FSSとはGTMデザインとはなにか?
文章のスタイルゆえに失礼かつ断定的な言い回しが多く、敬称は略されています。
画像の使用は批評のための引用の範疇と考えております。
永野護とはなにか
くわしくはウィキ参照
エルガイムに参画し頭角を現す。
ロボットデザインに骨格のフレーム構造を持ち込み、膝の二重関節化でロボットの可動域を拡張する。
その後、ファイブスターストーリーズをニュータイプ誌で開始、休載を挟みつつ35年間連載を続ける。
35年に渡って「ロボット漫画」の、ロボットデザインとキャラクターデザイン、ストーリーテリング、世界観設定を深化させ続けた。
富野由悠季がロボットアニメの幅を拡張し続けた「ロボットアニメの父」であるのなら
永野護はロボット作品の高さと深さを極め続ける「その息子」と言える。
FSS(ファイブスターストーリーズ)とはなにか
その発端であるエルガイム云々という話は常識の範疇に含まれるのでここでは言及しません。
膨大に広がるFSSを簡潔に言い表すとすれば、
「ロボット同士のチャンバラが世界の行く末を決める戦いになる」
をビッグバンの起点として作られた作品である。
この作品宇宙の中心は「ロボット同士のチャンバラ」であり、そこから宇宙の全てが作られたのです。
チャンバラのためにMHが作られ(ロボット)、
騎士とファティマが生み出される(パイロット+ヒロイン)
騎士の活躍の場としての騎士団と国が作られ(ロボット軍隊と国家)
国のために星が作られ、星は星域をつくり星団となる。
星団には歴史が生まれ、さらなる前史としての超帝国も作られる。
それらの舞台となる次元が作られ、別次元、別宇宙も生まる。
それらをまとる神と悪魔と、それを統べる超越神としてアマテラス(主役)が作られる。
当然ながらガンダム等、他のすべてのロボット作品も同じ様にロボット中心主義で作られていますが、FSSはその精度と純度を極限に高めた作品なのです。
ほぼ新人漫画家の連載作品でありながら、アニメ雑誌ニュータイプの目玉連載という場所を獲得し、最初っからフルスロットル。
最初っから年表掲載、連載開始一話で最初っからラストバトル、
ありえないほどマニアックに産まれ、時代もそれを許容しました。
MHとは、そしてなぜGTMになったのか
MHがGTMに変わった驚きとはどれほどのものであったか。
知らない人に説明するとなると、
「ドラえもんのデザインと名前が一夜にして全然別のものに変わってるのに、素知らぬ顔をして作品は続いている」
という感じでしょうか。
永野護が「ロボットアニメのアンチテーゼ」として作り出したMH。20年もの歳月をかけて浸透し、リファインされ磨き続けたそのデザインを
「や~~めた」と作者自らの手で全部捨てたのです。
理由は作者が述べているように
「このデザインでは今の時代で戦えない」というような理由で、それは正しいと思います。
ガンダムのデザインは時代ごとに変化しています。
表面はその時代の選ばれた気鋭のデザイナーの力を借りて変化し続け、中身も時代に合わせてアップデートされてきました。
MHデザインも永野一人の手で常にアップデートが行われ、そのデザインや細部は時代に合わせて変化していきました。
消費者的には「このままでいいじゃん」と思ってましたが、永野護はそうは思わなかった。
「先進的」という形で始まったMHデザインは、時代が経つとその「先進」アドバンテージは失われていきます。永野的デザインも他のデザイナーに吸収され模倣され始めます。
MHデザインのアップデートも何度か行われますが、どんぶりを変えるだけで本質的な味の進化は起こりません。
本質。デザインの本質が古いままなのです。
MHの産まれはエルガイムの頃、ガワをいくら変えようと本質はその頃のまま「昭和のロボット」なのです。
デザインの本質、デザインの思想、デザインの解像度
それらが古いままでは、もう戦えない。
永野護にとってデザインとは「かます事」「驚かすこと」「愕然とさせること」
未踏の荒野をただ一人、突っ走ること。
それこそが永野にとってのデザインなのです。
MHとファティマでそれを成し遂げました。
旧態然とした日本のアニメデザインに反旗を翻し、圧倒的に新しく、圧倒的に鮮烈なものを提示した。
だがそのMHのデザインに、いまや驚きはない。
だがそれでも、凡百の作家ならそのまま続けた。安定して物語の完結だけをライフのワークとして続行したはずだ。だが、
