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Re:ゼロから始める異世界生活  作者: 鼠色猫/長月達平
第九章 『名も無き星の光』
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第九章4  『オタンコナス』



「――マデリン?」


 砦の中を堂々と歩いているマデリン・エッシャルトを見つけて、エミリアは驚きに目を丸くしながらその名前を呼んでいた。

 と、その呼びかけに足を止めた少女は、黒い角の生えた頭をこちらに向けて、可愛らしい顔をなんだか渋いものを食べたみたいに歪めてみせる。

 その反応に、エミリアは手で自分の周りに誰もいないことを示し、


「そんな顔しなくても大丈夫。こっちは私だけだから」


「……何の励ましにもなってないっちゃ。竜は、お前だからこの顔だっちゃ」


「え、そうなの? どうして?」


「お前、散々雪を降らせて、散々竜とメゾレイアと殴り合ったの忘れたっちゃ!? いい印象があるはずないっちゃ!」


 金色の瞳を鋭くして、そう声をおっきくするマデリン。そのマデリンの噛みつきに、エミリアは「そっか……」と自分と彼女の関係を思い返してコクリと頷く。

 確かに、エミリアは城郭都市と帝都決戦で、二回もマデリンとぶつかっていたのだ。『大災』との戦いでは二人とも帝都にいたのだが、そこではたまたま会わなかった。考えてみれば、こうして落ち着いて言葉を交わすのはこれが初めてで。


「じゃあ、私がマデリンをカチンコチンに凍らせたのが最後だったのね」


「――! あれ、やっぱりお前だったっちゃか! ちっとも体が動かなくて、冷たくて冷たくて危うく……とんでもない奴っちゃ!」


「う、ごめんなさい。あとでちゃんと溶かしてあげるつもりだったんだけど、マデリンがメゾレイアと逃げちゃうから……」


「竜のせいにするんじゃないっちゃ、ニンゲン!」


 マデリンは鋭い牙を剥いて、くわっと噛みついてきそうな勢いだ。その元気な様子にちょっとビックリしながら、エミリアは同時にホッとしてもいた。

 一時は、マデリンはメゾレイアと『大災』の仲間になっていたと聞いていたから。


「でも、最後はちゃんと味方してくれたのよね。ガーフィールから聞いたわ」


「……あの虎人の半獣っちゃか」


「そう、私の頼もしい味方で、弟みたいな子なの。すごーく強いんだから」


「――――」


 えへんと胸を張ったエミリアの前、マデリンがむつかしい顔で黙り込む。エミリアの話を嘘だと疑っているのではなく、もっと違う意味が込められた沈黙。

 例えばそれは、悔しいとか恥ずかしいとかに近い気がして。


「――マデリンは、帝国の『将』としてこのまま残るのよね?」


「――っ、文句でもあるっちゃか?」


「ううん、全然、そうじゃないの。ただ、一緒だったメゾレイアは帰ったって聞いてるから、マデリンはそうしなかったのねって」


 向かい合って話すマデリンから視線を外し、エミリアは砦の外の空を眺める。

 とても珍しい竜人であるマデリンと、『雲龍』メゾレイア――両者の関係の詳しくはエミリアにもわからない。ただ、互いにとても大事に思い合っているのなら、その関係は精霊と精霊術師のそれに近いのかなと思っている。

 だとしたら、メゾレイアはマデリンにとって、エミリアのパックだ。そんな相手と離れ離れになることを決断するなんて、簡単なことではない。


「私も、おんなじ気持ちを味わったことがあるの。私のときは、一緒にいくかいかないかは選ばせてもらえなくて……だから、自分で選んだマデリンはすごーく勇敢だと思う」


「当然っちゃ。――ニンゲンと、竜を一緒にするんじゃないっちゃ」


「そうかも。でも、そうじゃないかもでしょ? あなたは竜人だけど、大事な相手と離れ離れになるのが辛い気持ちにまで頑丈? そうなの?」


「嫌な女っちゃ……!」


 苦い顔でそう言われ、エミリアは「う」と胸を押さえた。

 嫌な女、という悪口は言われたことがなくて、辛い気持ちになるのが新鮮だった。最近は『半魔』と呼ばれる頻度も減って、そもそも言われても傷付かなくなっていて。――ただ、エミリアを『半魔』と堂々と呼んだ彼女が、もうどこにもいないことだけが。


