リストカットの痕にお別れを

リストカットの痕にお別れを
特に若い世代で深刻になっている「自傷行為」。

なかでもリストカットは、成長してからも残った傷痕が当事者を苦しめることがあるといいます。

傷痕をなくして「あのときの私に別れを告げたい」という思いに応える、新たなリストカット痕の治療法が考案されています。

(科学・文化部記者 井上紗綾)

リストカットに至る背景は…

15歳のときにリストカットを経験した30代の男性。
小学生のころから、父親にバットで殴られるなどの激しい暴力を受けていました。

さらに学校でもいじめに遭い、どこにも居場所がなかったといいます。
男性
「きっかけは、すべてに希望も望みも救いもなく、深い絶望の谷に落ちたからです。切ったときは、何かから解放された気持ちになったことを覚えています」
高校入学をきっかけに生活環境が変わり、リストカットをすることはなくなりました。親との連絡は絶ち、現在は平穏な生活を送っています。

しかし、手首に残る傷痕を見るたびに、暴力を受けていたあの頃に引き戻されるような感覚になるといいます。
男性
「電車でつり革を握った時とかに、自分の腕が目の前に見える。そうすると過去を思い出してつらくなるんです。傷痕を見る度に、本当に逃げ場のない当時のつらさを思い起こしてしまうというのが、自分自身にとって一番つらかったです」

リストカットとは

自傷行為を経験した子どもは決して少なくないという調査があります。

2021年に国立成育医療研究センターが小学校5年生から中学生2500人余りを対象に行った調査では「この1週間で自分の体を傷つけた」と答えた人はおよそ15%にのぼりました。

自傷行為は「リストカット」だけでなく、「髪の毛を抜く」、「自分をたたく」などさまざまなかたちをとります。

調査を行った山口有紗医師は、厳しい生活環境の中で抱えこんだコントロールできない感情に対処するため、みずからの体を傷つけてしまうのだと指摘します。
国立成育医療研究センター 山口有紗 医師
「つらい気持ちを言葉にできないときに、自分の体を切って血を流すことによって初めて自分がつらいということが見えるようになったと話してくれた子がいます。自傷行為自体がその子が生き延びていく上での対処行動として機能している部分があるのかなと思います」

“リストカット痕を消したい” 相談が殺到

体の傷痕を見るたびによみがえる感情から逃れたい。

そうした願いに応えるために治療法を考え続けてきた医師がいます。

東京・江東区で傷痕の治療を専門とするクリニックを開いている形成外科医の村松英之院長です。
当初、村松医師が想定していたのは、やけどやけがの治療を求める患者でした。

しかし、開業してまもなくすると、リストカットの痕の治療に関する相談が急激に増えていきました。
村松医師
「リストカットの痕が理由で、就職の面接で落とされたり、結婚を決めた相手の両親の理解を得られず破談になったりした経験がある人もいました。本人の記憶だけでなく、社会がリストカットに対して抱く差別や偏見からも自由になるために必要な治療だと強く感じました。リストカットの痕は特徴的なので、いくら薄くなろうとわかってしまう。患者が求めているのは、リストカットの痕だとわからなくすることです」
そこで村松医師が考案したのは、傷痕部分の皮膚を薄く剥ぎ取り、傷の方向を変えた上で再び戻す方法です。

こうすることでリストカットに特徴的な傷痕ではなく、けがややけどのような傷痕に見えるようになるといいます。

この治療がリストカットの痕を消したいという人たちに知られるようになり、いまでは日本だけでなく、中国など国外も含めて年間およそ300人が相談に訪れるようになりました。

培養表皮を使った新たな治療法

しかし、この方法では傷の形は変わるものの、傷痕そのものは残ります。

そこで応用を考えたのは、再生医療の技術で作られる「培養表皮」でした。
「培養表皮」は患者の皮膚から採取した細胞を培養してシート状にしたもので、国の承認を受けて重いやけどの治療などに使われています。採取したわずかな皮膚から、きれいな皮膚を必要なだけ作り出せます。

村松医師は、愛知県の再生医療製品メーカーと協力して、去年、国の補助金を得て、リストカットの痕がある患者9人にこのシートを移植する試験的な治療を行いました。
その結果、安全性と傷痕の改善が確認できたとして、去年11月からこの治療を始めました。

移植を受けた人には、半袖が着られるようになるなどの前向きな行動の変化もみられたということです。

どんな治療?