「それってなにが楽しいの?」
「俺が作るものは、最高に新しくて最高に刺激的でなければならない」
「それが人生を捧げる価値のある仕事だ」
「もうMHはいらない」
自分の作品のために、自分自身をも捨ててみせる。
超一級の才能だと、自分自身で証明してみせた。
こうしてMHデザインはその役割を終えて、GTMデザインがこの世に産まれいでたのです。
本邦におけるメカニックデザインとは
永野デザインの特殊性を理解するためには、本邦における「ロボットデザイン」というものを大づかみにでも理解しておく必要があるため、その説明を簡潔かつ大雑把に行う。
メカデザイン、ロボットデザインというものの生息域は恐ろしく狭いです。
主に、アニメとゲーム、そして漫画と同人誌。
マニアはメジャーなものと考えているが、実際には限られた範囲にしか存在しないものです。
メカデザインは3つの欲求の重なりで成り立っています。
1・消費者のニーズ
2・作品世界観への貢献・制作者側からの発注
3・デザイナーの作画可能範囲、趣味趣向
通常、この手の図は正円の重なりで表されますが、メカデザインというのは恐ろしく狭い欲求と要求によって作られているため、円が細くなっています。
まず「1・消費者のニーズ」
恐ろしく狭いですね。
基本的にガンダム。正しい人型ロボであることが求められます。人型から外れるほどにメジャー度が下がっていきます。
「2・作品世界観への貢献」
発注者の求めるもの。作品世界へ貢献し、消費者に受けるデザインが求められます。ガンダムです。
「3・デザイナーの作画可能範囲・趣味趣向」
ガンダムです。
極端に言い過ぎました…色々な趣味趣向なデザイナーがいますが、赤子は最初に目にしたものをガンダムと思う性質があって、だいたい最初に目に入るロボットはガンダムです。たまに間違ってフロントミッションだとか、ACを目にしてしまう赤子もいますが、生まれの不幸を呪うべきです。
ロボットデザインの作られ方
1・シルエットを描きます
2・ディティールで埋め尽くします
3・関節を仕込みます
完成
1・メカデザインにおける独自性はシルエットによって作られます。
バルキリー、ガンダム、鉄人、ツァラトゥストラ・アプター・ブリンガー、
シルエットを並べて区別がつかない物がない。人物デザインよりも幅広いシルエットが創作でき、その機能性まで表現できるのがメカデザインのシルエットです。
2・ディティールがそのロボのリアリティーを決定します。シルエットに載せる具の形が、メカと作品世界のリアル度を確定します。
「リアルっぽい」ディティールをいっぱい載せるとリアル。
「漫画っぽい」ディティールをいっぱい載せるとスーパー。
簡単ですね。
余談ではありますが、ロボットにおけるリアルとスーパーの区別というのはほぼ無意味化しており
ダイナミックプロとそれ以外
くらいが正しいと思います。
スーパーロボットの定義が「ロボットの強さを成立させる設定が作品世界内にない」くらいしか存在しない。
この定義からすると、すでにマジンガーZは作品内にロボット成立の設定が完備されているため「リアル」と呼んでさしつかえない。
さらに、現在においてロボットのデザイン時に、世界観設定はセットになっているため、スーパーロボットというものの存在はありえない。
結局、ダイナミックプロ+ゲッターだけが別ジャンルとして存在していた、ということになると思う。以上余談
3・関節を仕込む。
関節を仕込みますが、デザイナーは「プラモになった時にポーズが取れればいい」という認識で関節を仕込み、
発注者は「関節で独自性を込められてもめんどくさいだけなので、プラモでポーズが取れればいい」という感覚で受け取り、
消費者は「プラモでポーズが取れればいい」という程度の興味しかない。
関節にこだわっている人間は一人もいないし、こだわったところで誰も幸せにならない。
なぜなら「プラモでポーズが取れればいい」から
それ以上の動き、「人と同じような動きができるロボット・メカデザイン」なんて、この世の誰一人も求めていないのです。
そう、天才・永野護以外は
関節を新造する
ロボットメカデザインでまともに動く関節を新造しようなんて奴は、馬鹿な暇人か、狂気の天才だけです。
それだけ「やっても無駄なこと」なのである。
