異彩放った「笑顔の避難所」

異彩放った「笑顔の避難所」
目にとまったのは「おいしいわぁ」とカメラに笑顔を見せるおばあちゃん。

野菜の入った味噌汁を口にしての一言だった。

この映像が異彩を放っていたのは、撮影されたのが30年前の「避難所」で、しかも周辺が焼け野原だったからだ。

(NHKスペシャル取材班)

満員の避難所 忍び寄る関連死

30年前に発生した阪神・淡路大震災。

NHKのカメラは、被災した人たちが、布団などを抱えて、学校や役所などの倒壊を免れた場所に避難する様子を記録していた。
避難所の映像では、多くの人が身を寄せ、足の踏み場がない状態になっていた様子がわかる。

避難した人は兵庫県で最大31万人あまり。
取材班「ご覧のように、皆さん毛布にくるまったり、新聞紙の上で避難されたりしています」(芦屋市役所)
中には、冷たい床に新聞紙を敷き、その上で雑魚寝をして夜を明かす人もいた。

当時、自治体による備蓄は十分ではなく、避難所では、食料の配布をめぐって混乱が起きるケースもあった。
物資が足りなくなり「大人の分はありません」とアナウンスされる避難所もあった。

さらに、地震から1週間程が経過すると、体育館を撮影している映像には、ある音が。
「ゴホゴホ」
当時、避難所では、インフルエンザや風邪が流行し、病院には重症者が次々と運び込まれていた。

こうした厳しい環境の中で発生したのが「災害関連死」だ。

災害関連死は、地震などからは生き延びたものの、その後の避難所での厳しい生活や、ストレスなどが原因となって死亡することで、阪神・淡路大震災で初めて認識された。

災害関連死を世の中に初めて発信した医師が、その驚きを語る映像も残っていた。
神戸協同病院 上田耕蔵 院長
「肺炎や気管支炎で入院された方のカルテを見てみたんです。そしたら避難所から来られた方の比率が69%、だいたい7割の方が避難所から来ていた訳です。びっくりさせられました。せっかく地震で助かっても避難所の環境とかが悪く、いつまでも避難所が出られないために弱っていき、亡くなられたということには、非常に矛盾を感じます」
阪神・淡路大震災では921人が災害関連死と認定された。

異彩放つ笑顔の避難所

この頃に撮影された映像で、異彩を放っていたのが、神戸市・長田区にあった避難所の様子です。

身を寄せているお年寄りは、笑顔が印象的。
清潔な白いシーツが敷かれたベッドが並び、横になる高齢者にスタッフが体調を気遣って声をかけていました。
温かく、食べやすいように調理されたおかゆや、野菜が入ったバランスのよいおかずや味噌汁が提供されていました。

食材はスタッフが県外から仕入れていました。
寝たきりにならないように、運動をして筋力の低下を防ぐ取り組みも行っていました。
「身の回りの世話もしてくれるし。至れり尽くせり。ここに永久にでもおりたいくらいや」
この避難所は、地域の医療・福祉関係者が協力して、独自に開いた避難所でした。

デイサービスの施設の1階の空きスペースに、急遽、ベッドを搬入して作られたもので、当時としては珍しい「高齢者専用の避難所」だったのです。
メンバーの1人で、施設を運営した中辻直行さんは、震災前、長田区で唯一の特別養護老人ホームを経営していました。

中辻さんたちは、2人1組で長田区内の24の避難所を調査し、高齢者を見つけると声をかけて体調を確認。
スタッフ「何かありますか?」
男性「水道でえへんから、煮炊きができない。自分の好きな物は炊かれへん」
300人近くの高齢者に聞き取りをして、寝たきりになりかけていたり、持病を悪化させていたりする人を、自分たちの避難所に移していました。

