『「利他」とは何か』(集英社新書)の著者の一人である政治学者・中島岳志さんを招いたトークセッションが10月、東京都内で開かれました。社会活動家・石山アンジュさんがモデレーターを務め、大学生4人が参加しました。マスク、手洗い、消毒、換気にソーシャルディスタンス……。新型コロナウイルスの流行によって「他人のため」の行動を強く意識するようになった現在。利他とはどのようなものであり、どのようにして可能になるのでしょうか?
このイベントは淡路エリアマネジメントと出版文化産業振興財団(JPIC)が「ワテラスブックフェス2021」の一環として開催。登壇した大学生は、東京・神田の複合施設「ワテラス」内の学生マンション「ワテラススチューデントハウス」に暮らす2人と、DIALOG学生部の2人です。
■対談したメンバー(敬称略)
・中島岳志 政治学者、東京工業大学教授。オンライン参加。
・石山アンジュ 社会活動家。シェアリングエコノミーを推進する。
・内野澤安紀 東京大学法学部4年。実家は岩手県で漁業を営む。
・伊原隼人 東京工業大学大学院修士(建築学)3年。水害防災計画を研究。
・柴真緒 お茶の水女子大学理学部生物学科4年。花の物質輸送について研究。
・中川晶結 日本女子大学人間社会学部4年。イギリス文化を研究。
■「利他」とは何か コロナ禍によって世界が危機に直面するなか、いかに他者と関わるのかが問題になっている。そこで浮上するのが「利他」というキーワードだ。他者のために生きるという側面なしに、この危機は解決しないからだ。しかし道徳的な基準で自己犠牲を強い、合理的・設計的に他者に介入していくことが、果たしてよりよい社会の契機になるのか。この問題に日本の論壇を牽引する執筆陣が根源的に迫る。まさに時代が求める論考集。(集英社ホームページから)
寄付するとき 利害を考える?
石山 「利他」という言葉が注目されています。まずは『「利他」とは何か』を読んだ感想を。
伊原 「利他とは、超越的なものに突き動かされて利害の計算をすることなくする行為だ」とズバッと言ってもらい、面白く感じました。
内野澤 制度よりも人の行動にフォーカスしているのが新鮮でした。制度を明らかにする研究というのはよく見かけますけど……。例えば「寄付が少ないのは税制が整っておらず、納めた税が返ってこないからである」というような。
中島 制度を見るだけでは人間社会のあり方は見えてきません。確かに、税制のインセンティブが乏しいと寄付はしない、という議論があります。ただ、民主党政権時代に寄付税制に踏み込みましたが、寄付は増えなかった。どうやら人には「税制で優遇されるから」というのとは違うモチベーションが働いているようなんです。クラウドファンディングに「もうかるからお金を出そう」とはあまり思いません。「大切なあの店を守りたい」というような感情が動機になるはずです。また、何かに突き動かされるという、合理的・制度的に測れない人間の余白みたいなものが利他には関わっているのではないかと思います。
利己と利他 メビウスの輪
中川 「利己的な利他」という言葉が心に響きました。(私が研究しているイギリスの)ウィリアム・モリスは産業革命時代、労働者のための上質なテキスタイルを提案したのですが、高価なので上流階級にしか届きませんでした。自分が利他だと思って行っても、他人はそのように受け取らないことがある。
柴 大学では課題をやってもらったり、私の取り組みを応援してもらったりと、贈与されてばかりだと思っていたのですが、「一般的互酬性」のような、すぐには返礼を必要としない贈与もあることを知り、コンプレックスが少し解消しました。
中島 利他を考えるうえでの核心部分ですね。利己と利他はコインの裏表のように変わってしまうんですね。負債の問題もあります。何かもらうと、うれしいと同時に「お返ししなきゃ」というプレッシャーが生まれる。誰かがボランティアをしている姿だけを見ると「利他的な人だ」と思います。でも、その人が「これをすれば褒められる」「名誉が獲得できる」と思っていることが垣間見えると、利己的に見える。行為が利他的でも、動機が利己的だと利己的な行為に見えるのです。逆に「自分のため」と思っていたら、思いがけず人のためになることもあります。利己と利他というのはメビウスの輪のようにつながっていて、「利己的はダメ。利他的になりなさい」というお説教は哲学的に考えると難しいのです。
自分が、他人であった可能性
石山 「富の再分配」「新しい資本主義」といった言葉を耳にするようになりました。利他が注目されている背景には、どのようなことがあるのでしょうか。
中島 日本では自己責任論が広がって「自分でやってくださいね」「行政サービスに頼らないでくださいね」という政治のあり方が強くなりました。自己責任論を考えるうえで重要なのは、偶然という概念だと思います。自己責任論を唱える人は「いい大学に入り、いい会社に入れたのは、オレががんばったからだ。がんばっていないヤツが再分配と言うのはおかしいじゃないか」と主張します。でも、自分の能力や意思を超えて与えられたものも、たくさんあるはずです。子ども時代に勉強部屋があったとか、塾に行かせてもらったとか……。「親ガチャ」という言葉がはやっていますが、私たちはかなりの偶然性の結果、ここにいます。九鬼周造という哲学者は「原始偶然」という言い方をしていて、地球上に生命が存在すること自体、極めて偶然的なことなのだから、「私」がいること自体が奇跡のようなことなのだ、と言うんですね。私が私であることの偶然性に目を向けると、「その人であったかもしれない可能性」に気づきます。貧困や障害で大変な人を見たときに、自分がその人であったかもしれない可能性を考えるようになる。利他と偶然は、強くつながっているのではないかと思います。
