虐待とは、殴る蹴るの身体的虐待、性的虐待、食事を与えなかったり衛生を保たないなどのネグレクト、暴言や過干渉などの心理的虐待の4つに分けられる。そのうち最も多いのが心理的虐待だという。
厚生労働省が発表した「令和3年度 児童相談所での児童虐待相談対応件数(速報値)」によれば、全国225か所の児童相談所が児童虐待相談として対応した件数は 20万7659 件で、過去最多。心理的虐待が12万4722件で60%以上を占め、身体的虐待が4万9238件(23.7%)、ネグレクト3万1452件(15.1%)、性的虐待2247件(1.1%)と続く。
もちろんこれはきっぱり分けられるとは限らない。幼いころから母から心理的虐待、身体的虐待、そしてネグレクトを受けてきたのが若林奈緒音さん(40代、仮名)である。
奈緒音さんが虐待されるようになったのは小学生に入るくらいの頃。バレーボールの選手になりたかった母が、背の高い奈緒音さんに自分の夢を託し、とても厳しく指導し始めたのだ。自らバレーのコーチとなって奈緒音さんには大勢の前で殴ったりどなったり。バレーの強い中学への進学の推薦を得るために、骨折をしてもコートに立たせたこともある。バレーボールをやめた奈緒音さんにタバコの火を押し当てたり無視を続けたりということもある。
高校1年生のときには、男の子と一緒に帰っているところを見られ、イチゴジャムの瓶が入った買い物袋で顔を殴られ、40歳超えてから顔の歪みを直す手術をしたほどだ。
ようやく「自分そのものは愛されていい存在なんだ」と感じられるようになったのは、数度の結婚を経て、30代で結婚した相手に巡り合ってからだ。だからこそ今、「母がおかしかったのであって、私が悪かったのではない」と認められるようになった。そして自分と同じような人を出したくないと、その経験を連載「母の呪縛」として伝えてくれている。
連載12回前編では、綿密な計画を経て高校在学中に一人暮らしを始め、母から逃れたあとのことをお伝えする。
親元離れて不安はなかったかと言われたが
高校在学中から必死でアルバイトをしたお金を貯めて準備をし、高校3年生の1月からスタートさせた一人暮らし。
親元を離れて、不安ではなかったかと言われることもあったが、私はとにかく「親のコントロール、管理、支配、束縛、命令」から逃げたかった。
1人暮らしを始め、4月からはアパレルに入社し、販売員として働き始めたが、母はお金を無心したり、服をたくさん私に買わせたりと職場まで来て私にたかった。職場で皆の前で私のことを怒鳴った母に、はっきりとNOと意思表示をして数ヵ月。19歳の私は売り上げをあげたいと必死に働いていた。
仕事にも徐々に慣れていき、お金の無心や母からの連絡も来なくなって精神的な余裕が生まれてきた頃、大きな出会いがあった。当時流行っていた好きなミュージシャンや歌手、趣味などの掲示板があり、なんとなくメッセージのやり取りをした年上の男性と仲良くなったのだ。最初は、音楽や趣味のメッセージのやり取りだけだったが、彼もファッションが好きでアパレルの話や多くの共通点もあり、話が弾んだ。数ヵ月やり取りしたのち、離れたところに暮らしていたにも関わらず、わざわざ会いに来てくれた。
それからお互い忙しい仕事の合間を縫って、食事に出掛けるようになった。彼は会社員で土日が休み。私はアパレルの販売員だから休みは平日だ。それでも状況を理解してくれ、仕事終わりに車で会いに来てくれた。食事をしたり、知らない場所や新しい経験に連れ出してくれたり。大人で優しい彼といると、出不精で、新しいことや場所が苦手な私も、初めて心躍る感覚を持った。
これが、みんなが経験していた「青春時代のデート」だったのか。
母に怯えながらも、こっそり一緒に帰る。私にとってそれが「デート」だった。公園で缶コーヒーを飲んだり、一緒に帰るだけで精いっぱいだった。それでも帰るところを見られただけで母の逆鱗に触れ、イチゴジャムを入れた買い物袋で殴られた。それゆえの顔のゆがみを治療したのはつい最近のことだ。だから、誰かに監視されるでもなく、好きな人といられる時間の素晴らしさを初めて知ったのだった。