松尾芭蕉の五月雨の降り残してや光堂という句から五月雨が降り残すということは現実に無いと思われる。どんなつもりで芭蕉はこの表現を使ったのでしょう。という問いがありました。どのように書

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ThanksImg質問者からのお礼コメント

丁寧な回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/11/20 16:35

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掲出の発句の推敲過程で、芭蕉は「五月雨や年々降るも五百たび」と「蛍火の昼は消えつつ柱かな」という二つの発句を作っています。前者は長い時間の経過を詠んだもの、後者は光堂の中のかすかな蛍火を詠んでいます。「五月雨の降り残してや光堂」がこの二つの発句の発想を合わせたものと考えると、芭蕉が意図したこの発句の主題は、時の浸食に抗して光り続ける物への感銘ということになります。ゆえに芭蕉はこういう主題を象徴的に詠んだという結論になります。「現実に無い」というのは、「象徴」という文学の技法を全く知らない人の論で、問題外です。