「――――」


「急に黙るんじゃないっちゃ。竜の前で不敬っちゃ、お前」


「ん、そうよね。寂しがらせてごめんなさい」


「~~っ!」


 物思いに耽りかけたのを止められ、エミリアが謝るとマデリンが顔を赤くした。

 彼女はしばらく、その赤い顔のままで何かを言おうとしていたが、大きく息を吐き、吸い、それからじろりとまたエミリアを睨むと、


「ニンゲンと話すのは疲れるっちゃが、お前は特にそう感じるっちゃ」


「それは、きっと私と話すと緊張するからだと思う。前にスバルが言ってたわ」


 スバルから言われた話で、エミリア自身に何もできないのがもどかしいのだが、エミリアは対面した相手を緊張させてしまうところがあるらしい。スバルは『E・M・T』とか色々理由を誤魔化してくれるが、たぶん、王選候補者であることや、ハーフエルフであることがそうさせてしまう理由なのだろう。


「だから、そうならないようにできるだけ、ほっぺたの力は抜くようにしてるの」


 王選候補者の立場もハーフエルフの出自も、『嫉妬の魔女』を思わせる銀髪と紫紺の瞳も変えようがないので、せめて顔つきだけでも柔らかくしたい。

 そう思っての試みを、エミリアが「どう?」とマデリンに尋ねてみる。すると、マデリンはまたしても大きな息を吐いて、


「お前と話してると、竜がここに残るって決めたのが間違いだった気がしてくるっちゃ」


「ええと、平気よ? 私たち、あと何日かしたら帝国を出ていくから……」


「お前が! いるいないは! 関係ないっちゃ!」


 短く区切って怒鳴り散らされ、エミリアは目を真ん丸にした。そのエミリアの前で、マデリンは腰に手を当て、さっきのお返しみたいに砦の外に目をやると、


「この国は、竜の良人が……バルロイが命懸けで守った場所っちゃ」


「――。ええ」


 囁くようなマデリンの言葉に、エミリアは短く頷く。

 バルロイと、そういう名前の屍人が頑張ってくれたことは聞いている。あの、空がものすごい光に包まれたとき、帝都の上空を覆った雲の中に彼がいたのだと。

 エミリアは、エキドナとそっくりなスピンクスと戦っていて、そちらに意識を向けることはできなかった。だから、バルロイがどんな人なのかまるで知らない。


「ありがとうって、そう言えないのがすごーく残念」


「竜の良人に色目を使うんじゃないっちゃ」


「いろめ……?」


「感謝なんてものがなくても、竜の良人は自分の務めを果たしたっちゃ。……最後の最後まで、自分のやりたいことに、竜を付き合わせてくれなかったっちゃ」


 か細く、寂しげなマデリンの声音を聞いて、エミリアは紫紺の瞳を細めた。

 マデリンの、その小さな体いっぱいに詰まったどんよりした気持ち、それはエミリアにもわかるものの気がする。というか、わかるものだった。

 だって、スバルもたびたび、エミリアに相談しないで色々勝手に決めてしまうから。


「でも、それは私を頼りないとか好きじゃないって思ってるんじゃなくて、大事に思ってくれてるから、すごーく性質が悪いの」


「お前……」


「大事に思われてるんだもの。それって怒りづらくて、ちょっとズルっ子だわ」


 大事に思われていなければ、頼りないとか嫌いに思われているのなら、その思われ方をいい方向に変えられるように頑張りたい。でも、もういい風に思われているのに、それをもっとどうにかしたいと思うのはとても難しい。


