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第266話 なんでも言うことを聞く券を使った

 那須(なす)とのやり取りを終えたあと、(たくみ)京極(きょうごく)に彼のことを任せてから、香奈(かな)とともに帰宅した。

 もう選手権は迫っていたが、二日連続の練習試合だったこともあり、部活はメンバー発表のみで練習はなかった。


「いやはや、怪我しててもメンバーに入るとは、さすが私の先輩です!」


 巧がソファーの後ろを通ると、座っていた香奈が満面の笑みで身を乗り出して、瞳をキラキラと輝かせながらハイタッチを求めてきた。

 帰り道からずっとこんな調子だ。


 巧としても、メンバー入りできたことはもちろん嬉しかった。

 しかし、那須とのやり取りも影響して、喜びよりも使命感のほうが強かった。


 そのことを正直に打ち明けると、香奈は一瞬だけ真剣な表情になったが、すぐに朗らかな笑みを浮かべた。


「大丈夫ですよ。巧先輩なら絶対にチームの力になれます。敏腕美少女マネージャーの私が保証します!」


 冗談めかして胸を叩いた後、香奈は真剣な表情で続けた。


「それに、そもそも京極さんは忖度で選手を選ぶような人じゃないし、みんなも驚きはしていましたけど反対はしてなかったじゃないですか。それこそが、巧先輩の実力を証明していると思いますよ。咲麗(ウチ)はただの仲良し集団じゃないんですから」

「まあ、それはそうなんだけどね」


 普段は和気藹々(わきあいあい)とした雰囲気であることが多いが、強豪校の選手というのは得てして我の強いものだ。

 練習中に口論になることも少なからずあるし、もしも巧の選出がおかしいと判断した者がいたならば、あの場で異を唱えていてもおかしくはなかっただろう。


「それに、オフなんですから今日くらいは休みましょうよ。巧先輩もリハビリに分析に忙しかったですし、たまには休まないとガス欠になっちゃいますから」

「まぁね」


 香奈の言う通り、巧はここ最近は特に忙しかった。

 練習での声掛けやリハビリの他に、京極やコーチ陣に混じっての分析なども行なっていたからだ。


「というわけで、先輩はここでのんびりしててくださいな。今ちゃちゃっと昼食を——」

「待って」


 巧は立ち上がった香奈の腕をつかんだ。

 彼女は不思議そうな表情を浮かべた後、イタズラっぽく微笑んだ。


「どうしたんですか? イチャイチャしたくなっちゃいました?」

「そんなのは四六時中だよ。そうじゃなくて、今日は僕が作るから香奈は休んでて。僕以上に香奈のほうが疲れてるだろうから」

「いえいえ、私なんて巧先輩に比べれば全然ですよ」


 香奈が立ちあがろうとする巧の肩に手を添えた。手に力を込めることなく、そっと制止する仕草をした。


「常に足首のことを気にしながら普段はやらない分析作業とかをやって、大好きなサッカーができない中で辛いリハビリをこなして、その中でメンバーに選ばれるかわからないプレッシャーもあったんですから、巧先輩のほうが疲れてるに決まってます」

「いやいや。そんなこと言ったら、香奈だってずっと僕のことを気にかけて家事とかも全部やってくれて、その上で部活とか勉強とか自分のやるべきこともやってたわけじゃん。絶対香奈のほうがハードだったって。香奈、最近ちょいちょい注意力が散漫になってるし」

「っ……」


 香奈の瞳が大きく揺れた。気まずそうにふいっと横を向いた。


「もともとおっちょこちょいではあるけど、最近は明らかに疲れが出てるよ。自覚はあるでしょ?」

「……でも、これまでいっぱい支えてもらった分、今度は私が巧先輩を支えるって決めましたもん」


 香奈は頬をふくらませ、唇をきゅっと結んだ。

 巧は彼女の腕を引っ張って隣に座らせ、その頭をポンポンと撫でた。顔を覗き込んで笑いかけた。


「その気持ちはすごい嬉しいよ。でも、頑張りすぎてて心配なんだ。もう日常生活くらいなら支障ないって言われてるし、少しは休んでよ。十分すぎるくらい支えてもらったし、香奈が元気でいてくれなきゃ嫌だからさ。ね、お願い。今日だけは休んで」

「でも……」


 香奈の表情には葛藤が見てとれた。


(頑固だなぁ)


 巧は苦笑を浮かべ、最終兵器を使うことにした。

 一枚の紙切れを取り出した。


「なら、これを使わせてもらおうかな」

「これ?」


 香奈は恐る恐る手を伸ばし、紙を受け取ると大きく目を見開いた。

 そこには彼女の字で「なんでも言うことを聞く券」と書かれていた。


「これ、私が誕生日の前祝いでプレゼントしたやつじゃないですか」

「そう。今日一日、香奈は休んでください」

「……ずるくないですか?」


 香奈が巧と紙を交互に見て、唇を尖らせた。

 巧は口角を上げた。


「まさか。正当な権利だし、怪我をした当初から考えてたんだ。きっと香奈は全力でサポートしてくれるだろうから、僕がある程度回復したら強制的に休ませてやろうって。香奈って僕が積極的にしたいこととかは大体聞いてくれるけど、休めって言っても全然休まないじゃん」

