兄が家を出た理由

しかし、受験期が近くなってくると、残念ながら母が兄の約束を守る気がないことがわかった。母は受験について兄が口にすると何かと言い訳をしてごまかし続けてきたし、センター試験の頃には大学受験を諦めるように勧めた。

「良い会社に就職できたのにやめたらもったいない! 大学行かなかったからいけたんやから! 大学出た後、良いとこ就職できるかわからへんし……」

結局、時間稼ぎに兄をダマしただけだったのだ。大学受験の約束は、母が勝手に兄にしたその場しのぎで、父はその約束自体知らなかった。兄がそんな母に対して、約束を破られたと落胆し、恨むのは当然のことだった。父とも母とも口を利かなくなり、そのうちに家にお金を入れるのを止めた。そして本当は大学入試をしていたと思われる頃、兄はお金を貯めて家を出た。

 

家を出る前に、兄はわたしだけにこう言った。

「春には、大卒の新入社員が入ってくる。自分より年上の人間が自分の下になる。そのやりにくさは、俺は仕事の能力でカバーする。お前は女だから受験させてもらえるか知らんけど、まあ頑張れよ」

兄は大学受験できるなら頑張れというつもりだったのかもしれない。しかし高校で一番優秀だったにも関わらず大学受験すらさせてもらえなかった兄のこの姿を見て、私の頭に大学受験をしたいという考えは一ミリもよぎらなかった。

高校3年生になり、私も進路を考える時が来た。私よりも何倍も優秀な兄が受験させてもらえなかったのに、私は大学に行きたいだなんて口が裂けても言えない。この気持ちは変わらなかった。普通はそう考える必要がないのかもしれない。しかし、幼いときから親に暴力をふるわれ、我慢や遠慮ばかりさせられていると、「自分なんかが」と考えがちで、自己肯定感が低く、何かを望む気持ちがあっても、どうせ無理だと諦めがちになるのだ。

とにかく兄ほどの好成績でもなかったし、家から出たいとお金を貯めることに集中しようと思った。しかし、母は改めて看護学校への受験を進めてきた。私が看護学校を受験するお金はあるのに、なぜ成績優秀で進学を望む兄は受験させてもらえなかったのか。当然断り、就職を目指すと言った。私は、兄への忠誠のような気持でもあった。母から顔が歪むほど殴られてからおよそ2年。この頃には身長も母より高くなっていた。そのためか、あれほどの暴力はふるわれなくなっていた。このときも、物を投げて暴言をはかれたが、あとはずっと無視される程度のことで済んだ。

私は宣言通り就活をし、有り難いことに秋に入る手前の早期面接1社ですぐに内定をもらった。それからは学校生活自体、消化試合のようなもの。ひたすらバイトをし、兄と同じように自分の身分証明書になる運転免許証を真っ先に取得した。その証明書と貯めたお金を持って、一人暮らしできる物件を探した。敷金礼金もクリアし、後は保護者のサインを残すのみの状態にして、家を出たいと父に話したのだった。

兄の姿を見ていたからこそ、「身分証明書」にもなる運転免許を真っ先に取得した奈緒音さん。兄がそうしたように、早くこの家から抜け出したかった Photo by iStock
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