中辻さんは、高齢者専用の避難所を開いた思いを語っていました。
社会福祉法人 神戸福生会 中辻直行 理事長(当時)
「病院と避難所の中間的な施設がいるなと。せめて風邪をひいている間だけは、暖かいところで、温かい食事がとれて、きちんとした看護婦さんの看護もついてくるような、最低限のカバーがされていれば死ななくてよかった人ばかりだと思うんですね。そうした人たちがいる以上、何らかの形で我々にできることがあるんだったら、しなかければしょうがない。逃げ遅れた老人とか障害者がたくさんそういうところ(環境の悪い避難所)に放置されていることが問題だと思います」
厳しい状況にある高齢者を救いたいという思いは、当時、この避難所を支えていたほかのスタッフたちも同じ思いでした。

スタッフミーティングの様子も残っていました。

参加していたのは、地元の医師や看護師、社会福祉士たち。
医師「夜は医師が誰か当直するようにしますので」
社会福祉士「相談を受けていく中で、公的制度につなげられるものはつなげていきます」
地域の福祉や医療の関係者が、医療資源や介護の人手が限られる中でも、知恵を出し合って命と向き合っていました。

施設を運営した中辻直行さんのもとで働いていた山内賢治さんは、当時の様子を次のように振り返ります。
社会福祉法人 神戸福生会 山内賢治さん
「自分の身を守ることに非常に弱くなっている人たちが劣悪な状況に置かれてしまって、それがさも仕方ないことで、それしかないと決めつけた状態で、そこにおらせるのはおかしいでしょと。そのままでは命を落とす構図が見えていたんですね。そうした中で、医療・福祉事業などの専門職が連携できたのは『高齢者の命をどう守るんや、高齢者の暮らしをどう守るんや』というミッションが共通言語としてあったからだと思います。たぶん1人では思いつかなかったと思うんですよね」
この避難所で暮らした高齢者はのべ26人いましたが、災害関連死は1人もいませんでした。

「福祉の現場に依存」が課題

福祉防災が専門の同志社大学 立木茂雄教授は、この試みの重要性を評価します。
同志社大学 立木茂雄 教授
「まだ避難所で生活している人が多い段階で、こうした取り組みがされていのを初めて見ましたが、すごいことだと思います。今は『福祉避難所』があって、マニュアルやガイドラインは整備されていますが、往々にして、それに従うのがやるべきことになりがちです、でも、そうではなくて、一般の避難所ではこの人は生活困難だから、ちゃんと安心して生きられるようにすることをミッションにして、スタッフが自然と動いている点が本当にすごいと思います」
ただ、30年が経過し、福祉サービスを支える民間の事業者は、厳しい状況に置かれているといいます。

災害時でもしっかりと福祉が機能するようにするためにも、しっかりと災害関連の法律に福祉を位置づけることや、福祉に携わる人たちの待遇を改善していく必要があると指摘します。
同志社大学 立木茂雄 教授
「映像に映っていたようなケアワークを担う人たちは、当時は高い収入が保証されていました。ところが30年後の現在は、パートタイム雇用や非正規雇用が多くなり、低収入となり、担い手もどんどん減っていて、状況ははるかに厳しくなっています。さらに、災害が起きると、それまでとは比べものにならないくらい人手が必要になりますが、平時の仕組みでは全く対応できない構造になっています。今は、現場で働いている方々の『誇り』や『献身』に大きく依存しているのが現状で、彼らに“おんぶに抱っこ”の社会になってしまっている。そこは絶対に変えていかないと、繰り返しの災害には対応できないと思います」

手探りで命守る避難所

NHKのアーカイブス映像には、市民が手探りで命を守ろうと動いた避難所の様子も記録されていました。
神戸市東灘区の本山第三小学校です。

最大、3000人以上が避難していました。

校庭に設置されたテントの中に、目を引く物が映っていました。

「ボランティア組織図」と書かれた黒板です。
ここには「食料班」「情報班」「老人班」などのチームの名前が書かれていました。

組織図を作ったのは、山中直義さん。

友人の安否が心配で偶然学校を訪れていた山中さんは、避難している人たちに、今何を求めているか聞いているうちに、自分たちのやるべきことが浮かび上がってきたと振り返ります。
山中直義さん
「もともと何かをしようと思って来た訳ではなくて、来たら色々なことがわかって、お手伝いしたいなと思ったのが始まりでした。避難している人たちに話を聞く中で、こんな人がいて、こんなニーズがあってというのがわかってきて、それに応えるにはどうしたらよいかを考えて、形にしたのが、あの時の黒板、グループでしたね」
なかでもメンバーたちが課題だと感じたのが、高齢者への対応でした。

