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「相互作用」と「合意」--「合意」把握へのシンボリック相互作用論からの接近--
桑原 司
Toward an interactionist model of consensus
                          Tsukasa Kuwabara
 
 
 
1 はじめに
 「相互作用と合意」(interaction & consensus)というテーマが、そのパースペクティブ(分析枠組)の如何に関わりなく、社会学にとって、解明されるべきもっとも重要な研究テーマの1つとなってきたことはいうまでもないが、このことは、その1主要潮流である「シンボリック相互作用論〔以下、SIと略記〕」(Symbolic Interactionism)においてもまた例外ではない。否むしろ、SIにおいては、ことさらに重要な研究テーマとして位置づけられてきた、といっても過言ではない1)。
 SIとは、1960年代初頭に、アメリカの社会学者・社会心理学者であるH・G・ブルーマー(Blumer,H.G.)が、G・H・ミード(Mead,G.H.)の思想をベースとして創始した、社会学・社会心理学のパースペクティブの1つである2)。それは、人間間の「社会的相互作用〔=相互作用〕」(social interaction)、なかでも、「シンボリックな相互作用」(symbolic interaction)を主たる研究対象とし、そうした現象を、相互作用を行う「行為者の観点」から明らかにしようとするものである(船津、1976年)。
 本論の目的は、このSIの観点から、「相互作用と合意」というテーマを理論化するための足がかり(前提)をつかむことにある3)。
 
2 自己と他者との関係--「ブラック・ボックス」としての他者--
 人間間の相互作用を取り扱うに際しては、そこに参与する自己と他者とが、互いに相手が「ブラック・ボックス」(black box)の関係におかれている、ということが議論の前提とされなければならない。このことは、近年の社会システム理論(就中、N・ルーマンの『社会システム理論』(Luhmann,1984))においても強調されている。それによると、自己と他者とは、互いに、相手は一方にとって「ブラック・ボックス」なのであり、「どんなに努力しても、またどれだけ時間をかけても、互いに相手が見通し得ないままなのである」(Luhmann,1984=1993年、168頁)。すなわち、相互作用に参与する自己と他者とは、彼らがいかに相互作用を積み重ねようとも、互いに相手が「不透明」ないしは「不可視的」な存在であり続ける、ということが、「相互作用」を取り扱う上で議論の前提におかれなければならないのである。
 こうした「『ブラック・ボックス』としての他者」という視点は、SIにおいてもまた踏まえられなければならない。以下では、ブルーマーのSIをもとにそのことを説明することにしたい。
 ブルーマーのSIにおいては、自己と他者との関係とは、まず何よりも、「自己と世界との関係」として捉えられている4)。「自己と世界との関係」に関して、1977年に発表された論文「ルイスに対するコメント」(Blumer,1977)においてブルーマーが提示した見解を要約的に再構成するならば、それは以下のように捉えられる。
 人間は、如何に努力しようとも、自らを取り巻く世界(「現実の世界」(world of reality))に関して、徹頭徹尾主観を排して、そのありのままの姿を知ることなど決してできない。何故なら、人間は、そうした世界を、ある一定の「パースペクティブ」(perspective)を通してしか見ることができず、それ故、必然的に、人間によって知られる世界とは、その人のパースペクティブによって色づけられ切り取られたものとなってしまうからである。したがって、人間が把握する世界とは、あくまで、それを見る人間が、自らのパースペクティブによって「構築」(carve out)した5)、そうした世界についての“仮説”の1つに過ぎず(そうした仮説が、ブルーマーのいう「対象」(object)を、またそうした「対象」から“のみ”構成される「世界」(world)を形作る)、決してその世界の「ありのままの姿」(neutral stuff)ではあり得ない6)。
 こうした「自己と世界との関係」が「自己と他者との関係」にも当てはまる。ブルーマーのSIにおいては、自己にとっての「他者」とは、まず第1に、「対象」(「社会的対象」)の1つと捉えられており7)、それ故に、自己にとっての「他者」とは、“ありのままの他者それ自体”ではあり得ない。すなわち、自己にとっての「他者」という存在もまた、あくまで、それを見る自己のパースペクティブによって色づけられ切り取られたものなのであり、それを見る人間が、自らのパースペクティブによって構築した、そうした世界(他者)についての仮説の1つに過ぎず、決してその世界(他者)の「ありのままの姿」ではあり得ないのである。ましてや、自己にとって、他者の内面をありのままに(ダイレクトに)把握することなど、まず不可能なことと捉えられなければならない。こうしたことは、その他者にとっての「自己」という存在にもまた当てはまる。
