学歴があろうがなかろうが関係ない
父は7人きょうだいで、兄と弟がいた。運動神経のいいふたりとは違い、父は運動が苦手で音楽が好きだった。学生時代は吹奏楽部に入ったが、祖母からは男のくせに音楽なんてと反対されたため、自分で必死にバイトして貯めたお金でサックスを購入し吹いていたと聞いた。その頃にできた親友2人とは大人になってからも仲が良く、当時の話を聞くことも多かった。
「家業は長男が継ぐもの」とされる時代。兄は家業、弟は大学に行き教師に。父は、高校を出てすぐに不慣れな肉体労働の仕事し、結婚をする頃にはベテラン長距離トラックドライバーになっていた。早朝から深夜まで働き、大学を出て教師になった弟よりも十分な稼ぎで家族を養ってきた。
だから父は「学歴があろうがなかろうが社会に出たら変わらない、実務経験がものをいう」という信念があったのだろう。もしかしたらコンプレックスの裏返しだったのかもしれないが、兄が大学進学を希望していると申し出たことに、父は難色を示した。父を前にすると、いつも兄は言葉に詰まっていた。このときも、自分がどれだけの成績かとかなぜ大学で学びたいのかということは言わず、「友達も皆行くし」という内容を小さな声で口にした。そして父は兄がどれだけ高校で優秀な成績を残し、期待されているのかも知らなかった。
父は、イライラした様子で声を荒げてこういうことを言った。
「本気で学びたいものがあるならまだしも、友達が行くからってなんだ? その友達が将来役に立つのか? 本当の友達なら、一緒に大学に行かなくても環境が変わっても友達や。男なら早く社会に出て経験積んだ方がいいだろう。後から入ってくる大卒を鼻で使えばいい。そんなに行きたいなら、奨学金制度とか調べたのか?」
絶望した兄が壁に穴を…
父の言っていることはもちろんもっともだ。しかし、兄が父に対して正直なことを言えない状況にあることを、父はわかっていなかった。私に資格試験の参考書を貸してくれた時のように、生き生きと学びたいことを話せばいいのに。学校で期待を一身に浴び、資格を取りまくっていることも言えばいいのに。大学に行った方が高卒よりも給料が高くなると言えばいいのに……。しかし兄は下を向いてしまった。母が兄を庇おうとしたが、「もういい」と言って2階の部屋に行ってしまった。
母は兄を必死にフォローしていたが、父の考えは変わらなかった。「本当に行きたいなら行かしてやる、あいつからその考えや思いを聞きたい」と言った。しかし兄はもう席を外していたし、兄にとっては相当な絶望に感じたのは言うまでもなかった。2階に上がるとドスッと音が聞こえた。兄が悔しさのあまり壁を殴り、へこませて穴を開けたのだった。