「老人ケア班」が必要だと提案してリーダーを務めた山中弓子さんは、当時、尼崎市の書店で働いていましたが、仕事を休んで駆けつけ、泊まり込みで活動しました。

高齢者への対応が必要だと強く感じる出来事がありました。
山中弓子さん
「本山第三小に避難してきた人の70%くらいが高齢者だったんです。もうパッと見で「わぁ高齢者多い」って感じだったんです。そのうち半分くらいが独居の方で。夜にトントンってされて『悪いけど、おむつ換えてくれへんかねぇ』と言われて…。高齢の女性でした。『手が冷たくてごめんなさいね』って言っておむつを換えました。我慢してはったと思うんですよね。そのことがあったから余計に高齢者のことをケアしていかなあかんわぁってすごい思った」
山中さんは、数人のメンバーと、高齢者1人1人に名前を聞いて回って名簿を作り、毎日のように足を運んで体調を確認するようになりました。

すると、被災した人の中にも、支援の輪に加わる人たちも出てきました。
その1人が、片山喜美子さんです。

片山さんは、倒壊した自宅で一時、生き埋めになり、その後、小学校に避難してきていましたが、炊き出しを率先して担当するようになります。

そこに他の被災者たちも加わって、避難所全体の食事を毎日準備するようになったといいます。
片山喜美子さん
「焼きおにぎりをおじやにしたり、たくさん作りましたよ。ふだんはね、隣の人が何しているかわからないような生活をしているけど、いざという時は、皆動けるんですよね」
避難している人のニーズを聞き取る動きは、広がっていきます。

塚本博一さんは、聞き取った内容をメモに残して共有していました。

生活に必要なものを求める声が多かったと言います。
塚本博一さん
「携帯電話の交換で充電器が欲しい、おしっこのタンクを10~20個、とかの要望がありました。日常生活が1番大事でしょう。それが壊れてしもうたんやから、それを何とか補おうとしてたんやろうな」

小さな「困りごと」の解決が関連死を防ぐ

災害関連死の研究をしている関西大学の奥村与志弘教授は、本山第三小学校での取り組みは、災害関連死を防ぐ上で参考になると指摘します。
関西大学 奥村与志弘 教授
「そもそも体調を崩す手前の段階で手を打たないと、助けることが困難になってしまいます。当時は、経験やノウハウもなかったと思いますが、自分たちで一生懸命知恵を出して活動につなげている。必死に創意工夫していた点は学ぶことは多いと思います」
奥村教授は、何が死につながるのかを細かく分析し、フローチャートにまとめています。

一見すると、災害関連死には関係ないようにみえる困りごとを、いかに解決できるかが命を守ることにつながると指摘しています。
関西大学 奥村与志弘 教授
「避難所で転倒して寝たきりになり、体調を崩して亡くなるようなケースがあります。その場合、移動するときに肩を貸してあげるとか、つまずくものがないように整理整頓や片付けをすることも関連死対策になる訳です。食欲がないお年寄りには、温かい食事を用意したり、一緒に食べようと誘ってみたりすることも対策になるかもしれない。そうやって、自分はどんな貢献ができるだろうかと考えて行動することが大切になります」
その上で、命を守るための対策は1つではないと指摘します。
「避難生活の『何が問題か』を知ることが大事なのであって、解決策を知ることが大事なのではありません。衛生的にも、寝たきりにならないためにも、避難所ではベッドが望ましいですが、段ボールベッドを用意することは1つの解決策にすぎません。段ボールベッドが用意できないのであれば、野菜のケースを並べてベッドにしてもよい訳です。私たちは、過去にたくさんの災害を経験してきたせいで『この問題に対してはこの解決策』みたいなものを探そうとしすぎていると思います。解決策は自分たちで作っていくものなのだと思います」

