忌術戦域 — 玉兎に吼えれば真神の疵は癒えるのか —

夢咲蕾花

第一章 〈隠憑き〉

第1話 ヒグラシと、黄昏と

 家に帰ると、酷い生臭さと糞尿の臭いが鼻をいた。それがヒトの肉体から発せられる、生命の終わりが放つ最期の臭いであると知るのは、すぐあとのことであった。


 その日も大守奏真おおかみそうまは友達と公園で遊んでいた。別段、何をしようと決めていたわけではなかったが、午後一時頃に公園で集まって一緒にゲームをしたりドッジボールをしたり、コンビニで買ってきた水風船をぶつけ合ったりして、夕方の六時まで遊んだ。

 まだまだ遊び足りない小学校二年生の夏休みの終わり。だが、そろそろ宿題をしないとまずいと、奏真は頭ではそれをわかっていて、まだ遊ぼうと言っている友人に別れを告げて学区指定の白いヘルメットを被って自転車に跨った。


 ヒグラシの鳴き声が響いている。夏の終わりと、秋をの始まりを告げる逢魔時境界の声。


 ——境界には妖怪が出るんだぜ。


 クラスのオカルト好きの男子が言っていた話を思い出す。そいつとは別に友達じゃないが、たまに話しかけてきては、奇妙なことを言うのだ。

 曰く古くより妖怪は山と里の境、里の辻、川、浜辺、あるいは屋敷で誰も使わぬ日常と非日常の境目となっている領域に現れ、特に黄昏と払暁——夕暮れ時と、夜明け時に現れるのだとか。


 なぜ今そんなことを思い出したんだろう。奏真は自分に疑問をぶつけ、それから、結局深く考えるのはやめて、自転車を漕いだ。あんまり帰りが遅いと、夕飯のおかわりが制限される。

 奏真は自転車を急いで漕いで住宅街に入ると、自分の家の玄関前で自転車を止めてドアホンを鳴らした。


「帰ったよー! 父さん、母さん! 花奏かなでー!」


 両親と妹の名を呼ぶ。しかし、反応はなかった。

 留守にしているのだろうか? だが自家用車のSUVは駐車されており、何かのいたずらを疑って奏真はドアを引いた。するとドアは開いて、なんだか嫌な予感と——そして、嗅いだこともないような凄まじい生臭さがした。その中には、トイレで嗅ぐような屎尿しにょうの臭いも混じっていて、いよいよ嫌な予感は加速した。


「ねえ。何この臭い。誰か漏らしたの?」


 冗談めかして言った声は、明らかに恐怖と緊張で震えている。

 奏真の靴下にピチャリと何か濡れる感覚があった。夕陽が赤く見せる水だ。それはリビングから廊下に流れていて、奏真は恐る恐るリビングのスライドドアを開ける。


「……みんな?」


 仕事帰りだろう。スーツ姿の父は上半身を失い、腸を始め臓物と糞尿をぶちまけてその下半身はソファに投げ出され、母は結婚指輪をした左腕だけになっていて、妹の体は今まさに、窓際に立っている男が狐のような頭で、大きく裂けた口を広げ、丸呑みにしていた。

 床に転がる妹の頭が、虚無をその目に湛え、奏真を見つめる。


 狐の化け物が家族を喰っている。

 奏真は流れているものが夕陽で赤く見える水ではなく血であると悟り、腰を抜かして失禁した。小だけでなく大の方も漏らし、ガチガチ歯を鳴らしながら、それでも目は狐の男から離れない。

 五本の黒銀の尻尾を揺らす男は鼻を鳴らし、奏真を一瞥し、奇妙な笑みを浮かべ窓から出ていった。


 晩夏の風が、血と糞と小便の——死の臭いをかき混ぜる。

 遠くから、ヒグラシの鳴き声が響いていた。

 境目を告げる、逢魔時は恐るべきアヤカシを奏真の前に遣わしたのである——。


×


 なんで十一年経った今でもあの時の光景を夢に見るのだろう。

 精神科医から散々、殺人鬼の凶行に錯乱した脳が見せた幻覚だと言われたが、奏真にはどうしても納得がいかなかった。

 なぜと言われて答えられる、なんらかの物的証拠も論理も理屈もない。だが己の記憶の確実さと、全身で感じた恐怖が、あれを現実だと未だに物語っている。

 事実十九歳になってもなお、その記憶は脳に焼き付いていて、消えていくことは決してない。


 人生のドロップアウト組、アウトサイダー、ストレンジャー。あるいは、人間未満の、人間失格の落第を捺された失敗作。

 今の奏真を指し示す言葉は数多くあるが、強いて言えば「妖怪」ということばがしっくりくる。

 人間というものがどこか他人事のように感じられ、彼らの営みに当事者意識を持てない。


 センセーショナルな事件を嗅ぎつけたマスコミの詰めかけ攻撃が原因か、厄介者であることを包み隠さずそのように扱ってきた親族への呆れか、学校での苛烈ないじめが原因か。

 おそらくはその全てが正しく、あくまで部分的に正しいだけで、どこかで間違っている。

 根本的な問題はそこではないように思えていて、しかし奏真には明確にこうと言える答えを持ち合わせてはいなかった。


 だから、今日も「妖怪人間」を演じる。

 真っ当な社会で生きれないから、細々と金属加工工場でライン工のバイトをして、低賃金で月々をどうにか暮らすしかない。


 奏真の人生は劇的な悲劇がずっと続くことはなく、いざそれらが過ぎ去れば、灰色ののっぺりしたものが平坦と続く日々につながっていき、結局どんな経験をした者でも、人間社会だとか、社会通念、空気感という真の怪物には勝てないのだな、と実感した。


 そんな生活が激変したのは、ある冬の日の夜。

 彼は、パイルバンカーを携えた女と出会い、この世の闇に住まう住人の戦いを目の当たりする。

 そして、己のうちに宿るモノについて知らされるのだ——。

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