寿司をおごって…モヤモヤ
石山 税などで富の分配を公的に行うよりも、自分の富を一人ひとりが意思を持ってシェアしていくことができたら、もっと緩やかに感謝の気持ちが循環していく社会が作れるのではないかと思います。
中島 志賀直哉の『小僧の神様』という小説があります。寿司(すし)の屋台で小僧が寿司をつかむのですが、大将から金額を言われると食べずに悲しそうに店を出ます。たまたま見ていた貴族院議員のAは「今度おごってやろう」と思い、後日、偶然会ったときに、たっぷりとごちそうしてやります。しかしAには不思議なモヤモヤが残るのです。偽善なのではないか、と。思いがけず体が動くような、ふいに表れる利他が重要なんですね。『小僧の神様』で言うなら、小僧が店を出ようとした瞬間に「お金出すよ」と言えたら全然違ったと思います。
ビッグイシュー 買えなかった
柴 赤い羽根共同募金などを目にした瞬間、ふっと募金するときは気持ちがいいです。でも、クラファンとかで項目を選んで寄付すると、そこに思考が入ってしまって、自分に利己的なものを感じてしまいます。
中島 私も同じ経験があります。ビッグイシューという雑誌をホームレスの方が街角で売っています。私、街で見かけたときに、ふいには買えなかったんです。それで数日、ずっとモヤモヤしたんですね。なんで、パッと体が動かなかったのか。利他って、考え込んでやるとダメなときがある。自分の中の利己的なものに出会ってしまうからだと思います。
「私」はいるのか? 仏教の問い
石山 「拡張家族」という社会実験をやっていまして、他人と面談を経て「家族」になります。一緒に子育てもするし、例えば、交通事故が起きたら、5時間前に他人だったのに手術費100万円出せる?という関係性になります。家族になる合意を経て「相手は自分である」と考えた瞬間に、突き動かされる感覚が生まれると思ったんですね。自他の境界線をなくすことが、何かに突き動かされて、ふいに利他的な行為をすることへのヒントなのかなと思いました。
中島 自分はそんなにはっきりした輪郭を持っているのか、という「自他の未分離」という問題ですね。仏教は、ヒンドゥー教のアートマン(絶対的な私)を否定することから始まります。「無我の我」と言って「本当の私なんているんですか?」と疑いました。「『私』なんてないんだ」っていうのが仏陀が言ったことなんですね。でも「私がいない」っていうのも、またおかしい。ですから、「私」はいろいろな縁によって無数に変容していくものだ、と仏陀は考えました。縁は人に限らず、映画かもしれないし、小説かもしれない。映画館を出るとき、入る前と違うふうに世界が見えることがありますよね。「私」なんて確固たるものではなくて、変化し続けているんです。
「ネシア」を取って「インド」でいいや
中川 本当の自分って何なのか、私は悩むことが多かったです。一番悩んだのは、大学に入って将来の夢が大きく変わったとき。小学生のころからファッションデザイナーになりたかったのですが、大学に入って価値観ががらりと変わって、もっとやりたいことができました。そのときは戸惑ったんですけど、自分に起こる変化を、ためらわずに受け取れればいいなと思います。
中島 「確固たる自分なんていない」と考えたほうが、自分が世界に開かれるんです。私も学者になるなんて思いもしませんでした。私は大阪外国語大学でヒンディー語を専攻したんですけど、予備校時代に付き合っていた子が「インドネシア語を勉強したい」と言って、その大学を志望していると聞いたからなんです。でも、同じ学科は嫌と言われたので「オレは『ネシア』を取ってインドでいいや」と。変なもので、ヒンディー語を学んだことが、私がインド研究者になっていくことにつながるんですね。自分が開かれていて余白がないと、いろんなものに反応できない。利他は自分の中のスペース問題かもしれません。
嫌いな言葉 「スピード感」
石山 時間がない。何かに追われている。常にそばにスマホがある。そんな時代に、どう余白を作っていけばいいのでしょうか。
柴 私も「時間がない」とよく言ってしまい、予定を詰め詰めにしてしまうんですけど……。最近は余白を大事にしなくてはと思い、予備日を確保するようにしています。好きなことをしたり、普段やっていることを見直す機会が生まれて、心にゆとりができたかなと思います。
伊原 私は書店をめぐることにハマっています。通販を使って目的の本しか手元に届かない中で過ごしてきましたが、書店には関連した本など偶然の出会いがあるからです。
中島 私も書店にはよく行くし、(会場に近い)神保町を無目的にうろうろします。半日かけて神保町をぶらぶらすると、思いがけないものに出会ったりする。それは、思いがけない自分との出会い。自分の中にスペースを作らないと利他は出てきません。私の一番嫌いな言葉は「スピード感」です。これは余白を奪っていくんです。