私たちにできること

阪神・淡路大震災で初めて認識された「災害関連死」は、その後の災害でも相次ぎ、大きな課題となっています。

そして、災害関連死で命を落とす人の多くが高齢者です。

30年前に異彩を放っていた笑顔の避難所を運営していた中辻直行さんは、2013年に63歳でこの世を去りましたが、当時、NHKの取材に対して次のように語っていました。
社会福祉法人 神戸福生会 中辻直行 理事長(当時)
「地域内で暮らす老人や障害者、社会的ハンディを持った弱者と言われる人たちが、地域の中で暮らせるということが、その社会が健全だということを証明することだと思います。老人たちは地域の中のカナリアと同じです。地域が不健全であれば彼らが1番最初に暮らせなくなる。ですから、災害があっても、老人たちや障害者を地域から切り離すことは一時的、緊急的にはあるかもしれないが、基本的には、彼らを地域の中で守るという視点で、いろんな災害の対策や政策が行われれば、結果的にそれが最善の対策だと思います」
とても重い言葉です。

これまで進めてきた災害対策の上に、さらに何を積み上げられるのか。

経験やマニュアルもない中、目の前の人の命を何とか救おうと動いた人たちの姿からは、学ぶべきことがまだあると感じます。

(2025年1月17日「NHKスペシャル」で放送予定)
大阪放送局 ディレクター
岡本直史
2012年入局
避難所の映像にうつる高齢者の姿が自分の祖母(要介護3)と重なって見えました
ディレクター
松本真理子
(株)かなでる代表
耐える避難所を根本から見直す必要性を突き付けられた取材でした
神戸放送局 ディレクター
井上乃晏
2023年入局
声を上げやすい避難所環境にしていくことが大事だと感じる取材でした
神戸放送局 記者
木村真実
2023年入局
震災の教訓を次の世代に伝えなければならないという思いを新たにしました
大阪放送局 記者
藤島新也
2009年入局
社会が大きく姿を変える中で、30年前の映像を見る意味を考えながら取材しました
異彩放った「笑顔の避難所」

WEB
特集
異彩放った「笑顔の避難所」

目にとまったのは「おいしいわぁ」とカメラに笑顔を見せるおばあちゃん。

野菜の入った味噌汁を口にしての一言だった。

この映像が異彩を放っていたのは、撮影されたのが30年前の「避難所」で、しかも周辺が焼け野原だったからだ。

(NHKスペシャル取材班)

満員の避難所 忍び寄る関連死

30年前に発生した阪神・淡路大震災。

NHKのカメラは、被災した人たちが、布団などを抱えて、学校や役所などの倒壊を免れた場所に避難する様子を記録していた。
満員の避難所 忍び寄る関連死
避難所の映像では、多くの人が身を寄せ、足の踏み場がない状態になっていた様子がわかる。

避難した人は兵庫県で最大31万人あまり。
取材班「ご覧のように、皆さん毛布にくるまったり、新聞紙の上で避難されたりしています」(芦屋市役所)
中には、冷たい床に新聞紙を敷き、その上で雑魚寝をして夜を明かす人もいた。

当時、自治体による備蓄は十分ではなく、避難所では、食料の配布をめぐって混乱が起きるケースもあった。
物資が足りなくなり「大人の分はありません」とアナウンスされる避難所もあった。

さらに、地震から1週間程が経過すると、体育館を撮影している映像には、ある音が。
「ゴホゴホ」
当時、避難所では、インフルエンザや風邪が流行し、病院には重症者が次々と運び込まれていた。

こうした厳しい環境の中で発生したのが「災害関連死」だ。

災害関連死は、地震などからは生き延びたものの、その後の避難所での厳しい生活や、ストレスなどが原因となって死亡することで、阪神・淡路大震災で初めて認識された。

災害関連死を世の中に初めて発信した医師が、その驚きを語る映像も残っていた。
神戸協同病院 上田耕蔵 院長
「肺炎や気管支炎で入院された方のカルテを見てみたんです。そしたら避難所から来られた方の比率が69%、だいたい7割の方が避難所から来ていた訳です。びっくりさせられました。せっかく地震で助かっても避難所の環境とかが悪く、いつまでも避難所が出られないために弱っていき、亡くなられたということには、非常に矛盾を感じます」
阪神・淡路大震災では921人が災害関連死と認定された。