正しい関節を仕込むほど、デザインは自由さを失い、ガンダムらしさを失っていきます。
さらに「機構的正しさ」というやつも厄介で、作り込めば作り込むほど、後の作業、例えばアニメやCGで動かす難易度は爆上がりし、プラモにもできない複雑さになりプラモ化の夢が絶たれます。
デザイナーですらデザイン料とまったく釣り合わない仕事量になり、苦労してなお嫌われる。自己満足以外の追加報酬はありません。
誰も得をしないため、誰も挑まないし発注もしない。
プラモで動く関節を仕込んどけばいいんですよ、普通に。
ただ、ここに一人だけ完全なる例外がいました。
原作者であり発注者でありデザイナーであり、自分自身に最も厳しいアーティストという存在。
FSS原作者である永野護はデザイナーである永野護に、採算度外視の発注をした
「関節デザインを新造したロボットをデザインせよ」
そのミッションは人知れず、読者にも、世間にも知らされず、極秘に開始された。
GTM前夜…
GTMという存在は映画「花の詩女・ゴティックメード」という作品とともに発表されました。
その時の私を含む世間の反応は「ふ~~ん」という感じでした。
ゴティックメードとFSSの関連付けは徹底的に隠されていたので、「なんか奇妙なロボットがでてくる映画」みたいな印象だったと覚えています。
今から考えると我々の態度はあまりにも油断し気が抜けていました。それはある意味、その時期の永野護は舐められていた、という事でもあります。
「なに本職の漫画を休載して映画なんてやってんねん」
というのが世間の空気だったように記憶しています(私の周辺において)。
GTMも「映画用の神輿」程度で見逃していました。
そして映画鑑賞後、FSSとのつながりが示唆されてなお、「ふ~~ん」という印象のままでした。
「映画用にデザインが違うってあるよね」
擦れたオタクなら知っている「TVアニメが劇場アニメになると作画が変わる現象」、映画だとキャラがリアルになる。そんな次元の話だと思ってました
ナイトオブゴールドのデザインが違っている事もその説を補強しました
デザインが違うってことは、メディアの違いによる見え方の違いなんだ、そう思っていたのです。
あの映画を見て「全てのMHのデザインが変更になる」なんて思った人間がいたのでしょうか?
だって「今まで出した全てのMHのデザインを変える」って、ガンダムとZとZZのMSデザインを全部変えるってレベルですよ?
そんな狂ったことする人間、この世にいます?
そして映画も終わり、FSSが連載再開されたNT誌発売日、ネットに恐ろしい話が流れ始める…
「MHがGTMに入れ替わってる…!」
そんなバカな、と私もNT誌を買って確認すると、現れたるはダッカス・ザ・ブラックナイト。
エルガイムの頃から馴染みのあった黒騎士の駆るMHバッシュ・ザ・ブラックナイトは世界から消え失せ、ダッカスがその場に立っていたのです。
名称もMHはGTMに、ファティマはオートマチック・フラワーズに変わっている。
それなのに物語は普通に続いている!
「一夜にして世界が変わる」、FSS読者はまさにそれを体験させられたのです。
永野護の狂気のクリエイターマインド、「かましたる」の精神をモロに食らったのです。
そんな恐怖を味わったのだから、読者とファンは先生に平伏するしかない。
「舐めてました、すんません!」
額をこすりつけ、謝罪するしかないのです。
アンチ・モーターヘッド
さて、ではそろそろGTMデザインの話をしましょうか。
GTMデザインはどうやって発生したのか。
そのために必要なのは「非・MH」と「新コンセプト」
「映画のための新デザイン」として始まったGTMデザインの開発はその初期稿が正式画像として雑誌に掲載されました。
それがこれですが、現在のGTMのコンセプトである「新しい関節デザイン」がすでに組み込まれているのが見て取れます。
ただし、これがのちの主役機ディーカイゼリンとなるのですが、そのスタイリングは全く異なります。初期校と決定稿では大きくデザインが変わっています。
「MHとは違うものを」という模索時期であるため、意図してMHの頭身バランスや、スタイリングを外していると思われます。
GTMという存在に必要な要件は「非MH」と「新コンセプト」の2つです。古くなったMHというものを脱ぎ去るための探求はまだ始まったばかりです。
