誰かへの配慮が、誰かの負担にならないことを考えることって大切だと思う
先日、東京に行ったときに音情報が多すぎてしんどかったことを漫画に描きました。そしてその漫画に対して来た反応がこちら。
この方特性持ちなので余計にだとは思うんだけど、電車や案内がパッと見でわからないのは「そういう場所に慣れてない」からで、聴覚過敏で気になっちゃったんだろうけど、トイレのアナウンスをネタにはしてほしくないなと思った。それは視覚障害の方の大切な案内だから。必要だと理解してるだろうけどさ
ホームには色んなところに行く電車が入ってくる可能性があるということを理解してないと痛い目見るし、目的の案内を見つけるまでにもたくさん看板があって慣れてないと困るのもわかる。色んな音が溢れていて、聴覚過敏があるとなおのこと辛いだろうなとも思う。でもネタにしていいラインがあるよ。
あのトイレ案内の音、まじででかいし通りがいいからよく聞こえるんだよね。わかる。突き抜けて聞こえてくる感じあるもん。しんどいのわかる。わかるけども、これはバリアフリーのひとつだから、特にこの人のような、自身や身内の障害について話してる人に、「しんどかったもの」ネタにしてほしくない。
『視覚障害の方の大切な案内だから、聴覚障害がある人がそれをつらいと言ってはいけない』っておかしくないですかね。
バリアフリーって、そこで生活するあらゆる方に障壁=バリアがないようにするためのものであって、視覚障害の方がバリアフリーになる代わりに別な人の障壁になるなら本当のバリアフリーじゃないと思うんですよ。
わかる。しんどいのわかる。って言いながら、でも目が見えない人にとって大切なものなんだからそれをしんどかったって言ってほしくない、って、それはおかしくないですか。
しんどいのわかろうとしてないですよね。聴覚過敏の人が具合悪くなるより、目が見えない人がトイレ見つけられなくて困るほうが大変だよねって思ってますよね。
苦手な音、って私の場合、脳みそに直接電極つっこんでブルブル振動させてくる感じがあるんですよね。体調にもよるけど、音で吐きそうになる。
突き抜けて聴こえる音で吐きそうになる感覚がわかるのか。
その後思考能力がガタ落ちになったり、耳鳴りがやまなくなって逆にすべての音が聞こえなくなったりする大変さがわかるのか。
あらゆる場所、トイレにすら音声案内があることがつらいと感じたことを発信してはいけないのか。
聴覚障害がないひとにすら「突き抜けて聴こえてくる」音が、聴覚過敏の人にとってどれだけ頭に突き刺さってくるか考えたことなんてないんだろう。
突き抜けて聴こえるようにしているのは、目が見えない人がざわついた駅構内でも聞き取れるようにという配慮だと思う。でも、その配慮によって負担を感じる人がいたとき、それに対して声をあげてはいけないのか?
目が見えない人が「駅構内でトイレを見つけられない」って声をあげて導入されたのが多分あの音声案内なんだろう。
でもその音声案内がしんどい人がいるって考えがないのなら、それを発信することだって、また、大切なことなんじゃなかろうか。
そうやって双方が声をあげあう事で、生活する人たちが折り合いをつけてちょうどいい着地点を探していくことが本当のバリアフリーに繋がっていくんだと思う。
こういうこと言ってくる人って視覚障害も聴覚障害も持ってない場合が多い。せめてどちらかの立場から言ってくれ。あのアナウンスに救われてる立場の方から言われるならまだわかる。むしろ、そういう方となら話し合いたい。
配慮すべき配慮すべきって外側から騒ぐのは大抵第三者なんだ。でも、本当に困っているときは当事者が声をあげないといけないよ。
そうじゃないと配慮が見当違いな方へすっ飛んでいくから。
私はもうあの土地には絶対住まない…というか、住めないと思うのであんまりしつこく議論はしないけど、でも、感覚過敏持ちの人って決して少なくないだろうから「感じたこと」の発信としては必要だったと私は思っている。
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