異彩放つ笑顔の避難所

この頃に撮影された映像で、異彩を放っていたのが、神戸市・長田区にあった避難所の様子です。

身を寄せているお年寄りは、笑顔が印象的。
異彩放つ笑顔の避難所
清潔な白いシーツが敷かれたベッドが並び、横になる高齢者にスタッフが体調を気遣って声をかけていました。
温かく、食べやすいように調理されたおかゆや、野菜が入ったバランスのよいおかずや味噌汁が提供されていました。

食材はスタッフが県外から仕入れていました。
寝たきりにならないように、運動をして筋力の低下を防ぐ取り組みも行っていました。
「身の回りの世話もしてくれるし。至れり尽くせり。ここに永久にでもおりたいくらいや」
この避難所は、地域の医療・福祉関係者が協力して、独自に開いた避難所でした。

デイサービスの施設の1階の空きスペースに、急遽、ベッドを搬入して作られたもので、当時としては珍しい「高齢者専用の避難所」だったのです。
メンバーの1人で、施設を運営した中辻直行さんは、震災前、長田区で唯一の特別養護老人ホームを経営していました。

中辻さんたちは、2人1組で長田区内の24の避難所を調査し、高齢者を見つけると声をかけて体調を確認。
スタッフ「何かありますか?」
男性「水道でえへんから、煮炊きができない。自分の好きな物は炊かれへん」
300人近くの高齢者に聞き取りをして、寝たきりになりかけていたり、持病を悪化させていたりする人を、自分たちの避難所に移していました。

中辻さんは、高齢者専用の避難所を開いた思いを語っていました。
社会福祉法人 神戸福生会 中辻直行 理事長(当時)
「病院と避難所の中間的な施設がいるなと。せめて風邪をひいている間だけは、暖かいところで、温かい食事がとれて、きちんとした看護婦さんの看護もついてくるような、最低限のカバーがされていれば死ななくてよかった人ばかりだと思うんですね。そうした人たちがいる以上、何らかの形で我々にできることがあるんだったら、しなかければしょうがない。逃げ遅れた老人とか障害者がたくさんそういうところ(環境の悪い避難所)に放置されていることが問題だと思います」
厳しい状況にある高齢者を救いたいという思いは、当時、この避難所を支えていたほかのスタッフたちも同じ思いでした。

スタッフミーティングの様子も残っていました。

参加していたのは、地元の医師や看護師、社会福祉士たち。
医師「夜は医師が誰か当直するようにしますので」
社会福祉士「相談を受けていく中で、公的制度につなげられるものはつなげていきます」
地域の福祉や医療の関係者が、医療資源や介護の人手が限られる中でも、知恵を出し合って命と向き合っていました。

施設を運営した中辻直行さんのもとで働いていた山内賢治さんは、当時の様子を次のように振り返ります。
社会福祉法人 神戸福生会 山内賢治さん
「自分の身を守ることに非常に弱くなっている人たちが劣悪な状況に置かれてしまって、それがさも仕方ないことで、それしかないと決めつけた状態で、そこにおらせるのはおかしいでしょと。そのままでは命を落とす構図が見えていたんですね。そうした中で、医療・福祉事業などの専門職が連携できたのは『高齢者の命をどう守るんや、高齢者の暮らしをどう守るんや』というミッションが共通言語としてあったからだと思います。たぶん1人では思いつかなかったと思うんですよね」
この避難所で暮らした高齢者はのべ26人いましたが、災害関連死は1人もいませんでした。

「福祉の現場に依存」が課題

福祉防災が専門の同志社大学 立木茂雄教授は、この試みの重要性を評価します。
「福祉の現場に依存」が課題
同志社大学 立木茂雄 教授
「まだ避難所で生活している人が多い段階で、こうした取り組みがされていのを初めて見ましたが、すごいことだと思います。今は『福祉避難所』があって、マニュアルやガイドラインは整備されていますが、往々にして、それに従うのがやるべきことになりがちです、でも、そうではなくて、一般の避難所ではこの人は生活困難だから、ちゃんと安心して生きられるようにすることをミッションにして、スタッフが自然と動いている点が本当にすごいと思います」
ただ、30年が経過し、福祉サービスを支える民間の事業者は、厳しい状況に置かれているといいます。

