阪神大震災で割れた「母の宝物」
中学一年生の1月。母が慕っていた祖父が亡くなった。それから間もない17日5時46分、阪神淡路大震災が起こった。暗闇の中、大きな音を立てて本棚や食器棚が倒れた。父がそれぞれの子供部屋に駆け付け、下のリビングに連れて行き、懐中電灯やライターで辺りを照らした。我が家は幸いにも1時間ほどで電気が点いた。リビングと隣り合わせのキッチンの方を向いて、母がへたり込んでいた。
母の目の前には、これまで大切に扱ってきた食器の数々が無残に割れていた。
お手伝いの際に私たちが割ろうものなら、顔が腫れるほど叩かれた食器だ。母にとっては宝物だった食器は床に散らばり、その上には前夜に支度していたスープや調味料などこぼれていた。母は歯を食いしばって泣いていた。ひとつひとつ拾い眺める母に、父が「いまはそんなもんええやろ。あとにしろ」と言う。その瞬間、母は初めて父に向ってヒステリックに怒鳴り声をあげた。「私の気持ちなんてわからないでしょうが!」父も驚き、「なんや!」と大きな声で反論しようとしたが、妹が泣いたので父が抱きあげた。それから、母が子供のようにわんわん泣いたのが印象深く残っている。
それから母はほとんど口を聞かず、台所の片付けから始めた。割れた食器の破片を、一つずつ大事そうに段ボールに入れていった。そして、それを捨てるわけではなく、台所の勝手口から庭に出たすぐ傍に積んだ。いつか直すつもりだったかもしれない。
この時から、だんだんと母が変わっていった。
父が母の親戚の会社に転職
たくさんの方が犠牲となってしまった大震災の中、我が家は幸いにも食器が割れた以外は、大きな被害はなかった。。学校も数日の休校ののち再開された。兄は高校受験を控えており、母の兄に対する気の遣いぶりは尋常ではなかった。また、震災の朝以来、父と母との間にこれまでと違った空気が生まれた。
さらに、震災時のゆがんだ高速道路を見た母の懇願により、父は長距離トラックを辞め、母の姉の夫が経営している建築関係の会社に勤めるようになった。その会社には母の姉たちの夫、弟も勤務している親族経営だった。父方とはだんだんと疎遠になっていく中で、母は自分の家族、姉達と親密になり、感謝を口にするようになった。それまで父に口にしていた感謝が移ったようだった。そしてこれまでの一家の大黒柱だと感謝していた父への態度も変わっていった。
まるで解き放たれたかのように、それから母の家族へのかかわり方も大きく変化していったのである。
◇阪神大震災は母にとっての大きな「転機」のようだった。後編「私のことは殴っても父に従順だった母が、「家事をやらない人」に急変した理由」では、父が転職したあと、人が変わったようになった様子をお伝えする。