移植は次のように行われます。

▽傷痕のある部分の皮膚を薄く削る。
▽削り取った皮膚をメッシュ状に裁断して戻す。
▽そしてその上から培養表皮でつくったシートを貼り付ける。

自分の皮膚を土台にすることで培養表皮が定着しやすくなり、傷痕も見えにくくなります。
村松院長
「以前、総合病院で重いやけどの患者をみていたとき、培養表皮で治療すると傷痕がとても良くなり、その後もほとんど通院せずに生活できることに驚きました。培養表皮をつかった治療なら、リストカットの痕に悩む患者のその後の人生を、苦しみから解放する手助けができると思っています」

痕が残り続ける苦しみ

ことし1月に村松医師のクリニックを訪れた50代の女性は、腕の治療にこの方法を選びました。

学生時代のリストカットの痕を隠すため、40年近くにわたり長袖を着る生活をしてきたというこの女性。
20代の頃、歯科衛生士の資格を取得するために専門学校に入学しましたが、実習では手先を使うため、どうしても腕をまくる必要がありました。

「傷痕を見られたらどうしよう」という強いストレスを感じて学校に通えなくなり、退学せざるを得ませんでした。
女性
「もう諦めるのはやめたいと思っています。人生の最後はきちんと腕を出せるようになって責任を持って仕事をしたい。私自身も社会に出て役に立てるんだと実感したいです」

傷痕の治療が意味するものは

手術を終えた女性は、これまで苦悩してきた日々に区切りがつき、新たな人生が始まるような気持ちになったといいます。
女性
「これまでお世話になった分、誰かの役に立ちたくて、これから介護の資格を取りに行くつもりです。傷痕がなくなったら今度こそちゃんと実習を受けて資格を取れると思うととてもうれしいです。やりたかったけどこれまでできなかったことに挑戦できるという楽しみができた。こういう機会を与えてもらい本当にありがたいです」
ただ、リストカットの痕の治療は保険診療では受けられません。
培養表皮をつかった治療の場合、160万円以上の費用がかかります。

村松医師は患者と対話を繰り返して、傷痕を消したい理由や、最後のリストカットから2年以上経過していることなどを確認した上で、手術するかどうか慎重に選択してもらうことにしています。
村松医師
「保険診療ではないのでどうしても高額になってしまいますが、受けた患者さんは本当に表情が明るくなるので、その後の人生を変え得る大切な治療だと実感しています。悩みの解決につながるこうした治療が、必要な人に広まってほしいです」

さようなら“傷痕と過去の私”

冒頭の取材に応じてくれた男性も、同じ治療で傷痕に別れを告げました。
男性
「僕の場合、表に見える以上に心に負っている傷の方が大きく、少しでもその心の傷を癒やすために治療を選びました。治療する前は、傷痕は本当に生々しい過去の記憶でしたが、いまでは軽いけがの痕のように感じられます。心の重荷が取れて、その分、自分を大切にするにはどうしたらいいかということを考えられるようになりました。目に見える傷をなくすというのは大事なことなんだなと感じています」

いまリストカットをしている子ども、どう支える

自傷行為は、体だけでなく心にも長く傷痕を残します。

最も必要なことは、こうした行為をせざるを得ない状況に当事者を追い込まないことですが、自傷行為を見かけた際は、まず寄り添う姿勢を示すことが大切だと専門家は指摘します。
山口医師
「自傷行為は、追い詰められた子どものSOSのサインでもあるため、行為を目にすると驚くと思いますが、止めようとすると逆効果になることもあります。まずは、なぜこうした行為にいたるのか気持ちを寄せられるといいと思います。そして、私はあなたのことを気にかけている、大事な存在だと思っているということを伝えられるといいかもしれません」
山口医師は、まわりに信頼できる人がいない人もいるとした上で、自治体や支援団体の窓口を頼ることも勧めています。

また、国が設置しているウェブサイトでは電話やチャット、手紙など、自分に合った方法でその時の気持ちを伝えたり、支援してくれる窓口を紹介してもらったりすることができます。

そのときの状況に合った場所を選ぶことができるので、どこに話をすればいいかわからない時に使ってほしいということです。
【電話での主な相談窓口】
▽「よりそいホットライン」0120-279-338
岩手県、宮城県、福島県からかける場合は0120-279-226

▽「こころの健康相談統一ダイヤル」0570-064-556

おはよう日本1月24日放送

NHKプラス 配信期限:2024年1月31日(金) 午前7:45 まで
科学・文化部記者
井上紗綾
和歌山局、大阪局を経て現職
医療取材などを担当
リストカットの痕にお別れを

