親ガチャという言葉がある。ガチャガチャのように当たり外れがある、という意味だ。そういう意味では虐待をする親は、親にも苦しい理由があるかもしれないけれど、「外れ」といえる。小学生の頃から母親の暴力・暴言・過干渉に苦しんだ若林奈緒音さん(40代・仮名)は、「外れ」を自分の力で抜け出す決意をした。高校生活アルバイトにあけくれ、学校でも最速で就職の内定を決めた。そして免許を取り、高校卒業を前に一人暮らしを始めることができたのだ。
若林さんが自分のように苦しむひとをこれ以上出したくないと体験を綴っている連載「母の呪縛」10回目は自立した生活が始まった頃のことをお伝えしている。
前編では、実家を出てもなお、母の呪縛から逃れることはできずにいたことをお伝えした。アパレルメーカーの販売員となっていた奈緒音さんのもとに、自分の服を買え、親戚の服を買えと母親がやってきたのだ。もちろん社販で、奈緒音さんの支払いでである。
しばらく購入したのち、断った奈緒音さんをどなった母は、そこで引き下がるのだろうか。
「もういいわ!」からわずか2週間後…
4月から働き始めて1ヵ月後、母は勤務しているアパレル店に来て、社販でこれもあれも買ってと言うようになっていた。数回購入した後に断ると、「もういいわ!」と怒鳴られた。ただこれで母は私のところに来ないと安堵していた。
しかし、わずか2週間後の夜、突然家に訪ねてきて、「数万円貸して」と言ってきた。一人暮らしで切り詰めているし、給与は手取りで10万前後だということを母は知っている。家賃は6~7万円くらいで、給与の割には高額だった。食費を切り詰めていたものの、手元に残るお金はほとんどなかった。そこから社販で購入すると当然引かれる。お店で仕事をするためにも自分の服も購入する必要があったし、母に頼まれて社販で購入したお金も母が払うことは一切なかった。高校時代のアルバイトからの貯金を切り崩すまでにはまだ至っていなかったが、月の給料で残るお金はほとんどなかった。
しかし、いくら「お金がない」と言っても、「いくらならある? いくらなら大丈夫?」と言ってくる。住んでいる場所を知らせるべきではなかったと後悔した。この日はやりすごしたが、ガラケーのメールに「お金貸して」と頻繁に連絡が来るようになった。最初は「お金がないから無理」などと返信していたが、次第に返信しなくなった。すると再び家におしかけてきたのだ。オートロック付きのマンションだったから、ずっと居留守を使った。
少ない給料からやりくりして、その中から貯金をしても、母の傍にいたら奪われてしまう。母は、中学卒業後から働きづめで青春時代を奪われた。だから私が楽しい青春時代を過ごすことを許さなかった。その思惑通り、私に輝かしい青春時代はなかった。けれど、私は母のようになりたくないと思った。
自分がこんなに苦労して抜け出すために、青春時代をアルバイトに捧げたことを後悔していない。しかし、いやだからこそ、もし自分に子供ができたら、同じように苦労させたいとは思わない。自分自身で必死に何とかしようとしない人、自分は努力せずに、すぐに人を頼ったり簡単にお金を借りようとする人間は、信頼できないと思った。私は、誰かを頼ることを頑なに恐れるようになった。未だに、親友や信頼できる数人以外にはうまく相談もできないし、助けを求める術が分からず、常に一人で何とかしなきゃと自分にプレッシャーをかけてきた。この時の状況を、父は知りもしなかった。