 補足:ちなみに、ブルーマーの「存在論に関する四つのテーゼ」をふまえる限り、現実の世界はその世界に対する人間の行為に対していつでも「抵抗」しうる(換言するならば、その人間のパースペクティブに対して「例外的実例」を提示しうる)存在と捉えられる。それ故、人間の現実の世界に対する上記の「仮説」は“いつでも外れうる”ものと捉えられることとなる。故に、人間の仮説は絶えず作り替えられなければならない可能性を宿命として持っており、その結果として、人間の行為、相互作用、社会もまた、絶えず、その変容を迫られることとなる--2006/12/21講義用に筆者補足--。
 相互作用に参与する自己と他者とは、互いに相手が「ブラック・ボックス」として存在し続ける。では、そうした自己と他者とが、いかにして「合意」に達しうるのであろうか。
 
3 「考慮の考慮」(taking into account of taking into account)
 ブルーマーにおいて、「合意」の形成とは、まず何よりも、自己と他者とが相互作用を行うことによって、ある一定の相互理解(共通の理解)に達すること、と捉えられている8)。
 先にも述べたように、相互作用において自己と他者とは、互いに相手が「ブラック・ボックス」の関係にあるものと捉えられなければならない。では、そうした「ブラック・ボックス」の関係にある自己と他者とは、いかにして合意に達することができるのであろうか。
 ブルーマーにおいて、「相互作用」とは、まず何よりも「シンボリックな相互作用」(symbolic interaction)と捉えられている9)。ブルーマーにおいて、シンボリックな相互作用とは、ある「身振り」(gesture)の呈示と、その身振りの「意味」(meaning)に対する1つの反応と定式化されている。身振りは、それを呈示する個人とそれが向けられた個人の双方に対して意味を持ち、両者に対して身振りが同じ意味を持つとき(すなわち、そこで用いられている身振りが「有意味シンボル」となったとき)、両者は相互に理解し合っている(すなわちある一定の「合意」に達している)、とブルーマーは考えている(Blumer, 1969, p.9=1991年、11頁)。ブルーマーによれば、この身振りには、それを呈示する個人とそれが向けられた個人の双方に対して次のような3つの意味があるという。先ず第1に、身振りの意味は、それが向けられた個人が何をするべきかを表す。第2に、その身振りを呈示している個人が何をしようと考えているのかを表す。第3に、この両者の行為がかみ合わされることによって生じる「連結行為」(joint action)10)の形態を表している(Blumer,1969,p.9=1991年、11頁)。それをブルーマーは、以下のように例証している。
 「例えばある強盗が、被害者に向かって両手を挙げろと命令するとき、その命令〔=身振り〕は次の3つのことを表している。すなわち、(a)被害者がこれから行うべきこと〔つまり、両手を挙げるという行為〕、(b)強盗がこれから行おうと考えていること。すなわち、被害者からお金を奪い取る行為、(c)両者の間で形成されようとしている連結行為の形態。この場合は強盗である」(Blumer,1969,p.9=1991年、11-12頁)。
 ブルーマーによれば、この例において、強盗ないしは被害者のうちその何れかでも、身振りが持つこうした3つの意味のうちその1つでも把握し損ねれば、「コミュニケーションは有効にはたらかず、相互作用は妨げられ、連結行為の形成は障害にぶつかる」ことになると言う(Blumer,1969,p.9=1991年、12頁)。すなわち、両者の間に意味の共有ないしは相互理解(合意)が成立し得ないことになる。では、こうした状況において、強盗と被害者とは、いかなるメカニズムにより、この身振りの意味を共有しようとするのであろうか。そのメカニズムを解明するに際して、ブルーマーの次の説明が参考になる。
 「〔互いに相互作用し合っている〕各々の個人は、互いに相手の振る舞いを、一定程度まで、相手の観点から見なくてはならない。相手を一つの主体として、すなわち、その人間が行為を発動させ表示しているのだという点から、把握しなければならない。・・・・相互作用に参与するいずれの側もこうしたことを行うことにより、かくして、単に相手を考慮に入れるのみならず、その相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れることになる」(Blumer,1969, p.109=1991年、142頁)。
 ここで、「単に相手を考慮に入れるのみならず、その相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れることになる」という現象を指して、先に桑原(2000年、50頁)は、「考慮の考慮」(taking into account of taking into account)と呼んだ。ブルーマーによれば、複数の人間が、互いに自らの行為を相手の行為にかみ合わせ合い、連結行為を形成しようとする際には、個々人はめいめい、必然的にこうした「考慮の考慮」という解釈活動を行うことになるという(Blumer,1969, pp.109-110=1991年、142頁)11)。
