家事をやらなくなっていった母
早くに母親を亡くし、ずっと苦労してきた母の生い立ちを知る父は、初めのうちはこの様子を「子供も大きくなって留守番出来るし、たまにはいいんじゃないか」と容認していた。しかし、姪と過ごす時間が日に日に増えていくと同時に、家の事は目に見えて疎かになっていった。見かねた父が「物には限度があるだろう」といったが、母は空返事するだけで聞き入れなかった。
それからは、父に見つからないようにするためか、大量のお土産やもらったものは、箱に入れたまま、隠すように庭に出し、積み上げられていった。宝物であったはずの割れた食器が入った箱は、下に追いやられて、いつの間にかごみのようになっていた。頂いたものも、そのまま着たり着なかったりもしたが、食べ物はほとんどそのまま賞味期限が切れて放置になった。お金持ちの姪と一緒に、お金を散財することを楽しんでいるようであった。
それは我々子どもたちにも大きく影響した。まず、ある日突然「お母さんが中学生の時は、自分でお弁当作って持って行った。女の子なんだから、自分でやりなさい」と宣言した。大抵500円玉を渡され、パンか何か買って持って行きなさいと言われた。父の食事も作らなくなっていった。悪びれることなく、「今まで作っても口に合わなければ残してたでしょ。お弁当でも何でも好きな物を買って食べたら?」と言った。
家事は当然料理だけではない。母はその穴埋めを私や妹に「遊ぶ暇があれば、女の子なんだから洗濯しておきなさい。洗濯物を取りこんで畳んでおきなさい。食器を洗い、ごみを出しておきなさい」あれしておきなさい。これしておきなさいと命じるようになった。
「女の子は手に職つけるか、器量が一番。早く結婚して子供を産んで、家を買う。それが幸せなんだから、あなたたちのためにさせている」と言い続けた。もし忘れたり、できていなかったら、罵倒され、手あたり次第に物を投げつけてきた。手で殴るには私たちは大きくなっていたので、一升瓶やフライパン、ハンガー、縄跳びで叩かれた。投げた物は、投げさせた私が悪いと、自分で片付けさせられた。こうして、私の青春時代に家はさらに荒んでいった。