「だから、ズルっ子。私たちって、どうしたらいいのかしら」


「……ズルっ子」


 エミリアの言葉を受け、何か考え込むみたいにマデリンが俯いた。

 深くは知らないバルロイだけど、エミリアは何となく、マデリンが彼に抱いているもどかしさが、自分がスバルに抱くそれと近いものだと感じる。

 でも、悩み事は近くても、マデリンの出した答えはエミリアには遠いものだ。

 だって――、


「――私は、プリシラが守ったこの国に、残ってあげられない」


 命懸けと、そう言うなら紛れもなく、それを果たした一人がプリシラ――数日が過ぎても、亡くなったことに現実感のない、エミリアの『友人』だった。


「――――」


 友人と、そう言い合う関係になれればよかった。それが果たされる前にプリシラはいなくなってしまって、だから、今はエミリアが一方的にそう呼びたいだけだ。

 ただ、消えてしまう寸前、エミリアとアナスタシアが話しているところに現れ、ほんの短い時間だけ交わされた談笑――あれを、エミリアは長く長く、未練に思う。

 あの、穏やかで優しい時間をもっとたくさん、もっと多く、もっと長く深く、続けることがこの先いくらでもできたはずだと、叶わなかった期待を夢見てしまう。

 そうして、消えてしまった夢の先を思い描くエミリアを――、


「――え?」


 不意に腕を引かれ、エミリアはちっとも踏みとどまれずに引き倒される。危うくひっくり返りそうなエミリア、その頭が柔らかく、マデリンの肩に受け止められる。

 身長差のある二人、マデリンの肩にエミリアが頭を預けるような形だ。あとちょっとズレていたら、マデリンの角がエミリアの顔に刺さるところだったが。


「あの、マデリン? 急にビックリしちゃうから……」


 こんなことをしてはいけない、とエミリアはマデリンを嗜めようとした。

 しかし――、


「泣くんじゃないっちゃ」


「――――」


 その一言に、エミリアは目を瞬かせ、それから自分が頭を預けたマデリンの肩に、ぽたぽたと水滴が染みているのに気付いた。一瞬、それが何なのかわからなかったが、マデリンの言葉で理解が追いつく。――涙だ。

 それは、何のために誰のために流れたのか、とても明快な涙だった。


「お友達に、なれると思ったの」


「――――」


「アナスタシアさんと、仲良くなれて……フェルトちゃんとクルシュさんとも、ちゃんとお話できるから、プリシラが一番強情よねって思ってて……そのプリシラと、やっと話せるようになって、もっと、これからたくさん……」