 先ほどの強盗の例に戻ろう。上記の引用を踏まえるならば、すなわち被害者は、まず相手の振る舞い(強盗による両手を挙げろという命令=身振り)を、「相手の観点」(強盗の観点)から見なくてはならない。とはいえ、双方が互いに相手にとって「ブラック・ボックス」の状態にある、という前節の前提を踏まえるならば、強盗の観点それ自体を、被害者がそのまま把握することなどあり得ないので、当然、その「強盗の観点」とは、被害者が“想定”した「強盗の観点」ということになる。すなわち被害者は、強盗を“これこれの観点を持っている者”とまず想定しなければならない。こうして被害者は、その「強盗の観点」を、より正確に言うならば、「強盗の観点」についての仮説を手に入れることになる。これがまさに「相手を考慮に入れる」(taking another person into account)ということで含意されている内容である。とはいえ忘れてはならないことは、相手を考慮に入れるという営みを行っているのは、その被害者のみではない、という点である。強盗もまた、被害者に身振りを呈示するに際しては、その被害者を「考慮に入れる」という営みを行わなければならない(Blumer,1969, pp.9-10=1991年、12頁)。すなわち、強盗は強盗で、身振りを呈示するに際しては、被害者を“これこれの観点を持っている者”と想定することで、「被害者の観点」を手に入れなければならない。
 この時点で、両者とも互いに「相手を考慮に入れる」ことになる。とはいえ、それを“両者とも”行っているが故に、ブルーマーが指摘するように「単に相手を考慮に入れるのみならず、その相手を、今度は、自分のことを考慮に入れている相手として、考慮に入れることになる」(考慮の考慮)。上述のように、「相手を考慮に入れる」という営みに対応するのが、「相手の観点」の“想定”であった。では、「考慮の考慮」という営みに対応するのはいかなる事態であろうか。ブルーマー自身は、そのことについて明示的に述べてはいないが、少なくとも推論によりこたえを導き出すことは可能である。再び被害者の立場に即して議論をするならば、被害者は、強盗を、被害者を考慮に入れている相手として、考慮に入れる、ということになる。それはすなわち、被害者が、強盗を、「被害者の観点」を取得(想定)している相手として、考慮に入れる--その<強盗の観点>を取得する--ということを意味する。では、ここで取得された<強盗の観点>と、先の「強盗の観点」との違いは何であろうか。人間にとっての世界(そこには当然「他者」という存在も含まれる)とは、あくまで、人間が自らの「パースペクティブ」を通して見た「対象」ないしは「世界」の1種であり、その世界のありのままの姿ではない、という前節のブルーマーの前提を踏まえるならば、それは次のように捉えられる。すなわち、強盗は、被害者を強盗自身の「パースペクティブ」から見ることによって、「被害者の観点」を取得している。つまり、強盗が持っている「被害者の観点」とは、必然的に、強盗のパースペクティブから見た「被害者の観点」ということになる。ということはすなわち、<強盗の観点>とは、被害者が取得した「強盗のパースペクティブから見た被害者の観点」を意味することになりはしないか。両者ともに、「考慮の考慮」を行うのであれば、当然ながら、強盗もまた同様にして、「被害者のパースペクティブから見た強盗の観点」を取得しなければならないことになる。すなわち、両者とも必然的に「相手の観点」のみならず、「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」をも取得し合うことになる。ブルーマーによれば、こうした相互作用において、両者ともに、「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」の双方を正確に取得しているときにのみ、両者はそこで用いられている身振りの意味を共有することができる。換言するならば、そこにおいて、「ある身振りを呈示している人間が、その身振りが向けられている他者と同じ見方で自分の身振りを見ている」(Blumer,1993,p.179)状態が成立することになる。
 以上の議論から明らかになったように、相互作用を行っている自己と他者との間に「相互理解」ないしは「合意」が成立するためには次の条件が必要となる。すなわち、「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」の双方を、相互作用を行っている自己と他者の双方が正確に取得しているときにのみ、両者の間に「合意」が成立することになる。
 
4  「覚識文脈」(awareness contexts)
