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<記者の目>東日本大震災5年 福島・飯舘村を歩く=井上英介
除染で幕引き、許されぬ
先月、環境省による放射性物質の除染事業が進む福島県飯舘村を歩いた。無残な風景に、原発事故が奪ったものの大きさを改めて思った。同時に、当初から感じていた除染事業への疑問が膨らんだ。誰のための除染なのか−−。
原発事故から2カ月後の2011年5月15日、全村避難で第1陣が村を離れるのを、取材記者の一人として役場前で見送った。高齢の女性が村長の手を握り、「仕方ないと分かっているけど、本当は誰も古里を離れたくない」と涙ながらに訴えていた。
美しい村だった。福島は私の初任地で、20年以上前によく訪れた。山あいの水田を清流が潤し、牛が草をはむ。上司に内緒で道草し、森の神社を訪ね、河原へ下りて自然を満喫した。原発事故の取材応援で久しぶりに訪れると、田に雑草が茂っていたが風景は昔のまま。線量計の数値が上がっていくのが悲しかった。
線量下がっても、生活再建見えず
ところが、先月再訪すると村全体が「工事現場」となっていた。消えた村民約6000人に代わって日中、5000人規模の除染労働者が村に入る。ダンプが行き交い、汚染土などを詰めた袋(フレコンバッグ)を積む。農地除染はまだ半分強にとどまっているが、量は現在、村だけで約150万袋に上る。移送先の中間貯蔵施設建設の見通しは不透明で、各自治体は仮置き場を作ることになっている。だが、村ではその場所も決まらず、除染を進める村内19地区で「仮々置き場」を設けて積んでいるありさまだ。
農協に勤め田畑2ヘクタールを耕作し、牛を飼っていた大内和夫さん(58)は両親と妻、子供7人の大家族で村を離れ、福島市内で3世帯に分かれて避難生活を送る。村の自分の田畑にも袋が積み上がる。「帰るのは無理だ」と寂しげに言った。下の子は4歳で、無用の被ばくは避けたい。離村の日、村長に涙ながらに訴えた高齢女性は大内さんの母だったが、「帰りたい」と言わなくなった。父には認知症の兆しが出ているという。
国は早々と昨年、帰還困難区域を除き避難指示を来年3月までに解除すると決めた。だが、仮に中間施設へ袋が運び出されたとして何人が村へ戻るのか。大内さんは「線量が下がっても村に大きな病院や店がなく、生活基盤が整っていない」と悲観的だ。
一方、丸川珠代環境相は講演で、年間の追加被ばく線量1ミリシーベルトという今の除染目標について「どれだけ下げても心配という人は世の中にいる。そういう人たちがワーワー騒いだ中で、何の科学的根拠もなく時の環境大臣が決めた。(目標が厳し過ぎて除染が終わらず)帰れるはずのところにいまだに帰れない人がいる」と語った。発言の内容は誤りで、丸川氏は撤回したが、帰還を目指す村民にも不信感が広がった。
避難指示の解除、急ぐ国に不信感
村農業委員会の菅野宗夫会長(65)は11年6月、さまざまな分野の研究者らと「ふくしま再生の会」を結成。手弁当の仲間とほぼ毎週村へ入り、放射線量の測定や低減法の研究、農作物の試験栽培に取り組んできた。「目に見えないものとの闘いに村民は不安を感じている。村民に寄り添い、不安を取り除こうという意識が環境省にあるのか。機械的に除染すればいいというものではない」と話す。
当初、会の活動は批判を浴びた。戻る、戻らないを巡って村民が対立し、放射線が家族も引き裂きかねない状況だった。村には大家族が多く、避難前の1800世帯は3000世帯に分裂。それ自体が村の苦しみを物語る。
それでも「5年の歳月が流れ、最近は考え方の違いを互いに認め合うようになった」と菅野さんは言う。戻る者と戻らぬ者が連携し、行政や研究者を巻き込んで新しい村を創る。その手応えを感じつつあるようだ。それには、住民個々の自由意思が尊重されることが前提となる。
丸川発言は、避難者対策に関する安倍政権の「地金(じがね)」をのぞかせたのではないのか。「除染で線量が下がった。避難は終わり」と一方的に問題の幕引きを図り、補償や支援を打ち切るなら、除染は国家による壮大な詐術と言うほかない。実際、避難指示の解除を急ぐ政府に、福島から疑問の声が噴き出しつつある。
環境省の除染対象は、宅地▽農地▽道路▽森林だが、森林は住宅などの近くの林縁部20メートルに限られ大半が手つかずだ。村民は里山と共生してきた。大雨で水や土が出れば再び線量は上がりかねない。帰還希望者の不安に配慮し、村は自治体の裁量で人家に近い里山全体を除染できるよう求めているが、国は動かない。
核災害への対処に正解は見つけ難い。戻る人も戻らぬ人も、実情に沿った再生や自立へ向けて支え続ける努力が必要だ。