初期稿のデザインバランスを見るに、永野がまず手に取ったのが自身の過去のデザイン、シェルブリットとブレンパワードであるとわかる。
永野護デザイン展に展示された、数少ない「GTMデザイン案をねっている最中の絵」がこれであるが
ガットブロウを持っているが、新関節案はまだ現れておらず、メカニカルな外装と関節、そして全体のバランスから見てシェルブリッド・ラインから新デザインの模索が始まっているのが見て取れます。
しかし、このシェルブリット・ラインは早々に破棄されます。このラインの先に「新しい物」がなかったのでしょう。
GTMにもっとも大きな影響を与えたデザインは、ブレンパワードのアンチボディであると私は考えています。
画像はアンチボディの中でもっともピーキーなデザインを持つバロンズゥです。
体のバランスはGTM初期稿と近い。
ただ言いたいことは「バランスが似ている」という些細なことではなく、アンチボディを作ることで得た知見がGTMを生んだという、デザインの「コンセプト」においてブレンパワードこそがGTMの母体であるということです。
アンチボディの最大の特徴、板バネ関節。
「プラモになんかならんから好き放題やるぜ」という意思が込められたこの新関節デザイン。
作画の苦労も知ったことか、というこのハイディティール関節は、「板バネ筋肉+板バネ可動部+放熱板」という三種の意味を同時に実現したデザインであり、その上でメカデザインとしての斬新性も確保し、作品の方向性すら導き出せるデザインであった。
「関節デザイン」というワンアイディアがデザインの全てを決定してしまった実例である。
この「デザインの成功体験」がMHの再デザインとFSSの再活性化への道を示したのではないかと、想像というか妄想しております。
ブレンパワードが与えたのは新しい関節だけではない、メカニックのコンセプトを再考する機会をも与えた。
現在の本邦でのロボット・メカデザインの根本は第二次大戦時の兵器群にある。
戦争=戦闘=第二次大戦と思想が固定化されていました。近年ではさすがに湾岸戦争以降の思想で作られてもいるが、ガンダムではいまだヨーロッパでナチと戦っている様な状態で、ツィンメリット・コーティングされたザクが元気にやってます。
戦いの様式が古式であるため、使われる兵器もまた古式ならざるを得ない。
ロボットは四角い体の中にいろいろな機械が詰め込まれ、関節はモーターで動いてバズーカを背負って戦場を歩兵のように戦う。それがマジンガーの昔から現在まで続くロボットの有り用です。
「装甲の箱の中にいっぱいの機械」
それが旧来から続くロボットデザインのコンセプトなのです。
さて、ブレンパワードを経験した永野ははたと気づくのです
「ロボって関節と装甲と放熱器だけでよくね?」
バロンズゥの巨大な頭部はCPUクーラーをイメージしたと、どこかで述べていました。
機械はその稼働による発熱に悩まされる。それは解像度が上がった現代人ならすぐに理解できる事です。
この文字を打ってるPCだって、ファンを回して排熱し室温を上げています。アンチボディの板バネ装甲は稼働し発熱しながら、その巨大な表面積で排熱し続けています。
動けば動くほど、発熱し排熱し、空気が揺らぐ。
それはエンジンを動かしたら胸部ファンから排ガスが吹き出す、というメカニック観から一歩踏み出すイメージになります。
「巨大ロボットは常に発熱し排熱し続ける」
それが発想の第一歩になり、永野はロボットの装甲の箱を開けて、中身の精査に入りました。
MHも他のロボットと同じく、箱の中には機械がいっぱい入っていました
「いらない、いらない、これもいらない・・・」
ポイポイと中身を捨てていく。旧来のロボットのイメージを持つディティールを次々と捨てていく
長い間リファインを繰り返した結果、MHの中身も「リアルなディティール」で一杯でした。
一つ一つ精査しながら、現代のロボット、現在の技術観でロボットデザインに必要な要素だけを残します。
いらない物は捨てて必要なものだけ残した結果、残ったものはたったの3つ
「関節と装甲と放熱器」
ブレンパワードは正しかったことを確認したのです。
GTM=関節と装甲と放熱器
GTMデザインの基本は、
キャラクターとしての頭部+「関節」+「装甲」+「放熱器」です。
それだけで成立するのがGTMというデザインです。
そこには旧来からあった「リアルなメカニックディティール」はありません。
