能性を与えられずにいたことは、私は幼少期から嫌と言うほど聞かされていた。だからその苦しみを理解はしていたけれど、我が子には同じ思いをさせないと考えるのではなく、自分の苦しみを我が子にも、とくに真ん中の私に味わわせようとするのが母だった。母は、阪神大震災を機に、間違った形で自分の人生を取り戻そうとしたようだった。

それまでは凝った料理を作り、パッチワークを得意として家を清潔に保っていた母が「家事をしない人」に変わったのは阪神大震災が起きた後のことだ。大切に綺麗に飾っていた食器がことごとく割れた。食器をかき集める母に父が「そんなものはあとでいい」と言ったその一言に、母は初めて父に向ってヒステリックに怒鳴り声をあげたのだ。
「私の気持ちなんてわからないでしょうが!」
そこから父に従順だった母が変わり、父が母にあまり強く言えなくなっていたのだ。

阪神大震災でお気に入りの食器がすべて割れた。その頃から母の心も壊れたようだった Photo by iStock