第2話 美女、パイルバンカーを携えて

 子供の頃は純粋に世界には希望と幸福が飽和しているモノだと思い込んでいたが、いざ自分が悲惨な不幸の渦中に陥れられるとそんなことはなくて、この世界は残酷なんだという現実を突きつけられた。


 ある時期、世界とは特定個人を贔屓して、気に入らない誰かを虐げる、ひどくだと思っていて、そう思わねば生きていけないほどには、苦しんでいたと思う。

 けれども、だが、そんなことはないのだ。断じて。


 成人した今理解したのは、世界はただ世界で、そこにあって、地球は黙って公転周期に従って回っているに過ぎないし、太陽は核融合反応の産物でしかない。月はただの衛星で、遠い宇宙の星々は、なんらかの恒星だとか、そう言ったものだったり、あるいは何億年も前の残り香にすぎないのだ。

 別に世界は人間に優しくするつもりも、残酷に振る舞うつもりもなく、静かに佇むだけだ。

 そこにさまざまな意味や付加価値を言葉によってタグ付けして悦に浸るのは人間だけだろうし、少なくとも鹿や狐や狼や、そういった野生動物はそんなことを考えながら生きていたりはしない。


 ただ世界は醜くも美しくもなかったが、人間は醜かった。

 プライベートもなく押しかけてきて箸の上げ下げまで記事に取り立てるマスコミ、学校で散々しつこくあれこれ聞いてくる同級生、それは明確にいじめとか——暴行罪、名誉毀損、殺人未遂に恐喝といった立派な犯罪であり、奏真は十四歳から十六歳までの二年間、不登校になった。


 そういうわけで、奏真はその日暮らしに徹した。

 過去は変えられないし、未来のことを考えると不安になる。なら、その日をどうにか生き延びることだけに集中しているしか、この辛い現実を乗り切っていく方法がない。


 引きこもり生活のままでは腐っていくと自覚して、金属加工工場のライン工のバイトに申し込み、何件か受けて一件、採用を勝ち取った。給料は月々ではなく日々もらえるところに面接してどうにか採用にこぎつけ、日当をもらって暮らす日々。

 その中から光熱費分を差し引いた金で飯を買って、ただ生きている。


 生きている理由も目的も判然としないが、それでも、生きていた。生きるために、生きていた。

 生きなくては、と思っている。そこに理由はない。強いて言えば、死にたくないというだけの、動物的な個体維持本能にすぎない。


 十二月の初旬の夜、奏真は金森金属加工所という工場の最寄りの駅から自宅の最寄り駅まで乗っていき、徒歩で帰路に着く。

 自宅は高架線路沿いのうるさい立地で、とてもじゃないが静かに暮らせる環境ではないが、家賃が月に四万円と格安だったのでそこを選んだ。


 奏真は暗い歩道を歩きながら、ふと駅からずっと着いてきている何者かがいることに気づいていた。

 一体誰だろう。用があるならはっきりと声をかければいいのに、なぜそうしないのかわからない。

 その妙に粘っこいゆったりとした歩調はこちらの不安をひどく煽り、奏真は嫌な予感を抱いた。


 昨今の痴漢は男女関係ないという。

 まさかその手の類だろうかと恐れ、そして奏真は自宅へのルートを外れるように走り始めた。

 本来なら左に曲がる路地を右に曲がり、人通りのある国道沿いに出る路地を走っていく。


 しかし、違和感に気づいたのは自分の息が上がり始めてからだった。

 奏真はまだ十九歳、ライン工とはいえ力仕事もある。流れてくる加工板をひたすらに磨いて次の工程に流す仕事であり、それは腕だけでなく上半身を支える下肢も酷使する。加えて自宅と駅、駅から職場までは行き来するのも徒歩だし、まだ体力は旺盛な年頃。なんなら昔からなぜか運動神経は良かった方だ。