MHにもあったパイプやチューブ、関節モーター、メカニックを内包する膨らみ、シーリング、バーニア、スラスター、シリンダー、アクチュエータ、全て捨てました。(一部、特殊装置表現として残っているものもある)
人体の動きを模倣する機械=ロボットとしての機能を、新たに表現し直した結果がGTMというデザインです。
緑色になっているのが関節部分。
色分けしてわかるように、表面の40%が関節だけでデザインされている。上腕、下腿も「機械が詰まったパーツ」ではなく関節をつなぐための棒に近い。デザインの殆どが関節、というのが見て取れると思います。
ツインスイング関節
新たにデザインされた関節、ツインスイング関節はリニア新幹線のレールが向かい合って組み合わさったもの、という大雑把な認識でいいと思います。
曲線を描いたレール同士が組み合うことで関節を形成し、互いに加速しあうことで可動する関節。
このゴテっとした関節の塊の中にエネルギーの伝達回線やセンサーや情報を伝えるための神経網が最初からパッケージ化されているため、外付けのコードやパイプが必要ない。
現在でも3Dプリントによる全てが一体化した設計やAI設計による有機的な形状のパーツなどがあります。遠未来のFSSの世界では当然それらの技術は完成の域に達しており、ほぼワンパーツで機能を果たす物となっている。ワンパーツのブロックだけですでに機能している、というのが現代的なメカニックの未来予測といえましょう。
さらにいえば全てのパーツは装甲と同程度の強度を持っており、装甲だから硬い、関節だから柔い、という差異が存在しません。
ツインスイング関節は前後の一軸だけではなく、ねじり、ひねりが可能な関節であるが、もっとも重要なことは、関節部分の面積の広さです。
通常の軸関節が「モーターの軸」という一点に多くの負担がかかる構造になっているのに対して、ツインスイング関節は広く長い面積をもっているため、可動域と加速距離が稼げて、なおかつ関節にかかる超巨大な負荷をスイング関節の長いストロークで受け止めることができます。
機動力のデザイン
GTMの関節の中でひときわ大きいのが膝の関節であり、それは全体からみても異様に大きくGTMのスタイルを特徴づけている。
このサイズは当然、下腿を180度近く曲げるためでもあるのだが、それだけではない。
このデザインの異様さは、このロボットの異様さをも表している。つまり「マッハで動く巨大ロボット」の「機動力」を表現しているのだ。
ロボットデザインにおける機動力表現とはなにか。それは一にも二にもバーニアであり、スラスターであり、アポジモーターである。
ロボットの体に丸い穴を開ければ、あら不思議、そこからガスが噴出されてロボットは飛び上がります。
ランドセルにバーニアを付ける、ついでに羽根をつければ、大空を飛べるロボットのいっちょう上がりです。
それがロボットデザインにおける機動力表現です。
それ以外は足にタイヤをつけるくらい。
ロボットの機動力としてバーニアやタイヤをつける。それは「足で走らせたくない」という無意識の欲求が(もしくは明確な要求)があることの現れです。手描きアニメでロボを走らせる、なんてことはほぼありえないことなのです(めんどくさいから)。
「ロボットを走らせたくねぇ・・・」
関係者のその強い思いがロボにバーニアを、ドラグナーに羽根を、ATにローラーダッシュを与えたのです。
「走らせない」という習性がDNAに染み込んでいる。それが本邦におけるロボットデザインです。
だから誰も「走れるデザイン」を上げてこなくなったのです。
さて、そこでこのGTMの巨大な膝関節である。
これこそが史上初の「マッハで走る巨大ロボット」の機動力表現です。
マッハで走る、という設定をデザインに落とし込み説得力を与えるにはこの巨大さが必要だったのです。
通常の軸関節では表現できなかった事を、新関節をデザインすることで可能としたのです。
実際のスケールのGTMを想像し、それを下から覗き込んだとしましょう。そこに見えるのは巨大な膝関節だけです。金属の組み合わさった巨大関節は、その爆発的な運動能力を十分に予感させ恐怖させるものでしょう。
MHとは「超人類の動きを完璧にトレースする巨大ロボット」であるため、その手足の先端速度はつねにマッハを超えています。
しかし、MHはその設定をデザインできていたのか?