「――――」


「プリシラを、好きになれると思ったの。好きになりたかったの」


 一度、こぼれ落ちた涙を追いかけるみたいに、言葉と気持ちが溢れ出てくる。

 いつも堂々としていて、時々とても意地悪で、エミリアにはわからない理屈で何でも知っている顔をしながら、だけど本当はとても優しい心の持ち主。

 そういう、いいところも悪いところも色んな顔を見せてくれたプリシラを、エミリアはもっと大事に思いたかった。長い時間をかけて、その気持ちを育てたかった。

 悔いているのか、惜しんでいるのか、そんな感情の転び出るエミリアに――、


「竜が――」


「え?」


「竜が、守ってやるっちゃ」


 ふと、自分の肩に涙を落とすエミリアの頭に手を添え、マデリンがそう言った。そのマデリンの言葉に、瞳を潤ませたエミリアが驚く。

 お互いに、ほとんど横顔を触れさせている位置で相手の顔は見えない。エミリアは泣き顔だけど、マデリンはどんな顔をしているのか。

 その顔を見せないまま、マデリンは続ける。


「帝国は、バルロイが守った国っちゃ。竜には、この場所を守る理由があるっちゃ。――お前の涙の理由も、この国のために生きて死んだっちゃ。なら」


「……それなら?」


「竜が、一緒に守ってやるっちゃ。ニンゲンと違って、そのぐらい竜にかかれば造作もないことっちゃ」


 いつだって、大切な話は目を見てするのが大事だとエミリアは思ってきた。それが大事な話をするときの、絶対に欠かせない約束事だと。

 しかし、このとき、エミリアは自分の泣き顔を、そしてその言葉を堂々と言い切ったマデリンの顔を、互いに見られない状況でよかったのだと思った。


 とても大事で、大切な言葉でも、顔を見ていたら言えないこともきっとある。

 相手の顔を見ていないから言ってあげられる言葉もきっとあって、今のマデリンの言葉はまさに、だからこそ言えた言葉のように思われたのだ。


「――うん。すごーく、ありがと」


「もののついでっちゃ。礼を言われるためじゃないっちゃ」


「ええ。でも、私が言いたいの。ありがとう、マデリン」


 重ねて告げたエミリアの感謝に、マデリンが鼻を鳴らすのが聞こえた。

 それが本当に鬱陶しがったものなのか、それとも照れ隠しのそれなのか、顔を見ていないからわからない。そういう楽しさも、顔を見ない会話にはあったと知れた。

 そういう他愛のないものを愛おしむ機会が、自分にはある。

 そして――、


「――あ! 見て、マデリン!」


「うがうっ!?」


 そう、深く大切な感情を胸に留めたときだった。

 砦のちょうど向かい側の通路、そちらを歩く小さな人影を見つけたエミリアは、驚きのあまりマデリンの角を掴み、同じ方を振り向かせていた。

 そのマデリンの苦鳴を余所に、エミリアの意識は人影に吸い込まれる。――桃色の髪の小さな少年、それはプリシラの従者だったシュルトだ。


「シュルトくん……」


 その姿を捉えたとき、エミリアの胸を締め付けられるような痛みが襲った。

 プリシラの死は、彼女との今後を思い描いていたエミリアを大きく揺るがした。だが、プリシラを強く慕っていたものたちの悲しみは、その比ではない。

 悲しみや不幸の比べ合いなんて、しても寂しいだけだとわかっていても。


「――っ」


「あ! お前!」


 思い立った瞬間、エミリアは床を蹴り、シュルトの見えた通路に向かって走り出す。そのエミリアの背に、慌てたマデリンの声がかかるが、足は止まらない。

 そのまま猛然と、エミリアは要塞の中を通り、反対の通路へ回り込むと、


「シュルトくん!」


「――エミリー様、でありますか?」


 勢いのついたエミリアの声に、小さく細い肩を震わせ、シュルトが振り向く。

 その幼い少年と正面から向かい合い、エミリアは小さく息を呑む。そのフワフワの桃髪も、きちっと清潔な服装もちゃんとしている。だが、それでも赤い目元と疲れた顔の疲労感は隠せないし、どことなく顔色も悪い。

 ただ、部屋で泣きじゃくるのではなく、外に出てきている。


「……お外に出てきてくれたのね。すごーく……」


 その先に、「立派」や「偉い」という言葉を続けるべきかエミリアは迷った。

 居ても立ってもいられなくて駆け付けたが、かける言葉を全然選べていない。今のシュルトに必要なのが慰めなのか、励ましなのか、あるいは――、


「僕に、謝る必要はないであります、エミリー様」


「――ぁ」


「エミリー様は、約束を果たしてくださったのでありますから」


 目尻を下げ、そう俯きがちに呟いたシュルトに、エミリアは自分の態度を後悔した。

 シュルトにエミリアの迷いを、謝罪を口にするか躊躇ったことを見抜かれた。――エミリアは『大災』との戦いの前、シュルトと約束したのだ。プリシラをきっと連れ帰り、シュルトと会わせてあげるのだと。