災害時でもしっかりと福祉が機能するようにするためにも、しっかりと災害関連の法律に福祉を位置づけることや、福祉に携わる人たちの待遇を改善していく必要があると指摘します。
同志社大学 立木茂雄 教授
「映像に映っていたようなケアワークを担う人たちは、当時は高い収入が保証されていました。ところが30年後の現在は、パートタイム雇用や非正規雇用が多くなり、低収入となり、担い手もどんどん減っていて、状況ははるかに厳しくなっています。さらに、災害が起きると、それまでとは比べものにならないくらい人手が必要になりますが、平時の仕組みでは全く対応できない構造になっています。今は、現場で働いている方々の『誇り』や『献身』に大きく依存しているのが現状で、彼らに“おんぶに抱っこ”の社会になってしまっている。そこは絶対に変えていかないと、繰り返しの災害には対応できないと思います」

手探りで命守る避難所

NHKのアーカイブス映像には、市民が手探りで命を守ろうと動いた避難所の様子も記録されていました。
手探りで命守る避難所
神戸市東灘区の本山第三小学校です。

最大、3000人以上が避難していました。

校庭に設置されたテントの中に、目を引く物が映っていました。

「ボランティア組織図」と書かれた黒板です。
ここには「食料班」「情報班」「老人班」などのチームの名前が書かれていました。

組織図を作ったのは、山中直義さん。

友人の安否が心配で偶然学校を訪れていた山中さんは、避難している人たちに、今何を求めているか聞いているうちに、自分たちのやるべきことが浮かび上がってきたと振り返ります。
左 当時の山中直義さん
山中直義さん
「もともと何かをしようと思って来た訳ではなくて、来たら色々なことがわかって、お手伝いしたいなと思ったのが始まりでした。避難している人たちに話を聞く中で、こんな人がいて、こんなニーズがあってというのがわかってきて、それに応えるにはどうしたらよいかを考えて、形にしたのが、あの時の黒板、グループでしたね」
なかでもメンバーたちが課題だと感じたのが、高齢者への対応でした。

「老人ケア班」が必要だと提案してリーダーを務めた山中弓子さんは、当時、尼崎市の書店で働いていましたが、仕事を休んで駆けつけ、泊まり込みで活動しました。

高齢者への対応が必要だと強く感じる出来事がありました。
左 当時の山中弓子さん
山中弓子さん
「本山第三小に避難してきた人の70%くらいが高齢者だったんです。もうパッと見で「わぁ高齢者多い」って感じだったんです。そのうち半分くらいが独居の方で。夜にトントンってされて『悪いけど、おむつ換えてくれへんかねぇ』と言われて…。高齢の女性でした。『手が冷たくてごめんなさいね』って言っておむつを換えました。我慢してはったと思うんですよね。そのことがあったから余計に高齢者のことをケアしていかなあかんわぁってすごい思った」
山中さんは、数人のメンバーと、高齢者1人1人に名前を聞いて回って名簿を作り、毎日のように足を運んで体調を確認するようになりました。

すると、被災した人の中にも、支援の輪に加わる人たちも出てきました。
その1人が、片山喜美子さんです。

片山さんは、倒壊した自宅で一時、生き埋めになり、その後、小学校に避難してきていましたが、炊き出しを率先して担当するようになります。

そこに他の被災者たちも加わって、避難所全体の食事を毎日準備するようになったといいます。
左 当時の片山喜美子さん
片山喜美子さん
「焼きおにぎりをおじやにしたり、たくさん作りましたよ。ふだんはね、隣の人が何しているかわからないような生活をしているけど、いざという時は、皆動けるんですよね」
避難している人のニーズを聞き取る動きは、広がっていきます。