軸関節を持ちアクチュエーターで稼働し、さまざまなチューブに繋がれ山のように電装品を付けられ、それを装甲でパッケージしたMHでは、その説得力を持ち得なかった。
だが漫画ならアニメなら、嘘を突き通し続けられる。いくらでもウソのままやり過ごせる。
それでいいじゃん。
世界のすべての人はそう言います。「新関節をデザインするくらいなら、嘘つきのままで一生を終えたほうがマシだ」
それくらい新しい関節をデザインするのは嫌なんです。嫌と言ったら嫌なんです。
だが、やらねばならない。
自分の作品に、自分自身が再び夢中になるために。
なぜ関節を考えることは面倒くさいのか?
新しい関節を考えると、その正確性を求められます。「ほんとに動くの?」と言われないために検証が不可欠で、これがめんどくさい。機構的正しさを考えるのは楽しいことではありません。
だったら既存の軸関節(プラモ関節)を突っ込んで終わりにしたいのが人情というものであります。
「ここは二軸関節」「ここは引き出し関節」以上!
これで仕事が終わるのですから、そうすべきです。デザイナーがこれ以外の関節構造を考えるのは、バルキリーの変形を考えている時の河森正治大先生くらいです。
GTMデザインは「非MH」として始まり「新コンセプト ”関節+放熱器+装甲”」と「新関節」を獲得し、「人体を模倣する巨大機械」として新たに作り出されました。それは可動する骨格フレームを基本とし、それ以外の機械を極限まで省いた、シンプルにして強固なものとして生まれ変わったのです。MHはGTMに変わり、世に再び「ナンダコレは」「ナンナンダ、コレは」という驚嘆を与えたのです。
MHはロボットアニメのアンチとして始まりました。
「現用兵器の全てに勝る」ためにアニメでは演出不能のマッハで動き回るロボとして「超人類騎士+生体AIファティマ+MH」という設定をもって生まれました。
GTMはそれを現在の解像度で生まれ変わらせた物です。音速可動する人体として、デザインを根本から作り変え別物となりました。ファティマもまた、単なるサポート役ではなく戦場における情報戦を一手に引き受け、ハッキング・クラッキング・ジャミングと現代の戦争観へのアップデートを果たしました。
これらは全て作品の命を再び輝かせるためでありますが、それのみではなく日本のロボット表現の前進を止めないためであり、永野護は天才の使命としてただ一人の道を切り開き続けている。
富野由悠季がロボット表現の地平を広げた人物というのであれば、
永野護は深く深く高く高く、ロボット表現の目指すべき星の高さを示し続ける人といえるでしょう。
解凍され続ける物語
GTMデザインに関しての話は終わり、最後のおまけとしてFSS物語の特殊性について話したいと思います。
FSSの特殊性として「年表が最初に提示された」というのがあります。
物語の最初から最後まで完全に書かれてしまっている年表という存在。
作者からの挑戦状でありつつ、覚悟の表明でありました
「これを全部描ききれなければ、俺の負け」
という覚悟。それは連載してすぐ打ち切られることでもあるし、3年後、10年後、もしかしたら20年後に
「もう、人気ないから連載打ち切りで」
と言われる可能性だって十分に考えられた。
連載を絶対に続けるという覚悟を示した年表こそが、実はFSSを延命させる大きな装置になったと思います。
時代を超えるタイムカプセルになったのです。
連載開始前、燃えに燃えたぎり、イキリにイキり散らかした「26歳の永野護」の考える「熱くて燃えてかっこよくてイカしてて、真面目でクレイジーで超泣けるロボットストーリー」という夢が、この年表の隅々にパッケージングされ、解凍されて漫画になる瞬間を今も待っているのです。
60代を迎えて老練な一流作家となった永野護であったとしても、この「20代の若造が描いたレール」から外れることは絶対に許されない。
60代の大作家であっても、20代のペーペーの漫画家が夢想した「俺の考えた超泣けるストーリー」「俺の考えた超上がるロボットの登場シーン」を描かなければいけない。意味づけ味付けは変えられても、すでに発表されたメニュー自体は変えられないのです。
しかしそれこそが、FSSが「若きロボットアニメの夢」を追い続けられる原動力でもあるのです。
60代の積み重ねと技術を持って、20代の情熱でロボットを描くこと。
ほとばしる若者の情熱は解凍され続け、老作家の手に宿る。
ガンダム、エルガイムと続いたあの時代、最高潮に高まっていた「ロボットアニメの夢」、
それが今も描かれ続けているのです。
今もまさに解凍され、夢は蘇り続けているのです。


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