 ストラウスらによれば、「社会的相互作用」(social interaction)という現象を、如何に捉え如何に説明するかという問題は、社会学にとってきわめて重要な問題であり、M・ウェーバー、W・I・トーマス、T・パーソンズ、E・ゴフマンという名だたる社会学者たちの名を挙げるまでもなく、社会学の巨匠たちは、皆この問題に取り組んできたという (Glaser and Strauss,1965,p.9=1988年、9頁)。彼らによれば、こうした社会的相互作用を論じる上での最も基本的な問題とは、「相互作用を行っている人々が、どのようにして、相手と自分自身の双方を相互作用者(interactant)として定義するに至るのか、また相互作用の進展につれて、必要に応じて、どのように再定義してゆくのか、という問題」(Glaser and Strauss,1965,p.16=1988年、16頁)であると言う。ストラウスらの言う、こうした「最も基本的な問題」に照らした上で、前節で得た知見を提示するならば、それは次のように捉えられよう。すなわち、社会的相互作用(=相互作用)とは、そこにおいて、互いに相手が「ブラック・ボックス」となっている個々人が、各々「考慮の考慮」を行いつつ、互いに「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」の双方を取得し合う過程である、と捉えられる。また相互作用に参与する自己と他者とが、互いに「相手の観点」と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」の双方を正確に取得し合っているときにのみ、両者の間に「合意」(「相互理解」)が成立する。こうした「相互作用と合意」論をさらに精緻化したSI論者が、以下に取り上げる、B・G・グレイザー(Glaser, B.G.)とA・L・ストラウス(Strauss, A.L.)に他ならない。彼らは、人々が相互作用を通じて合意を形成しようとする際に辿るであろうその「プロセス」を明示化している。
 ストラウスらは、その1964年の論文(「覚識文脈と社会的相互作用」)(Glaser and Strauss, 1964)において、人間間の相互作用を、そこにおいて個々人が、本論でいう「考慮の考慮」を駆使することによって、互いに「相手のアイデンティティ」(the other's identity)と「相手の目に映った自分自身のアイデンティティ」(one's own identity in the eyes of the other)の双方を想定し合う過程と捉え、その内実を「覚識文脈」(awareness context)という概念をもとに分析している12)。
 覚識文脈とは、ストラウスらによれば、「ある状況において、各々の相互作用者が、互いに、相手のアイデンティティや、相手の目に映った自分自身のアイデンティティについて知っている事柄の全体的な組み合わせ」を意味している(Glaser and Strauss,1964=1970, p.337)。なお、ここで「知っている」とは、あくまで知る側による、相手に関する“想定”(「名付け」(naming))の次元で行われていることであり13)、知る側が相手の内奥をダイレクトに把握しているという意味で使われているわけではない14)。彼らは、その組み合わさり方の数あるタイプ15)より、4つの覚識文脈を提示している(Glaser and Strauss,1964=1970, pp.337-338)。
 まず第1に、合意が成立していない状態。これはストラウスらのいう「閉鎖覚識文脈」(a closed awareness context)を意味する。すなわち、2人の人間が相互作用を行っているという状況において、「一方の相互作用者が、他方の相互作用者のアイデンティティないしは他方の相互作用者の観点から見た自分自身のアイデンティティの、いずれかないしは双方を知らない」という状況を意味する。
 第2に、そうした状態から合意へと移行して行く過渡的な状態。これは「疑念覚識文脈」(a suspicion awareness context)を意味する。すなわち、「一方の相互作用者が、他方の相互作用者の本当のアイデンティティないしは他方の相互作用者の観点から見た自分自身のアイデンティティの、いずれかないしは双方について疑念を抱いている」という状況を意味する。すなわち、一方の相互作用者が、「相手のアイデンティティ」や「相手の目に映った自分自身のアイデンティティ」について、“もしかすると、自分が知っていると思っていただけで、実際には(自分の認識は)間違っていたのではないだろうか”と疑念を抱いている状況を意味する。
 第3に、「〔相互〕虚偽覚識文脈」(a pretense awareness context)とは、双方の相互作用者が、“完全に”「相手のアイデンティティ」と「相手の目に映った自分自身のアイデンティティ」の双方を知っているにも関わらず、あたかも知らないかのごとく振る舞い合っている状況を意味する。例えば、ゴフマンの言う「察しの良い無関心」(tactful inatention)(Goffman, 1959=1974年、270頁)を双方の相互作用者が互いに行い合っている状態がそれにあたる。それは、あたかも相互作用者たちが「仮面舞踏会」(masquerade)に参与しているかのごとき状況と捉えられる(Glaser and Strauss, 1965, pp.70-74=1988年、72-76頁)。