塚本博一さんは、聞き取った内容をメモに残して共有していました。

生活に必要なものを求める声が多かったと言います。
塚本博一さん
「携帯電話の交換で充電器が欲しい、おしっこのタンクを10~20個、とかの要望がありました。日常生活が1番大事でしょう。それが壊れてしもうたんやから、それを何とか補おうとしてたんやろうな」

小さな「困りごと」の解決が関連死を防ぐ

災害関連死の研究をしている関西大学の奥村与志弘教授は、本山第三小学校での取り組みは、災害関連死を防ぐ上で参考になると指摘します。
小さな「困りごと」の解決が関連死を防ぐ
関西大学 奥村与志弘 教授
「そもそも体調を崩す手前の段階で手を打たないと、助けることが困難になってしまいます。当時は、経験やノウハウもなかったと思いますが、自分たちで一生懸命知恵を出して活動につなげている。必死に創意工夫していた点は学ぶことは多いと思います」
奥村教授は、何が死につながるのかを細かく分析し、フローチャートにまとめています。

一見すると、災害関連死には関係ないようにみえる困りごとを、いかに解決できるかが命を守ることにつながると指摘しています。
関西大学 奥村与志弘 教授
「避難所で転倒して寝たきりになり、体調を崩して亡くなるようなケースがあります。その場合、移動するときに肩を貸してあげるとか、つまずくものがないように整理整頓や片付けをすることも関連死対策になる訳です。食欲がないお年寄りには、温かい食事を用意したり、一緒に食べようと誘ってみたりすることも対策になるかもしれない。そうやって、自分はどんな貢献ができるだろうかと考えて行動することが大切になります」
その上で、命を守るための対策は1つではないと指摘します。
「避難生活の『何が問題か』を知ることが大事なのであって、解決策を知ることが大事なのではありません。衛生的にも、寝たきりにならないためにも、避難所ではベッドが望ましいですが、段ボールベッドを用意することは1つの解決策にすぎません。段ボールベッドが用意できないのであれば、野菜のケースを並べてベッドにしてもよい訳です。私たちは、過去にたくさんの災害を経験してきたせいで『この問題に対してはこの解決策』みたいなものを探そうとしすぎていると思います。解決策は自分たちで作っていくものなのだと思います」

私たちにできること

阪神・淡路大震災で初めて認識された「災害関連死」は、その後の災害でも相次ぎ、大きな課題となっています。

そして、災害関連死で命を落とす人の多くが高齢者です。

30年前に異彩を放っていた笑顔の避難所を運営していた中辻直行さんは、2013年に63歳でこの世を去りましたが、当時、NHKの取材に対して次のように語っていました。
社会福祉法人 神戸福生会 中辻直行 理事長(当時)
「地域内で暮らす老人や障害者、社会的ハンディを持った弱者と言われる人たちが、地域の中で暮らせるということが、その社会が健全だということを証明することだと思います。老人たちは地域の中のカナリアと同じです。地域が不健全であれば彼らが1番最初に暮らせなくなる。ですから、災害があっても、老人たちや障害者を地域から切り離すことは一時的、緊急的にはあるかもしれないが、基本的には、彼らを地域の中で守るという視点で、いろんな災害の対策や政策が行われれば、結果的にそれが最善の対策だと思います」
とても重い言葉です。

これまで進めてきた災害対策の上に、さらに何を積み上げられるのか。

経験やマニュアルもない中、目の前の人の命を何とか救おうと動いた人たちの姿からは、学ぶべきことがまだあると感じます。

(2025年1月17日「NHKスペシャル」で放送予定)
大阪放送局 ディレクター
岡本直史
2012年入局
避難所の映像にうつる高齢者の姿が自分の祖母(要介護3)と重なって見えました
ディレクター
松本真理子
(株)かなでる代表
耐える避難所を根本から見直す必要性を突き付けられた取材でした
神戸放送局 ディレクター
井上乃晏
2023年入局
声を上げやすい避難所環境にしていくことが大事だと感じる取材でした
神戸放送局 記者
木村真実
2023年入局
震災の教訓を次の世代に伝えなければならないという思いを新たにしました
大阪放送局 記者
藤島新也
2009年入局
社会が大きく姿を変える中で、30年前の映像を見る意味を考えながら取材しました

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