「くっ、まさかこんな使い方をされるとは思わなんだ……!」


 香奈が悔しげにソファーを叩いた。

 その頭を撫でながら、巧はイタズラっぽく笑った。


「もっといかがわしいことに使ってほしかった?」

「そ、そんな意図はなかったですもん!」


 香奈がガバッと顔を上げた。


「でも、顔真っ赤だよ?」

「だ、だって、巧先輩が変なこと言うからっ……! 私はただ、普段は言いづらいちょっとしたわがままでも言ってくれればなって思っただけですからっ!」

「うんうん、わかってるよ」


 巧があやすように頭に手を乗せると、香奈が「またそうやって子供扱いする……」と、むすっとした表情を浮かべた。

 その頬に手を添えて、巧は真剣な表情で続けた。


「ま、そういうわけで今日だけは休んでよ。選手権には香奈の力も欠かせないし、また明日から全力で頼らせてもらうからさ」

「……少しでも痛みを感じたり、しんどいなと思ったら言うこと。それと私が休めと言ったら従うこと。これを徹底してくれるのなら許可します」


 香奈が仏頂面でそう言った。

 巧は力強くうなずいた。


「うん。香奈を心配させるようなことはしないって約束するよ」

「絶対ですからね?」

「もちろん」


 お互いの小指を絡ませると、香奈はようやく表情を緩めた。


「焼きそば食べたいんだけど、いい?」

「なんでも大丈夫ですよ」

「わかった。じゃあ、香奈はゆっくり過ごしてて。ほら、ハンドスピナーとかあるし」

「今更あれで遊ぶ人なんていないですよ。じゃあ、お言葉に甘えてゆっくりさせてもらいますね」

「はーい」


 巧はもう一度香奈の頭を撫でてから、キッチンへと姿を消した。




 昼食後、巧はソファーの前にオッドマンを置き、背もたれにもたれかかりながら足を伸ばしていた。

 彼の足の間には香奈がすっぽりと収まっていた。


 一番好きなバックハグの体勢で、巧は香奈の体を揉んでいた。

 とはいえいやらしい意味ではない。マッサージをしていたのだ。

 感謝の気持ちを込めて、今日一日は休ませるだけではなく、とことん香奈を甘やかすと決めていた。


「ほら、だいぶ肩も凝ってる」

「んっ……」


 巧が指圧を強めると、香奈が鼻から抜けるような声を出した。


「痛くない?」

「気持ちいいです、んっ」


 本人としてはそんなつもりはないのだろうが、嬌声にも似た声をあげられると、巧としてもただマッサージをしているだけでは物足りなくなってくる。

 両肩に手を添え、香奈の耳元に口を寄せて囁いた。


「——いつも支えてくれてありがとね」

「ひゃっ⁉︎」


 香奈の体がビクッと跳ねた。

 まるで巧の声から熱が伝わったかのように、耳が真っ赤に染まった。


「ほら。せっかくマッサージしてるんだから、照れてないでリラックスしてよ」

「誰のせいだと思ってるんですか。全くもう……」


 香奈は赤面しながら口をもごもご動かした。

 巧は腰に手を添え、同じように指圧した。


「相変わらず引きしまっててすごいね」

「巧先輩がそうやって喜んでくれるなら、体型維持くらいお背中かいかいですよ」

「お茶の子さいさいね。ただ背中痒いだけじゃん」

「そうなんですよ。ちょっと掻いてくれませんか?」


 香奈が振り返り、小首をかしげて微笑んだ。


「いいよ」


 巧はシャツの中に手を入れて、直接背中に触れた。


「ひゃ、つめたっ!」

「ちょっとこれ、邪魔だな。外していい?」

「い、いいわけないでしょう!」


 巧がブラのホックに手をかけると、香奈が真っ赤な顔で叫んだ。


「でも、これがあると背中掻けないよ」

「ブラの占める面積なんてそんなないですし、そもそも本当は痒くないですから!」

「えっ、嘘吐いたってこと? それはお仕置きが必要だなぁ」

「や、ちょ、くすぐったいです!」


 巧が香奈の脇の下や脇腹をいじると、彼女はキャッキャと騒ぎながら身をよじらせた。

 攻撃の手を緩めると、香奈は荒い息を吐きながら巧を睨んだ。


「ねぇ、休ませてくれるんじゃなかったんですか?」

「構ってあげたら気分転換になるかなって思ったんだけど、ダメだった?」

「だったらこちょこちょじゃなくて、普通に構ってくださいよ」

「なるほど。普通でいいのか」


 巧はお腹に手を回し、香奈を抱きしめた。

 ふわっと爽やかな甘い香りが漂う。


「そうそう。これですよこれ」


 巧の腕の中で、香奈は満足そうにうなずいた。

 モゾモゾと体勢を微調整した後、彼女は頬をだらしなく緩ませながら巧に体重を預け、鼻唄を歌い始めた。


 すっかりリラックスしているその様子を見て、巧はクスッと笑みをこぼした。

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