 最後に、「オープン覚識文脈」(an open awareness context)とは、「双方の相互作用者が、互いに相手の本当のアイデンティティと相手の目に映った自分自身のアイデンティティの双方を知っていて」かつ、互いに知っているということを表明し合っている状況を意味する。
 ストラウスらは、この最後の状態を指して、両者の間に「合意」が成立した状況と捉えている16)。
 以上のストラウスらの議論を踏まえる限り、次のことが理解される。すなわち、「合意」が形成されるためには、相互作用に参与する相互作用者たちは、互いに「相手のアイデンティティ」と「相手の目に映った自分自身のアイデンティティ」の双方を正確に取得しなければならないが、「合意」とは、単にそれだけで成立するものではない。「合意」とは、単に双方が理解(=取得)し合っているのみならず、同時に、相互作用者の双方が、相互に理解し合っているということを互いに表明し合うことで初めて成立する現象なのである17)。
 
5 「合意」の多元的性格
 以上明らかになったように、SIの観点からするならば、相互作用とは、そこにおいて個々人が、「考慮の考慮」を行うことで、互いに「相手の観点」(「相手のアイデンティティ」)と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」(「相手の目に映った自分自身のアイデンティティ」)の双方を探り合う過程として捉えられる。またそこにおいて、両者が、この2つの観点(アイデンティティ)の双方を正確に取得しているときにのみ、両者の間に相互理解が成立するものと捉えられる。また「合意」とは、相互理解し合っている両者が、互いに、「相互に理解し合っている」ということを表明し合った状態、と捉えることができる。とはいえ、ここでいう「合意」とは、果たして、自己と他者とが“完全に”分かり合った状態と捉えて良いものなのであろうか。
 アメリカの社会学者T・シェフ(Scheff, T.J.)は、1967年に発表した論文「合意の社会学的モデルの形成を目指して」(Scheff, 1967a)において、「合意」というものを次のように捉えている。すなわち、相互作用に関わる自己と他者とが、互いに「彼らがあることを認識していることを私たちは認識している」(we recognized that they recognized it)状態(すなわち「相手の観点」ないしは「相手のアイデンティティ」を相互作用者の双方が取得した状態)を「相互主観的な1次の合意」(first-level-co-orientation)とし、「私たちがあることを認識していることを彼らが認識していることを私たちは認識している」(we recognized that they recognized that we recognized it)状態(すなわち、「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」ないしは「相手の目に映った自分自身のアイデンティティ」を取得した状態)を「相互主観的な2次の合意」(second-level-co-orientation)として、後者をより高次の「合意」(consensus)成立状態と捉えている(Scheff,1967a=1970,p.353)。またこれが、第3次、第4次、第5次・・・・第n次と無限に累積(すなわち、無限に「合わせ鏡」化)してゆくことによって、両者の合意の状態が「完全な合意」(complete consensus)に限りなく近づいてゆく、とシェフは捉えている(Scheff,1967a=1970,pp.354-355)。
 シェフは、こうした「合意」論に基づいて、合意概念の操作化を試みている(Scheff,1967a=1970,pp.354-358)。それを説明するに際して、花子さんと次郎君という2人の人間に登場して貰うことにしよう。
 花子さんと次郎君をそれぞれ別々の部屋に呼び、2人がコミュニケーションを取ることができない状態にした上で、2人に個別に次のような質問をしたとする。
 「報道被害は犯罪行為である」(問X)
 この問Xに対して、花子さんと次郎君の双方が同じ回答を提示した場合(例えば「そう思う」と答えた場合)、この状態を指してシェフは、「同意」(Agreement)と呼んでいる。もし両者の意見が食い違った場合には、その状態は「不同意」(Disagreement)となる。次に今度は、双方に「相手が問Xに対してどのような回答をすると思いますか」と尋ねたとする。そこで仮に次郎君が、「花子さんは問Xに対して『そう思う』と答えると思う」と答え、事実、花子さんが問Xに対して「そう思う」と答えていた場合、この次郎君の状態を指してシェフは、「理解」(Understanding)と呼んでいる。逆に、花子さんが実際には「そうは思わない」と答えた場合、その状態は「誤解」(Misunderstanding)となる。最後に、今度は、次のような質問を次郎君にしたとする。「問Xに対して次郎君がどのように答えると花子さんは考えていると思いますか?」と。ここで仮に次郎君が、「自分が問Xに対して『そう思う』と答えると花子さんは思っているはずだ」と答え、事実、花子さんもまたそう思っていた場合、すなわち、次郎君の問Xに対する回答に関する花子さんの理解の如何を次郎君が正確に判断していた場合、この次郎君の状態を指してシェフは、「認識」(Realization)と呼んでいる。逆に次郎君が判断し損ねた場合、その状態は「思い違い」(Failing to realize)となる。
