母親の暴言・暴力といった虐待に苦しんできた若林奈緒音さん(仮名・40代)は、「私は母の呪縛の中にいました。まさに親ガチャの”外れ”だったといえます」と言う。
若林さんへの虐待が始まったのは、若林さんが小学生の頃。バレーボール選手に憧れながら、中学を出て進学もさせてもらえず、働いて家族を支えるしかなかった母親が、奈緒音さんに自分の夢を託したのだ。自分の思い通りにバレーボール選手になれ。背の高い奈緒音さんを地元のチームに入れ、自分がコーチをして奈緒音さんをしごきまくった。大勢の前で平手打ちすることも常だった。さらに練習の時以外も、バレーボール選手でなかったら看護士になれ、デートはするな、家事をやれと、3人きょうだいのなかでも長女で真ん中の子どもだった奈緒音さんにだけ異常に厳しくしていたのだ。
高校1年生のときは彼と歩いているところを見られただけで、瓶の入った買い物袋で殴られたこともある。その顔の歪みは、40歳を超えた今も残り、先日手術をしたほどだ。
自分のように苦しむ人を出したくない。その思いで自身の体験を綴っている連載「母の呪縛」、前回は母親から離れるためにコツコツとお金を貯め、学校でもいの一番に就職の内定を取り、高校卒業前に一人暮らしを始めるまでをお伝えした。
実家を出て自立をして、母の呪縛から逃れることができると喜んだ奈緒音さんを待ち構えていたものは何だったのか。
自立のためにひたすらお金を貯める
とにかく母がいる家、親の「庇護」という名の「支配」から逃れたかった。
気づいたら、あれだけ嫌だった母のように、青春時代、特に高校3年生はバイトに明け暮れていた。私は同級生の中でもいち早く内定を取ったひとりだった。学校で貼りだされ、他の生徒の前でどうやって内定を取れたのかを説明するような会にも出席した。ほとんど卒業できる単位を取れていたので、アルバイトをしまくっていた。週末のコンパニオンに加え、平日は近所の駅ビルの高級肉屋でパッキングする係などもしていた。一度ウエイトレスもやったが、ミニスカートの制服を着せられてホールにでたときにお客様から足を触られて1日で辞めた。
卒業が近くなると、同級生たちはデートや、コンサート、夜行バスでディズニーランドに行く話などを良くしていた。しかし私は一人前になること、自立することだけを頭に置いて、とにかく必死にお金を貯めることだけに集中していた。3年間付き合っていた彼氏からも遊びに誘われはしたが、私は出かけることに興味がなかった。恋人とペアリングを買ったり、おそろいの高級財布を買ったりすることも流行っていたが、私はそのお金があったら生活のためのお金を貯めたかった。
だから、高校時代の思い出なんてほとんどない。そのせいか、大人になってから初めて経験することが本当に多かった。未だに同年代の人に出会うと「え?行ったことないの?ここも一度も行ったことないの?」とずいぶん驚かれる。その度に、私が過ごした家や時間は、やっぱり普通ではなかったのだと、改めて確認することになった。