NHKアカデミア 第39回 <半導体電子工学者 天野浩さん>
皆さん、こんにちは。半導体電子工学者の天野浩です。半導体と一口に言っても、さまざまな種類があります。私が研究しているのはこちらの物質です。“窒化ガリウム”という半導体です(下画像)。
きょうは、この窒化ガリウムがどんなものなのか、どんなふうに皆さんのあるいは社会に役に立って、それがノーベル賞につながったのか、後ほど詳しくお話をさせていただきます。
<良いイノベーションとは>
きょう皆さんにお伝えしたいテーマは「世界を変える“良いイノベーション”を生み出すために」ということです。まず私が考える良いイノベーションとは何かということについて説明させていただきます。
イノベーションは大きく分けてすごく良いイノベーションと、言葉は悪いかもしれませんけれども、ずるいイノベーションがあるというふうに考えています。この2つのイノベーションの違いを説明する事例として、昔使われていた“白熱電球”の話をさせていただきます。白熱電球の寿命は1000時間ぐらいと言われていましたけれども、実は開発しようと思えばもっと寿命を伸ばせたというふうに言われています。しかし、開発する企業は1000時間で寿命を終えるような製品として開発することを決めました。多分最初は世界の夜を明るくするというすごく良いイノベーションだったと思うんです。けれども、世界のためにということから生活のためにとか、あるいはもうけるためにということで、大量消費するというイノベーションに変わっていったんだと思います。初めは良い方向に進んでいたはずですけれども、いつの間にか良い製品を作ることに対して今のままでなんとか妥協しようという方向に移行してしまったんですね。つまり、良いイノベーションというのは、人々の役に立って世界を変えていくこと、もっともっと良い世界を作ろうということを生み出すものだと思っています。
<“窒化ガリウム”で良いイノベーションを>
そんな中で、私がこれまで40年以上取り組んできたのが、窒化ガリウムという物質の研究です。窒化ガリウムという名前を聞いたことがない方も多くいるかもしれません。実は、ふだんの生活の中で関わりを持っているのではないかと思います。というのも、この窒化ガリウムという物質は、「青色LED」の素材になっています。
今この照明(上画像)から出ている光は、実は窒化ガリウムから出ている光なんです。今ではLED照明や信号機、イルミネーション、液晶テレビ、スマートフォン、コンサートのバックモニターなどにも応用されて、世界中で使われています。この窒化ガリウムが何かというと、半導体の1種なんです。
半導体というのは、電気をよく通す金属などの導体と、電気をほとんど通さないゴムなどの絶縁体との中間の性質を持つ物質、あるいは材料のことです。この特徴を生かすことで、さまざまな用途に使われています。
半導体として一番有名なものは皆さんご存じだと思いますけれども、シリコンです。これは、コンピューターの中で計算をしたり、記録をしてくれたりする半導体です。
一方、窒化ガリウムは、簡単に言うと電気を効率よく光に変換してくれる半導体。特に、電気を青色の光に変換してくれるということが大きな特徴なんです。青は、赤と緑と並んで、光の三原色と呼ばれています。この3つの色の割合を変えながら混ざり合うことで、可視光、ありとあらゆる色を作り出すことができます。特に、青色LEDの特徴としては、黄色の蛍光パネルをはさむと白色になるということも重要でした。もし青色LEDがあれば、白熱電球よりも寿命を40倍以上、消費電力も8分の1以下に抑えることができるために、社会に求められてきたんです。ただ、青色LEDの開発は非常に困難でした。というのも、先ほどお伝えしたように、半導体にもいろいろな種類があって、赤に光る半導体、緑に光る半導体もあります。これらは今から60年近く前の1960年代にはすでに作られていました。赤や緑ができるなら、青に光るLEDもすぐにできるのではと思われていたんですが、実際に開発されたのが1990年代、つまり30年も空いているんです。
<青色LEDの開発は なぜ難しかったのか>
私が窒化ガリウムという物質の研究をスタートしたのが1980年代の前半、大学4年生になった頃です。当時はマイコンと言われていたパソコンに興味を持っていましたが、大きな不満がありました。それは、モニターが、ブラウン管といって非常に大きすぎることです。今の若い人はひょっとしたら見たことがないかもしれませんけれども、昔のテレビやモニターはすごく大きくて重かったし、電力もたくさん必要でした。これがもっと薄ければ持ち運びも簡単になって、いろんな場所でパソコンに触ることができるかもしれないと思っていました。
そんなことを考えているタイミングで、大学の研究室を卒業研究として選ぶことになって、青色LEDの研究をされていた赤﨑勇先生にお世話になることにしました。というのも、青色LEDを自分で開発できれば、当時のブラウン管モニターに比べて超薄型化も可能になると言われていたからです。
私が研究室に入った1980年代には、すでに赤と緑のLEDは量産もされていて、簡単に購入することもできました。ですので、青色もすぐにできるのではという気持ちで研究室に入ったというのが正直なところなんです。しかし、これは大きな間違いでした。研究室に入って、なぜこれまで誰も青色LEDを作ることができなかったのかということを、まさに自分自身が実感することになりました。