 ここで合計6つの変数が提示されたことになる。すなわち、それぞれの頭文字を取って、A(「同意」)、D(「不同意」)、U(「理解」)、M(「誤解」)、R(「認識」)、F(「思い違い」)がそれにあたる。ここで仮に、行為者を「2人」に限定するならば、こうした変数をすべて掛け合わせると、論理上、16通りの状態を提示することができる18)。そのなかより、いくつか重要な「状態」を取り上げて説明することにしよう。例えば、「次郎=RU-A-UR=花子」とは、2人が問Xについて「同意」しており、かつ、そのことについて双方ともに「理解」しており、さらに双方ともに「認識」している状態を指す。先に提示された「相互主観的な2次の合意」が2人の間に成立している状態を意味する。また、FU-A-UFの状態とは、「相互主観的な1次の合意」を意味する。さらにFM-A-MFとは、2人がともに問Xについて「同意」しているにも関わらず、双方ともに、そのことを「理解」してもいなければ、「認識」してもいない状態を意味する。この状態を指して、「多元的無知」(pluralistic ignorance)という19)。
 以上の議論からも明らかなように、人間間の「合意」という現象は、各種の「度合い」(degree)から構成されるものと捉えられなければならない。すなわち、「合意」とは、すぐれて「多元的」な性格を帯びたものと捉えられなければならないのである20)。
 
6 相互作用と合意
 以上、本論では、「相互作用と合意」というテーマのもとに、以下の4つの問題について考察してきた。
 1)相互作用を行う自己と他者とは如何なる関係におかれているのか。
 2)相互作用を通じて人々はいかにして「相互理解」に達するのか。
 3)「相互理解」に達するそのプロセス、および、そこでいう「相互理解」と「合意」の違いについて。
 4)そこで形成される「合意」の性格について。
 本論の議論を踏まえるならば、上記の4つの問題に対して次のようなこたえを提示することができる。
 1)相互作用を行う自己と他者とは、互いに相手が「ブラック・ボックス」の関係におかれているものと捉えられる。
 2)そうした自己と他者の双方が、解釈活動としての「考慮の考慮」を行うことによって、互いに「相手の観点」(=「相手のアイデンティティ」)と「相手のパースペクティブから見た自分自身の観点」(=「相手の目に映った自分自身のアイデンティティ」)の双方を正確に取得し合っているときにのみ、両者の間に「相互理解」が成立する。
 3)そうした相互理解の成立プロセスには、4つの「文脈」(「閉鎖覚識文脈」「疑念覚識文脈」「〔相互〕虚偽覚識文脈」「オープン覚識文脈」)が介在する。また「合意」とは、自己と他者の双方が、単に理解し合っているのみならず(「相互理解」の状態)、同時に、自己と他者の双方が、相互に理解し合っているということを互いに表明し合っている状態を指す。
 4)そうした合意は、各種の「度合い」(第1次、第2次、第3次・・・・第n次)から構成されている、という意味で極めて「多元的」な性格を帯びたものであり、その「度合い」が高次なものになるにつれて、それは、より「完全な合意」へと限りなく近づいてゆくものと捉えられる21)。
 
1) 桑原、1998年、参照。このことは、SIの原型が、初期シカゴ学派社会学にあることを考えるならば(桑原、2002年b)、当然の帰結であると言える。周知のように、シカゴ学派第1世代であるA・スモールは、G・ジンメルの相互作用論をアメリカ社会学に導入し、導入された相互作用論は、シカゴ学派第2世代に位置するR・E・パークとE・W・バージェスが1929年に公刊した共著『社会学という科学への誘い』(Introduction to the Science of Sociology)において、「社会統合」・「合意」論との関わりにおいて展開されることとなった(吉原、1989年)。上記の書に結実した「相互作用と合意」に対するパークらの熱いまなざしは、その後シカゴ学派第3世代のL・ワースによって、彼の構想する「民主主義の必要不可欠な要素としての合意のあり方」を探求するという形で継承されることとなった(鎌田、2001年)。そうしたワースとSIの創始者であるH・G・ブルーマーの理論的接点としてBlumer, 1956が挙げられる。