WEB
特集
リストカットの痕にお別れを

特に若い世代で深刻になっている「自傷行為」。

なかでもリストカットは、成長してからも残った傷痕が当事者を苦しめることがあるといいます。

傷痕をなくして「あのときの私に別れを告げたい」という思いに応える、新たなリストカット痕の治療法が考案されています。

(科学・文化部記者 井上紗綾)

リストカットに至る背景は…

15歳のときにリストカットを経験した30代の男性。
小学生のころから、父親にバットで殴られるなどの激しい暴力を受けていました。

さらに学校でもいじめに遭い、どこにも居場所がなかったといいます。
男性
「きっかけは、すべてに希望も望みも救いもなく、深い絶望の谷に落ちたからです。切ったときは、何かから解放された気持ちになったことを覚えています」
高校入学をきっかけに生活環境が変わり、リストカットをすることはなくなりました。親との連絡は絶ち、現在は平穏な生活を送っています。

しかし、手首に残る傷痕を見るたびに、暴力を受けていたあの頃に引き戻されるような感覚になるといいます。
男性
「電車でつり革を握った時とかに、自分の腕が目の前に見える。そうすると過去を思い出してつらくなるんです。傷痕を見る度に、本当に逃げ場のない当時のつらさを思い起こしてしまうというのが、自分自身にとって一番つらかったです」

リストカットとは

自傷行為を経験した子どもは決して少なくないという調査があります。

2021年に国立成育医療研究センターが小学校5年生から中学生2500人余りを対象に行った調査では「この1週間で自分の体を傷つけた」と答えた人はおよそ15%にのぼりました。

自傷行為は「リストカット」だけでなく、「髪の毛を抜く」、「自分をたたく」などさまざまなかたちをとります。

調査を行った山口有紗医師は、厳しい生活環境の中で抱えこんだコントロールできない感情に対処するため、みずからの体を傷つけてしまうのだと指摘します。
国立成育医療研究センター 山口有紗 医師
「つらい気持ちを言葉にできないときに、自分の体を切って血を流すことによって初めて自分がつらいということが見えるようになったと話してくれた子がいます。自傷行為自体がその子が生き延びていく上での対処行動として機能している部分があるのかなと思います」

“リストカット痕を消したい” 相談が殺到

体の傷痕を見るたびによみがえる感情から逃れたい。

そうした願いに応えるために治療法を考え続けてきた医師がいます。

東京・江東区で傷痕の治療を専門とするクリニックを開いている形成外科医の村松英之院長です。
当初、村松医師が想定していたのは、やけどやけがの治療を求める患者でした。

しかし、開業してまもなくすると、リストカットの痕の治療に関する相談が急激に増えていきました。
村松医師
「リストカットの痕が理由で、就職の面接で落とされたり、結婚を決めた相手の両親の理解を得られず破談になったりした経験がある人もいました。本人の記憶だけでなく、社会がリストカットに対して抱く差別や偏見からも自由になるために必要な治療だと強く感じました。リストカットの痕は特徴的なので、いくら薄くなろうとわかってしまう。患者が求めているのは、リストカットの痕だとわからなくすることです」
そこで村松医師が考案したのは、傷痕部分の皮膚を薄く剥ぎ取り、傷の方向を変えた上で再び戻す方法です。

こうすることでリストカットに特徴的な傷痕ではなく、けがややけどのような傷痕に見えるようになるといいます。

この治療がリストカットの痕を消したいという人たちに知られるようになり、いまでは日本だけでなく、中国など国外も含めて年間およそ300人が相談に訪れるようになりました。

培養表皮を使った新たな治療法

しかし、この方法では傷の形は変わるものの、傷痕そのものは残ります。

そこで応用を考えたのは、再生医療の技術で作られる「培養表皮」でした。
「培養表皮」は患者の皮膚から採取した細胞を培養してシート状にしたもので、国の承認を受けて重いやけどの治療などに使われています。採取したわずかな皮膚から、きれいな皮膚を必要なだけ作り出せます。

村松医師は、愛知県の再生医療製品メーカーと協力して、去年、国の補助金を得て、リストカットの痕がある患者9人にこのシートを移植する試験的な治療を行いました。
治療経過
その結果、安全性と傷痕の改善が確認できたとして、去年11月からこの治療を始めました。

移植を受けた人には、半袖が着られるようになるなどの前向きな行動の変化もみられたということです。

どんな治療?