 加えて奏真は夜目が効く。


 にもかかわらず路地に終わりが見えず、先にはただ、真っ暗な闇が続いている。

 まるで奈落が口を開いたような有様であり、奏真は息を呑んだ。なんなんだこれは——一体、何が。

 そのとき背後から恐ろしい力で組み伏せられ、地面に叩きつけられた。

 苦鳴を漏らしながら奏真はなんとか顔を男に向ける。


 そいつは頭部が灰色の犬になっており、言うなれば獣人ともいうべき姿だが、奏真はそれを知っていた。だから悲鳴は上がらず、ただ冷静に、現実を受容する。

 十一年前の狐男と同じ——化け物の類い。


「小僧、日常が退屈じゃないか?」


 男は唐突にそう言ってきた。


「アヤカシに堕ちれば楽になれるぞ」

「なんのことだよ……っ!」


 奏真はもがきながら男の顎に肘を打ち込んだ。怯んだ隙に抜け出し、なんとか逃げようと走り出した。


「無駄なことをするな」


 背後から男が追ってくる。奏真は話を聞かずに走ったが、相変わらず闇に吸い込まれるようにして、彼は一向にその渦からは逃れられない。

 いい加減、自分が何か異常な場所に迷い込んだと実感した。奏真は足を止め、振り返る。

 犬男が口を裂いて笑った。


「〈禍界マガツカイ〉は初めてか? 我らアヤカシが独自に持つ生得的な〈庭場〉だ」

「専門用語ばっかでわかるか。要するになんなんだよ」

「端的に言えば現世から隔絶された異空間だ。詳しくは、俺とアヤカシを謳歌するなら一から教え込んでやる」

「そのアヤカシってのもなんだかわかんねえんだよ……!」


 いずれにせよこのままではまずい——奏真は必死に脳を回し、しかし起死回生の一手など打てるはずもない。

 せめてアヤカシになるとでも言えば命は助かるだろうか。

 それに楽になれるなら、それはそれで——。

 と、そのとき。


「ちっ、勘づかれたか」


 上から何者かが降ってくる。

 逆巻く突風を纏いながら落下してきたその人物は、手に携えていたゴテゴテしたものを地面に叩きつけ、アスファルトの大地を蜘蛛の巣状に砕いた。

 捲れ上がった地面、飛び散る破片と砂埃が舞い、女の髪が舞う。

 男が後ろに飛び退き、その右腕は欠損し、血を滴らせていた。


 その人物は女だった。歳は奏真より上、二十代前半か半ばくらいで、クリーム色のセミロングのボブカットに緑色の目をしており、一見すると柔らかい印象を受ける横顔だが、その瞳には芯の強さが覗いている。

 女は手にしていたガジェットを引き抜く。

 それは、人間が扱えるギリギリのサイズにまで縮小したパイルバンカーだった。彼女の身の丈ほどもある杭打ち機は、男の右腕を粉砕した獰猛な杭を格納し、次なる一発を待ち受けるようにリロードされる。


「退きなさい。これ以上続けるなら祓うわよ」

「そこの小僧がよほど重要なのか? それはそうか、そいつは"ビレイグ"が見逃した特別製だからな」


 なにか意味のわからないやり取りの末、男は顔をローブで隠して、去っていった。

 次の瞬間路地にかけられていた〈禍界マガツカイ〉が解け、女はパイルバンカーを一枚の札に戻し、懐にしまった。

 奇妙な出来事が次々に起きて、奏真は理解の限界を超える事態に混乱状態を超えていっそ冷静にすらなっていた。


「あなた、これから少し時間ある?」


 女はそう言って、振り返る。それから微笑みながら右手を差し出した。


「私は鼓塚八千代こづかやちよ。天城民間特殊警備会社の社員で、〈忌術師きじゅつし〉よ」


 奏真はその手を取ることはせず、小さく「少し話す程度ならいいですよ」とだけ応じた。

 八千代と名乗った女は微笑んだまま右手を下ろし、「そばに車を停めてるから、ファミレスにでも行きましょうか」と言って、歩き出した。

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