青色LEDの開発が難しかった理由が大きく3つあります。
まずひとつが、きれいな結晶を作ることが難しかったということです。一体どういうことか。ブロックの模型を作っていただいたので、それで説明したいと思います。
窒化ガリウムという新しい物質の結晶を作るという行為は、まず土台となる物質、窒化ガリウムがあればそれがいいんですけれども、当時はなかったので、別の物質を用意してその上に別のブロックを並べていくというイメージです。下が土台となる素材です(上画像)。
こちら(上画像:天野さんが持つブロック)が、窒化ガリウムだと思ってください。もし土台となる物質と作りたい結晶のサイズが同じ、つまりこのブロックの規格が同じであればいいんですけれども、窒化ガリウムと同じ土台というものがありませんでした。私たちの場合は、下の土台としてサファイアを選択しました。
このように組んでいくと、この次に同じように並べないといけないんですけれども、それがなかなかできない。こんな形で、どうしてもずれてしまうという問題がありました。このように隙間ができてしまうんです(上画像)。
この隙間がある窒化ガリウムしかなかなかできなくて、本当はきれいなガラスのような結晶ができなければいけないんですけれども、すりガラスのような、今見ていただいている白く濁った結晶になってしまいます(上画像)。
2つ目の問題が、窒化ガリウムに電気を流しやすくする工夫が必要なことでした。たとえきれいな結晶ができても、電気をうまく流すことができないと、青色に光ることがないからです。
この2つの根本的な結晶作りの難しさに加えて、もうひとつ大きな問題があったんです。それが研究費の少なさです。当時の赤﨑研究室には、年間で300万円程度しか研究費がありませんでした。研究室には学生が十数人いて、これは今では考えられないぐらい少ない研究費でした。とにもかくにも研究費が少ないので、実験装置も自分たちで作る必要がありました。
見ていただいている写真は、窒化ガリウムの結晶を作るために、私が先輩と一緒に作った装置なんですけれども、設計はもちろん中に入っているコイルも自分たちで巻いたんです。ビール瓶に銅パイプを温めて巻きつけるときれいなコイルができたんです。これは今では非常にいい思い出です。また、部品が足りないあるいは原料が足りないという場合には、企業の方あるいは他の研究室でいらなくなった装置や部品をもらってきたりもしました。研究室に入るまでには想像もしていなかったような地味な作業もたくさんありましたけれども、私にとっては本当に楽しい経験だったんです。これこそが本当の研究だと思い込むことができたんです。
というのも、私は大学1年生の頃から研究に携わりたいとは思っていたんですけれども、工学部に入ったので、大学の授業で行う実験は全て、正直言うと結果が分かっているものばかり。それを再現するばかりのものでした。もちろん、理論を確認するということでは大事だったんですけれども、分かりきったというか、結果が分かっているものを再現するというのは、どうしても私にはもの足りなかったんですね。その反面、赤﨑研究室に入ってからは、本当に世界で誰もやったことのないような実験ができるという気持ちを奮い立たせてくれたわけです。
設計から約3か月をかけてようやく装置が完成して、もちろんここからが実験の本番です。この台の上に土台、基板と言いますけれども、それを置いて、上から窒化ガリウムの原料を吹きかけることで結晶を作るという方法をずっと試していました。ただ、何回やってもきれいな結晶はできなくて、毎回毎回、すりガラスのような結晶しかできませんでした。報告会が毎月あるんですけれども、赤﨑先生からは「君の作る結晶はいつもすりガラスばかりだね」とずっと言われ続けました。
そんな中でも、次は実験条件をこう変えればうまくいくのではないかと、毎日毎日アイデアを考えて実験することが楽しくて楽しくて、本当に毎日研究ばかりしていました。1年は365日ありますけれども、元日以外は実験していたというぐらい実験にのめり込んでいました。
学部4年生から修士課程1年、2年、3年ありますけれども、卒業するまでの3年近くの間に、実験回数は1500回を超えていました。ただ、出来上がるのはずっとすりガラスばかりでした。私は修士論文というものを書かないといけなかったんですけれども、実はページ数がたったの15ページしか書けませんでした。このころから、結果が出ないことへの焦りを感じていました。このままでは終わらないと、もうドクターコースに進学するということを決めていましたので、博士号を取らないといけない。そのためには、実験結果がどうしても必要だったんですね。他の学生さんは修士課程で終わるということで、卒業旅行に行っている時でしたけれども、私は一人で研究を続けていました。
そんなときに、あるアイデアを思いつきました。土台となるブロックと窒化ガリウムの間に、緩衝材のようなものをはさめばよいのではないかということです。具体的には、窒化ガリウムの兄弟のような結晶、窒化アルミニウムという物質を薄くつけてから、窒化ガリウムを成長させるということに挑戦しました。