移植は次のように行われます。

▽傷痕のある部分の皮膚を薄く削る。
▽削り取った皮膚をメッシュ状に裁断して戻す。
▽そしてその上から培養表皮でつくったシートを貼り付ける。

自分の皮膚を土台にすることで培養表皮が定着しやすくなり、傷痕も見えにくくなります。
村松院長
「以前、総合病院で重いやけどの患者をみていたとき、培養表皮で治療すると傷痕がとても良くなり、その後もほとんど通院せずに生活できることに驚きました。培養表皮をつかった治療なら、リストカットの痕に悩む患者のその後の人生を、苦しみから解放する手助けができると思っています」

痕が残り続ける苦しみ

ことし1月に村松医師のクリニックを訪れた50代の女性は、腕の治療にこの方法を選びました。

学生時代のリストカットの痕を隠すため、40年近くにわたり長袖を着る生活をしてきたというこの女性。
女性(左)と記者(右)
20代の頃、歯科衛生士の資格を取得するために専門学校に入学しましたが、実習では手先を使うため、どうしても腕をまくる必要がありました。

「傷痕を見られたらどうしよう」という強いストレスを感じて学校に通えなくなり、退学せざるを得ませんでした。
女性
「もう諦めるのはやめたいと思っています。人生の最後はきちんと腕を出せるようになって責任を持って仕事をしたい。私自身も社会に出て役に立てるんだと実感したいです」

傷痕の治療が意味するものは

傷痕の治療が意味するものは
手術を終えた女性は、これまで苦悩してきた日々に区切りがつき、新たな人生が始まるような気持ちになったといいます。
女性
「これまでお世話になった分、誰かの役に立ちたくて、これから介護の資格を取りに行くつもりです。傷痕がなくなったら今度こそちゃんと実習を受けて資格を取れると思うととてもうれしいです。やりたかったけどこれまでできなかったことに挑戦できるという楽しみができた。こういう機会を与えてもらい本当にありがたいです」
ただ、リストカットの痕の治療は保険診療では受けられません。
培養表皮をつかった治療の場合、160万円以上の費用がかかります。

村松医師は患者と対話を繰り返して、傷痕を消したい理由や、最後のリストカットから2年以上経過していることなどを確認した上で、手術するかどうか慎重に選択してもらうことにしています。
村松医師
「保険診療ではないのでどうしても高額になってしまいますが、受けた患者さんは本当に表情が明るくなるので、その後の人生を変え得る大切な治療だと実感しています。悩みの解決につながるこうした治療が、必要な人に広まってほしいです」

さようなら“傷痕と過去の私”

冒頭の取材に応じてくれた男性も、同じ治療で傷痕に別れを告げました。
男性
「僕の場合、表に見える以上に心に負っている傷の方が大きく、少しでもその心の傷を癒やすために治療を選びました。治療する前は、傷痕は本当に生々しい過去の記憶でしたが、いまでは軽いけがの痕のように感じられます。心の重荷が取れて、その分、自分を大切にするにはどうしたらいいかということを考えられるようになりました。目に見える傷をなくすというのは大事なことなんだなと感じています」

いまリストカットをしている子ども、どう支える

自傷行為は、体だけでなく心にも長く傷痕を残します。

最も必要なことは、こうした行為をせざるを得ない状況に当事者を追い込まないことですが、自傷行為を見かけた際は、まず寄り添う姿勢を示すことが大切だと専門家は指摘します。
山口医師
「自傷行為は、追い詰められた子どものSOSのサインでもあるため、行為を目にすると驚くと思いますが、止めようとすると逆効果になることもあります。まずは、なぜこうした行為にいたるのか気持ちを寄せられるといいと思います。そして、私はあなたのことを気にかけている、大事な存在だと思っているということを伝えられるといいかもしれません」
山口医師は、まわりに信頼できる人がいない人もいるとした上で、自治体や支援団体の窓口を頼ることも勧めています。

また、国が設置しているウェブサイトでは電話やチャット、手紙など、自分に合った方法でその時の気持ちを伝えたり、支援してくれる窓口を紹介してもらったりすることができます。

そのときの状況に合った場所を選ぶことができるので、どこに話をすればいいかわからない時に使ってほしいということです。
【電話での主な相談窓口】
▽「よりそいホットライン」0120-279-338
岩手県、宮城県、福島県からかける場合は0120-279-226

▽「こころの健康相談統一ダイヤル」0570-064-556

おはよう日本1月24日放送

NHKプラス 配信期限:2024年1月31日(金) 午前7:45 まで
科学・文化部記者
井上紗綾
和歌山局、大阪局を経て現職
医療取材などを担当

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