2) SIは通常、その歴史的由来をミードの業績に遡ることが出来る(無論この点については、賛否両論を含め、種々の論争が展開されてきたことは言うまでもない)。ミードは生前数多くの論文を執筆したが、ミードのSIに対する影響の大部分は、まず第1に、彼の講義を聴講していた学生らの手による、その講義録やメモの出版を通じて、第2に当時ミードに学んだ学生の一人であったブルーマーによるミード解釈を通じて及ぼされたと言われている。ブルーマーは、主として、1950年代と60年代に数多くの論文を執筆し、SIの体系化を図った社会学者・社会心理学者である。当初「SI」と言えば、それはイコール「ブルーマー」という時代がしばらくの間続いた。とはいえその後、70年代、80年代になると、SIを担う新しいリーダーとして、N・デンジン(Denzin, N.K.)、A・L・ストラウス(Strauss, A.L.)、S・ストライカー(Stryker, S.)、G・ファイン(Fine, G.A.)などが登場し、この理論の新たな方向性が模索されるとともに、ブルーマーの理論化に対する種々の批判が展開されるに至った。80年代にはさらに、E・ゴフマン(Goffman, E.)が登場し、「ドラマツルギー」(dramaturgy)と呼ばれる手法が提示された(桑原、2003年)。
3) なお本論は、「シンボリック相互作用論の視点」、第99回日本社会分析学会例会、自由報告、於:福岡国際大学、2000年・7月15日、をもとに執筆した次の原稿に、大幅な加筆補正を施したものである。桑原 司、2002年、「相互行為と合意」、伊藤 勇・徳川直人編著、『相互行為の社会心理学』、北樹出版。
4) 桑原、1997年、参照。
5) なお、SIにおいては、こうした「構築」という営みが、人間の「自己相互作用」(self-interaction)ないしは「解釈の過程」(process of interpretation)を通じて行われるものと捉えられていることは言うまでもない。「自己相互作用」論についての詳しい考察については拙稿(桑原、2002年a)を参照されたい。
6) なお、シャーロンによれば、こうした立論は、何もブルーマーのSIに限られたものではなく、SI一般に前提とされているものでもある。シャーロンは、その前提について以下のように述べている。
 「仮に、ある人間の面前に対象(object)が物的な形態を取って存在していたとしても、そうした対象は『ありのままの形で』(in the raw)人間に見られているわけではない。そうではなく、人間は、その対象を、何らかのパースペクティブを通してのみ見ることが出来る」(Charon,1989,p.37)。
7) Blumer, 1969, pp.10-11=1991年、13頁、参照。
8) ブルーマーはあるところで、「合意」(consensus)というものを次のように描写している。「・・・・合意とは、共通の規範、共通の価値、共通の規則、そして共通の理解を少しでも共有している・・・・」という現象を指す(Blumer,1956, viii-ix)。
9) 周知のようにブルーマーは、人間間に生起する相互作用を二つの形態に分類している。「非シンボリック相互作用」(non-symbolic interaction)と「シンボリックな相互作用」(symbolic interaction)がそれにあたる(Blumer,1969, p.8=1991年、10頁)。ブルーマーは、前者の相互作用を、そこにおいて個々人が他者の行為を自己相互作用を通じて解釈することなく、互いに相手に対して刺激-反応的に反応し合うものと捉え、後者の相互作用を、そこにおいて個々人が互いの行為を自己相互作用を通じて解釈し合い、そうした解釈に基づいて反応しあうものと捉え、後者の相互作用をミードの言う「有意味シンボルの使用」(the use of significant symbols)に相当するものと捉えている。とはいえもし、ブルーマーにおいて、「有意味シンボル」=「共通の定義」=「合意」という捉えられ方が為されているとするならば(Blumer,1967=1992,p.152; Blumer,1956)、上記のブルーマーの定式化には問題が生じる。すなわち、相互作用に参与する両者の間に「合意」(=「有意味シンボル」)は如何にして成立し得るか、という問題を立て、そうした問に対して、「合意」とはまさしく「シンボリックな相互作用」を通じて形成されるとこたえるのであれば、上記のブルーマーによる「シンボリックな相互作用」=「有意味シンボルの使用」という立論からは、一種の循環論に陥った説明しか生まれない(桑原、2000年、53-54頁)。すなわち、「有意味シンボル」の成立は「有意味シンボル」を使用することによって可能となる、と説明せざるを得なくなってしまう。確かに、「シンボリックな相互作用」に「有意味シンボルの使用」が含まれているのは事実であろう。とはいえ、両者は同一のものではない。「シンボリックな相互作用」には、個々人が未だ有意味シンボルを成立させてはいないものの、互いの行為を解釈し合い、有意味シンボルを成立させようとする「シンボリックな相互作用」が含まれているはずである(桑原、2001年、72頁)。すなわち、ブルーマーにおける「相互作用」概念には、正確には三つの「相互作用」が含まれていなければならないわけである。すなわち、1)「非シンボリック相互作用」、2)未だ有意味シンボルが成立していない「シンボリックな相互作用」、そして3)「有意味シンボルの使用」と同義なものとしての「シンボリックな相互作用」、という三つの相互作用が含まれていなければならないわけである(この3種の「相互作用」は、一種の「理念型」として捉えられるのが望ましい)。ここで我々が想定している2)の相互作用とは、例えば、全く日本語の出来ないアメリカ人と全く英語の出来ない日本人との相互作用である。