 それを、エミリアは果たせなかった。あれを果たしたのは、プリシラだ。

 だけど、それを謝ってはいけないのだ。そんなことをしたら、今、シュルトが頑張ったことも、プリシラが彼にかけた言葉も、全部が嘘になってしまう。


「エー、そんなに落ち込むナ」


「……ウタカタちゃん、シュルトくんと一緒だったの」


 ふと、エミリアは自分の傍らにひょいと顔を出し、下から覗き込んでくる少女――ウタカタの存在に気付く。

 シュルトと同年代で、大事な友達である彼女は他の『シュドラクの民』と一緒に行動せず、シュルトと一緒にいてくれたようだ。

 そのエミリアの言葉に、ウタカタは「ン」と小さく頷いた。


「ミーもターも忙しイ。スーもアーも大変そウ。シューといられるノ、ウーだケ」


「ええ、そうね。シュルトくんを一人にしないでくれて、ありがとう」


「エーのお礼、受け取っタ」


 くいっと拳を向けてくるウタカタ、彼女の仕草にスバルと同じものを感じて、エミリアは差し出された拳に自分の拳をちょんと合わせた。

 それから、エミリアは改めてシュルトの方に向き直り、


「まだ、お部屋で休んでなくてもいいの?」


「……もう、十分、お休みは取ったであります。元々、僕は小さくて弱っちいので、ほとんど何のお仕事もしてなくて……だから、今は色々したいのであります」


「シューがたくさん頑張ル。そうしたラ、プーの魂もきっと安心すル」


「であります」


「――――」


 ウタカタが自然とそう言って、それにシュルトが頷いたことにエミリアは驚く。

 そうして驚くエミリアに、ウタカタは「どうしタ?」と首を傾げ、


「命は巡ル、獲物も人間も敵も味方も同ジ。それがウーたちの考え方。ウーの母モ、シューのプーモ、巡ル。きっと巡ル」


「……ぐるぐる巡って、そうしたら、どうなるの?」


「また生まれル。違う形デ、獲物と人間と敵と味方の全部違うかモ。でもそウ」


 死者の魂が巡り、それが再び戻ってくるということ。

 それはエミリアには、イマイチピンとこない考え方だった。ただ、死んでしまった人が死んでしまって、それで何もかも終わってしまうという考え方より、いい気がする。

 人が死んでしまうと、その体にあったはずのオドが抜け落ちて、それは丸ごと世界中のマナの中に溶け込んでしまう。たとえ現実はそうなっていたとしても、溶けた中にまだ形が、あるいはその人が残っているなら。


「――それが、『死者の書』?」


 そうこぼし、エミリアはウタカタに言われたことの実証を、自分も身近に体感したことがあったのだと思い出す。

 プレアデス監視塔の中、死者の生前の記憶が保管された『死者の書』の書庫には、この世界の多くの人たちの軌跡がしっかり残っている。それが残せることが、誰かが死んでしまった人の魂から、本に書き写す時間を用意された証とも言えそうで。


「――――」


 初めて、エミリアは強く『死者の書』への執着を覚えた。

 それはあの塔の中で、一度はスバルの『記憶』がなくなってしまったときとは別の、本来の意味での『死者の書』に対する執着。

 エミリアにも、決して忘れ難い死別を迎えたものはいる。――フォルトナやジュース、エリオール大森林の凍結が溶けても、もう会うことのできない人たち。

 でも、フォルトナたちとの別れには、悲しいけれど、決着がついている。


 だからエミリアに執着を抱かせたのは、まだ悲しみを乗り越えられていない悲しみ。

 もしも叶うなら、彼女が最期の瞬間に何を思い、あの談笑の先にエミリアと同じものを見たいと思ってくれていたのか、知りたい。――マデリンと、話していなければ。


 プリシラとの別れを、消化し切れないそれの鎮め方を、一緒に悩んでくれる時間がなかったら、きっと。


「僕は、プリシラ様に拾われたであります。プリシラ様が、僕を選んだであります」


「シュルトくん……」


 押し黙ったエミリアの前で、シュルトがきゅっと頬に力を入れ、俯いた顔をゆっくりと持ち上げながら、そうたどたどしく、しかし確かな熱を込めて言った。

 少年は丸い瞳を潤ませながらも、続ける。


「プリシラ様は、綺麗なものやすごいものがお好きだったであります。その、プリシラ様が、僕を……僕がダメダメだったら、プリシラ様のお名前を傷付けるであります……!」


「――――」


「それは、できないであります」


 そう、自分にできる精一杯で強く答えるシュルトに、エミリアは目を見張った。

 それは錯覚か、何かの見間違いだったのかもしれない。ただ一瞬、ほんの一瞬だけ、そう言い放ったシュルトに、眩い光が宿ったように感じたのだ。

 そしてそれは他ならぬ、焔のように生きたプリシラが感じさせたものと同じで。


 ――それが、シュルトが自分の人生を決定付けた瞬間だと、エミリアは感じ取った。


 これから先の人生、シュルトにはたくさんの苦難が降り注ぐことだろう。だけれど、シュルトはもう挫けることはないし、怖気づくこともない。

 そうならない理由を、シュルトは間近にし続けた焔を、その胸に宿すことで自分の活力を薪に絶やさないことを決めてしまったのだ。


「私、自分でできることってまだ全然多くなくて、一生懸命勉強してるけど、足りないところばっかりなの」


「エミリー様?」


「今も、きっとこの先も、まだまだ足りないところを周りのみんなに埋めてもらって、支えてもらって、助けてもらってばっかりの私が、こんなこと言うの、すごーく図々しいってわかってる。でも、言わせて」


