ドラフトから数えてちょうど10年前のこと。昭和33年、佐川は関大の村山実と同時に早実の王貞治も担当していた。当時の王は父親・仕福さんの希望もあり「大学進学」で固まっていた。その王を佐川は熱意と執念で口説き落とした。ところが、「進学」で手を引いていた巨人が「プロ」も有り得るなら話は別-と割り込んできた。結局、「東京でプレーしたい」という王の希望が強く、土壇場で佐川は巨人に敗れた。
その恨みを晴らす最大のチャンスが目の前に…。そんな気持ちも当然、佐川にはあっただろう。指名が終わった後の記者会見でもこう心境を語っている。
「私は10年前に王君を獲るのに失敗した。それが原因になって、それからの阪神は巨人に勝てなくなった。責任を感じている」と。
だが、そんな「恨み」や「雪辱」の思いよりも、スカウトとして「最強打者・田淵が欲しい」という気持ちの方が強かった。
「10年に1人出るか出ないかの逸材である田淵君は絶対に逃がせない」
これが「田淵指名」の真相である。
「そんなにボクを買ってくれていたんなら、電話の1本もあっていいなじゃない?『指名するかもしれないので、その時はよろしく』だけでも連絡があったら、親父もボクもあんなに怒らなかったと思う」
《ほんまに》その通りである。(敬称略)(田所龍一)