10) ここで「連結行為」とは、ある一定の意味の共有ないしは相互理解に基づいて複数の行為がかみ合わせられていったものを指す。なお、joint actionの訳語には他に、「連携的な行為」(後藤、1991年)、「共同行為」(宝月、1990年)、「結合行為」(徳川、1990年、98頁)、「ジョイント・アクション」(船津、1993年)などがある。
11) なお付言するならば、ブルーマーにおいて「人間の社会」(human society)とは、こうした連結行為が相互に組み合わさったものと捉えられている(Blumer,1969, p.70=1991年、90頁)。ちなみに、社会の形成・成立には、その形成に参与する個々人によるこうした「考慮の考慮」という営みが不可欠なものとなる、とする視点は、社会システム論者のルーマン(彼の用語で言えば「期待の期待」)にも継承されている(Luhmann,1984=1995年、566-573頁)。
12) ストラウスらのこの文献については、既に藤沢(1989年;1995年)において詳しく紹介されている。
13) Strauss,1959=2001年. とりわけ、本書第1章と第3章を参照。
14) この点については、藤沢、1989年、80-86頁を参照。なお、こうした「知っている」把握が、ブルーマーの議論と符合する、とする点については、皆川、1989年、62-63頁を参照。
15) ストラウスらの提示する覚識文脈とは、ある一定の変数の組み合わせから編み出されたものである。その変数とは、2項対立としての「2人の相互作用者」と「虚偽を行うか否か(覚識の承認)」、3分法としての「覚識の程度」(気づいている、疑っている、気づいていない)と「アイデンティティ」(相手のアイデンティティ、自分自身のアイデンティティ、相手の目に映った自分自身のアイデンティティ)である。これらをすべて掛け合わせると、論理上、36通りの覚識文脈が成立することになるが、そのなかより、彼らが経験的研究に有用なものと判断した「文脈」が、以下に見る4つの覚識文脈である(Glaser and Strauss,1964=1970, p.347)。
16) この点については、ストラウスらによるオープン覚識文脈との関連におけるミードに関する議論(Glaser and Strauss,1964=1970, pp.341-342)、および、彼らが覚識文脈を用いて後に行った経験的研究(Glaser and Strauss, 1965, pp.79-106=1988年、81-109頁)を参照。
17) 周知のようにストラウスらは、上記に提示した覚識文脈を用いて、終末期医療の現場をフィールドとして、医療スタッフらと末期患者との相互作用について経験的な研究を行っている(Glaser and Strauss, 1965)。この論稿の検討については他日に譲りたい。
18) 2項対立の変数である、[A/D]、[個人a=花子/個人b=次郎]、[U/M]、[R/F]をすべて掛け合わせると16通りとなる。
19) 「多元的無知」については、後藤、1999年、111-125頁を参照されたい。後藤によれば、現代の都市空間に生きる人びとに特徴的な社会心理の状態が、この多元的無知であり、個々人に対するマスメディアによる情報統制を容易ならしめる主たる要因の一つとなっている。
20) 付言するならば、「合意」成立の必要要件としての「同意」という視点は、ブルーマーの議論にも、ストラウスらの議論にも明示化されてはいなかった。なお、シェフの「合意」論については、既に後藤(1999年)が詳しく論じている。とりわけその第3章「認識としてのコミュニケーション」を参照されたい。
21) なお本論で言及したシェフの論稿を、シェフ自身が展開させたものにScheff, 1967b; 1970がある。とりわけ後者の文献については、シェフ自身が自らの枠組み(Scheff, 1967a)とストラウスらの枠組み(Glaser and Strauss, 1964)との融合を図っている点で本論の問題意識の観点から見て示唆深い〔ちなみに、BlumerとGlaser and Straussとの連続性については、次の文献を参照のこと。R. Wallace and A. Wolf, 1980, Contemporary Sociological Theory, Prentice-Hall, ch. of Symbolic Interactionism. ウォーラスによれば、ストラウス等の1965年の研究は、ブルーマーの自己相互作用概念=解釈過程の概念を経験的に明らかにしたものとして位置づけることが出来るという。〕。この論稿の検討については、別稿を用意したい。
 
引用・参照文献
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Hrm.

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