「――――」


「私、この先もシュルトくんの力になるわ。きっと、力になるから」


 自分の胸に手を当てて、エミリアは真っ直ぐに、背の低い少年にそう告げる。

 それはプリシラを連れ帰る約束の是非や、大切な存在を失って心細い立場になった彼を憐れんでや、そうした理由を全部うっちゃったエミリアの決断。

 シュルトの、その態度や在り方を応援したいと、そう思ったことの表れだった。


「……ありがとうございますです、エミリー様」


 しばらく、エミリアの言葉を呑み込むのに時間をかけて、それからシュルトはわずかに唇を緩めて、そう答えた。

 その返事に、エミリアは勝手な約束をしてしまって、あとでロズワールやオットーに謝らなくてはいけないと思ったが、言ってよかったと思った。


「そう言ってくれたんなら、よかった。このこと、他の人にも話しておかないと……アルと、ラインハルトのお父さんは、いる?」


 実際のところ、プリシラがいなくなってしまった今、ルグニカ王国のバーリエル領のことがどうなるかは直近の問題だ。とはいえ、ヴォラキア帝国にいて、そのことを十全に話し合うのも難しいだろう。

 特にアルは、スバルと同じでプリシラがいなくなるのを見届けてしまった立場。


「――スバル」


 自分で手一杯なことが、スバルの名前を口にするエミリアはとても悔しい。

 エミリアたちが帝国で合流する前、スバルとレムは先にプリシラと接触し、エミリアたちの知らない時間を共に過ごし、その分、エミリア以上に傷付いた。

 本当なら、自分の痛みや悲しみを堪えてでも、傍にいたかったけれど。


「でも、ようやく準備ができたから、こっちのお話をしてから……」


 スバルとレムに、他の、心に悲しみを負った人たちと話にいける。

 そう決意するエミリアの前で、シュルトは「ええと」と言葉を継いで、


「アル様は、お部屋に籠もり切りのままであります。ハインケル様は、今、ちょうどお水をお持ちしようと……」


 そう言って、シュルトが傍らのウタカタを見ると、彼女は空っぽの水瓶を持っていた。水を汲んで、その足でハインケルのところへ向かう予定だったらしい。

 ずいぶんと長話で足を止めさせてしまったと、エミリアは元々の予定に付き合おうと、そう唇を開こうとして――、


「――お、ぁ」


 不意に、通路の奥から低く呻くような声が聞こえ、エミリアは顔を上げた。そして、まさかの相手と目が合い、目をぱちくりとさせてしまう。

 そこにいたのは、ちょうど今しがた話題に挙がったばかりの――、


「ハインケル様! 外に出られたのでありますか!」


 シュルトが声を高くし、そう声をかけたのはボサボサの赤毛に、無精髭の浮いた顔をしたハインケルだった。おそらく、あれから身嗜みを整えられていないだろう彼は、『大災』との戦いが終わったとき以上に疲弊した様子だ。

 目の隈もひどく、寝付けていないのがわかる。ただ、その落ち窪んだ青い瞳が、異様にぎらついてこちらを――否、エミリアを見ていて。


「すぐにお水をお持ちするでありますから……」


「え、エミリア様……!」


 そう言いながら、シュルトがふらつくハインケルの体を健気に支えようとする。が、ハインケルはそんなシュルトに目もくれず、エミリアの名前を呼びかけた。

 その態度に眉を顰めながら、エミリアは「ええ」と頷いて、


「ねえ、顔色が悪いわ。シュルトくんの言う通り、お水を飲んで休みましょう。ご飯も食べれてないなら、もらってきてあげるから……」


「いや、いや、そんなことはどうでもいい……いえ、どうでもいいんです。それよりも、エミリア様、お話したいことが!」


「――っ」


 落ち着かせようと、肩に触れようとしたエミリアの手がハインケルに掴まれる。その力の強さに驚かされ、喉を詰まらせるエミリアにハインケルは顔を近付けた。

 そして、ラインハルトと同じ青い瞳を大いに揺らめかせながら、


「俺を……私を、エミリア様に仕えさせていただけませんか。必ずや! 必ずや、王選の役に立ってみせます……!」


「な、何を言ってるの? そんな急に……あなたは、プリシラの従者でしょう?」


「役立てる! 私は、抑止力になります! 王選に勝つためには、どうしても手を引かせなきゃならない相手がいるでしょう。そいつがいる限り、誰にも勝ち目はない。でも、私がいれば、ラインハルトも手出しは――」