「鉄道いらない」 その理由は
石山 資本主義社会はより早く、より効率的に利潤を追求することで成長してきました。スピードを緩めるには、どうすればいいのでしょうか。
中島 インドの宗教指導者ガンジーが一番疑ったのがスピードでした。彼は『ヒンド・スワラージ』という本の中で「鉄道はいらない」と言っています。「鉄道いらない」って言った割に、鉄道に乗っているんですけど……(笑)。彼は鉄道は速すぎると考えました。鉄道があると、農家はより高く売れるところへ行って売ろうとしてしまう。速さが欲望を喚起してしまう、と。彼は顔の見える範囲で経済を回すことを強調しました。知らない人から安くて速く届くものを買うのではなく、自分にとって大切な店から買うことの倫理や、「この店から買いたい」という愛着を資本主義に組み込んでいくこともまた、利他の一部なのではないかと思います。
利他の概念自体 いらないかも
石山 日本的な思想の一部に「自分と他者がつながっているという感覚」があるのなら、利他という概念自体がいらないのかもしれません。日本では利他という概念をすっ飛ばして、共生意識は育まれるのではないかと思いました。
中島 私も同じように考えています。単独で利他という概念があって、それにコミットするという話ではない。むしろ、世界や人間のあり方の構造の問題に気づくことで、おのずと利他になっていくのではないか。「人間」という言葉は「人の間」と書きます。哲学者の和辻哲郎は「日本人は個人としてではなく、人と人の間にいる存在だ」と書いている。「間」こそが大事であり、そこに倫理が生まれる。未分離の自他、すでにつながっているものを見つめ直すことが重要ではないかと思いました。
個性を引き出す のど自慢のように
内野澤 利他って、よく分からないということが大事だと思いました。大学における学びは、モヤモヤ感を大事にすることです。本を読んだりゼミに参加したりして、星雲状態でものごとを見ていく。残りの大学生活もモヤモヤ感と向き合っていきたいです。
伊原 長く付き合えるものや人を見つけていきたいと思いました。私は都市計画が専門ですが、この学問は合理的に問題を解消しようというところから始まっています。でも合理的にはいかない瞬間も感じます。50年先を見たら、この町は本当にこれでいいのかな?とか、そういったことについて考えた時間でした。
柴 利他とは何か?とモヤモヤした状態で参加しました。自然に突き動かされるものを大事にしたら利他につながるのではないか、と思いつつ、まだモヤモヤしています。自然に突き動かされるための余白を大事にしたいと思いました。
中川 自分の研究分野と照らし合わせて考えました。ほとんどのデザインは、ターゲットとなる人たちのために行われています。「ターゲットのために」と思ってデザインしたものが、相手にとってプラスになるとは限りません。「利他とはこうだ」と決めつけないほうがいいのかなと思います。
中島 NHKの「のど自慢」という番組をご存じですか? 日曜の昼、素人の方が出てきて歌う番組です。あの番組の主役は、実はバックミュージシャンだと思うんです。ミュージシャンたちは、音程を外して独走しているおじいちゃんがいても、その人に合わせていくんです。すると、暴走しているおじいちゃんの個性が見えて感動したりします。利他というのは、人の個性やポテンシャルをうまく引き出すことなんじゃないかなと思います。みなさん、一緒に登壇している仲間の言ったことに触発されて言葉が出てきたりしましたよね? 「こういうことを話そう!」と思って話すとスベってしまう。相手に触発されて、ふいに出てくる言葉が良かったりします。みなさんの対話の中にも、利他の構造が表れていたように思います。
石山 いまある社会問題のほとんどは、人の意識が変われば解決すると思います。利他について考えることで、みなさん胸に手を当てて考える時間になったのではないでしょうか。
偶然性の議論 考えさせられた
佐藤佳亮(DIALOG学生部)
自己責任論についての「偶然性」の議論を面白く思った。私たちは自らの意思だけではなく、どんな親のもとに生まれたかとか、どんな地域に育ったかなど、ありとあらゆる外部から与えられたものの結果、生きている。
何かに失敗した人がいると、人々が寄ってたかってその人を激しく糾弾し「炎上」させるような光景を、私たちはよく目にする。でも「私」が「私」であることの偶然性を考えると、目の前の失敗してしまったその人が自分だった可能性にも、目が向くだろう。
この偶然性に気づいて「その人であったかもしれない可能性」を考えることは、ついつい誰かを攻撃してしまう社会のいい緩衝材になるかもしれない。貧困や障害に苦しむ人を見たときに、「その人であったかもしれない可能性」を考えることで利他的になれるように。
また、中島さんが学者になるまでのお話も印象的だった。まさに偶然の結果であり、確固たる自分を定めるのではなく、さまざまな縁によって多様に変化していく自分を楽しむことが大事だと感じた。
私はあと数年で職を得なくてはいけないが、自分の中に余白を作るようにして、思いがけないものとの出会いから将来のヒントを得られたらと思う。
■当日の動画
動画公開期間:12月7日(火)まで