サファイア(上画像・水色)と窒化ガリウム(上画像・青色)の間に、窒化アルミニウム(上画像・緑色)という物質を薄く付けてから、窒化ガリウムを成長させるということをしてみました。このように窒化アルミニウムの上に窒化ガリウムをつける。実はこの窒化アルミニウムというのは、窒化ガリウムよりも高い温度でつけなければいけないんですけれども、加熱装置が中古で非常に調子が悪くて、温度が上がらなかったんですね。それでも、もうドクターに進学するということで、データが欲しいということで焦っていた私は、低い温度でもこの窒化アルミニウムをつけてしまいました。そしてそのあと、窒化ガリウムをつけました。
そうしたらですね、先ほどは隙間があってきれいな結晶にならなかったんですけれども、低温でつけた窒化アルミニウムがあることによって、このように隙間も無い、すごくきれいな、多分当時は世界で一番きれいな窒化ガリウムをつけることに成功しちゃったんですね。そして、詳しくこの結晶を評価しました。その結果、当時、本当に世界最高にきれいな窒化ガリウムであるということが分かって、すぐに論文を書きました。
<青色に光る結晶へ 苦難の道のり>
すごくきれいな結晶ができたということで自信満々に論文を発表したんですけれども、当時は世界からの反応というのは実は全然ありませんでした。その理由は、もうすでにそのときは世界中の研究者の皆さんが、この窒化ガリウムを諦めてしまっていて、多分研究を続けている人がいなかったからなんだと思います。
1980年代、候補として挙がっていたのは3つの材料です。炭化ケイ素、セレン化亜鉛、そして窒化ガリウム。当時の学界では、特にセレン化亜鉛という物質が非常に人気を集めていたんです。この材料はすごく作りやすく、すでに青色の光を放っていたんです。ただ、私にはセレン化亜鉛は魅力的には映りませんでした。というのは、この物質はとてももろくて、工業的な製品になるとはどうしても思えなかったからです。工学を学ぶ人間にとっては、「皆さんの役に立ってなんぼ」という考え方があって、私もその信念はずっと受け継いで研究をさせていただいていました。窒化ガリウムを作るのは難しい。だから光らせることもすごく難しいんだけれども、セレン化亜鉛よりもすごく丈夫だったんです。だから、この窒化ガリウムという物質の可能性にかけることにしました。
とはいえ、やっている人がほとんどいない。学会の注目がものすごく低い材料だったので、せっかくきれいな結晶ができても、当時はまだ光っているわけではないので、全く注目されませんでした。学会で発表しても、部屋の中にいたのは司会者の方と私と、それから赤﨑先生は聞いてくださっていました。それを除けばたった一人。要するに、部屋の中に4人しかいなかったんですね。ということもあって、きれいな結晶ができた、次は何とかして青く光る窒化ガリウムを作らなければいけないという思いにかられました。
そう思って研究を続けたんですけれども、青色LEDのもうひとつの壁、電気を通しやすい窒化ガリウムを作るというのは、博士課程の間は全くできませんでした。もともと、薄型のモニターを作りたいと思って研究していたんですけれども、いつの間にか、このままでは博士号も取ることができない。博士号を取ることができないともう生活することができないということで、将来に関する不安が非常に大きくなっていました。結局、博士課程の3年間をかけても、光る窒化ガリウムを作ることができなくて、博士号も取れないまま、単位取得、満期退学ということで、私は退学でドクターコース、博士課程は終わっています。まさに大きな挫折でした。
そんなときに温かく手を差し伸べてくださったのが赤﨑先生でした。今では、多分ほとんど不可能ではないかと思うんですけれども、博士号も持っていない私を研究室の助手、今で言う助教にしてもらえることになったんです。当時としては非常に珍しいことで、赤﨑先生もかなり無理をされたのではないかと思います。ということで、こんな状況を打開しないといけない。ただただそんな思いで必死に実験をしていました。
そんなとき、窒化ガリウムに少しのマグネシウムを加えて、後処理にも工夫するという方法を思いついたんです。当時、マグネシウムの原料は非常に高額だったんですけれども、赤﨑先生は二つ返事で購入を許可してくださいました。そして結果的に、このアイデアによって電気を通しやすい窒化ガリウムを作り出すことに成功しました。
1989年、今よりはずいぶんと弱い光なんですけれども、ようやく青く光る窒化ガリウムを作ることができました。そのときの光景は今でも忘れられない。興奮したということを覚えています。特に赤﨑先生も喜んでくださったのがとてもうれしかったです。
ただ、これもすぐに評価されたわけではありませんでした。国内での学会ではあいかわらず反応はいまいちでした。多分、他の研究者の方々は、窒化ガリウムで青色LEDができるわけがないと思われていたのではないかと思うんです。
そんな中でも本当にありがたかったのは、この研究を見てくださった江崎玲於奈先生です。当時すでにノーベル賞を受賞されていた江崎先生が、中国で行われたルミネッセンスの国際会議で、実は私の発表を聞いてくださったんです。すごく熱心に聞いてくださったということが、その後の研究を続ける励みにもなりました。
この研究のあと、当時日亜化学におられた中村先生がより強く光る方法を発見されて、工業製品として量産化の道筋が立ったということです。
その後、学生時代に期待していた薄型のモニターが登場したり、携帯電話が普及したり、あるいは交通信号灯がどんどん変わっていったり、照明器具として一般家庭に普及したりと、徐々に徐々に青色LEDが世の中に浸透していきました。