「――っ」


 その鬼気迫るハインケルの様子に、エミリアはとっさに言葉が出なくなる。

 このところ、考えるよりも早く、問題を解決するために動き出せるのが自分の長所だと思いつつあったエミリアを、ハインケルの妄執めいた態度が黙らせた。

 あまりにも凄絶で、ひどく無節操な自分の売り込み――それが、プリシラがいなくなってしまったことに対する、ハインケルなりの向き合い方だとしたら。


「私は、すごーく悲しい……」


「わかります、でも事実だ! ラインハルトには勝てない。私がいなければ。だから、プリシラ嬢も私を迎えた。そうだ、プリシラ嬢がそうしたことが保証だ。エミリア様! プリシラ嬢の無念を、一緒に晴らしましょう!」


「――――」


 そこに、プリシラを悼む気持ちが一片でもあれば、エミリアも耳を貸しただろう。

 でも、ハインケルの訴えには、プリシラへのそうした気持ちが感じられなかった。それがあったなら、シュルトの悲しい顔がちゃんと見えたはずだ。

 だから、エミリアはそのハインケルに唇を噛みしめ――、


「そこま――」


「黙るっちゃ」


 次の瞬間、強烈な拳撃がエミリアの前に割って入り、すぐ目の前にあったハインケルの顎が真下から猛然と打ち上げられた。「こ」と一瞬の苦鳴をこぼし、白目を剥いたハインケルがその場に大の字に倒れ込む。

 それは、普通の人の首と頭が離れ離れになってもおかしくない威力で。


「ま、マデリン!?」


「見下げ果てた奴がいるもんっちゃ。お前も、こんな奴に同情するんじゃないっちゃ」


 ハインケルを殴った手を振って、不機嫌にマデリンが吐き捨てる。

 エミリアがシュルトの下に駆け付けたあと、ゆっくり追いついたマデリンは黙って状況を見ていたが、ここで我慢の限界を迎えたようだった。


「ハインケル様! ハインケル様! 大丈夫でありますか!?」


「喚くんじゃないっちゃ。業腹っちゃが、竜が本気でぶん殴っても死ななかったニンゲンっちゃ。ただ気絶させただけっちゃよ」


 轟沈したハインケルに飛びつき、その身を心配するシュルトにマデリンが言う。が、そうは言ってもあの威力、心配がるのは当然だ。

 ただ、エミリアだって、マデリンがなんでそうしたのかわからないはずもなくて。


「マデリン、私……」


「竜は帝国を守るっちゃ。だけど、それ以外のものまで守るつもりはないっちゃ。そのくだらないニンゲンは、とっとと連れ帰れっちゃ。次はないっちゃ」


「……ん、わかった」


 怒りを押し殺したマデリンの言葉が、彼女なりの落とし所だとエミリアは理解した。その上で、エミリアはシュルトの隣にしゃがみ、倒れたハインケルを見る。

 あの勢いで顎を殴られ、完全に意識をなくした彼に、そっと手をかざした。


「あんまり上手じゃないけど、治癒室にいく前に応急手当だけ……」


 治癒魔法を発動し、マデリンの一撃の後遺症が残らないように憂慮する。そうしているエミリアの横で、シュルトがハインケルを気にしながら、


「あの、エミリー様……ハインケル様は、その、とてもお疲れだったであります」


「シュルトくん……」


「ハインケル様も、プリシラ様のこと、ちゃんと悲しんでるであります。プリシラ様とのお約束があったみたいで、それで、いっぱいいっぱいなだけで……」


「ん、大丈夫。大丈夫だから」


「……で、あります」


 頭を下げ、そう俯くシュルトにエミリアはできるだけ頑張って微笑んだ。それが少しでも、シュルトの慰めや励ましになれればいい。

 そうして、ハインケルの治癒魔法を続けるエミリアを、水瓶を頭の上に乗せたウタカタが丸い目で見つめながら、


「エー、偉いナ」


 ぽつりと、何気なく呟かれたウタカタの言葉、それにエミリアは小さく息を呑む。幼い少女の、何の忖度もないこぼれ出ただけの感想――それがエミリアに気付かせる。


 自分もまた、プリシラの死を悲しむだけの一人ではなくなり、プリシラの死を悲しむ誰かに寄り添う一人になる資格を得てしまったのだと。

 そしてそれは、スバルやレムを想えば喉から手が出るほど欲しかったのに――、


「――プリシラの、オタンコナス」


 とても意地悪な友達のことを、ただ想っていられるだけの時間の終わりでもあるのだと、それが体が内側から震えてくるぐらい、寂しくて儚いことだった。



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