渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

リヤーステアーとはを解説

2025年01月13日 | open

リヤーステアーとはを解説


ヤマハのオートバイはリア
からのドンのフロント足払
いが無い。ホンダは全て大
昔から前輪足払い。
本間さんは今回正鵠を射る
真実をまた話しているが、
まだいくつか伏せて隠し球
にしている(笑

だが、ヤマハのマシンを走

らせていた人間は知ってい
る。
ただ、知ってはいても、そ
れのさらなるベスト方向に
向けたセッティングは達人
でないとなか
なかできない。
それでも、マシンだけでい
えば、
ヤマハのマシンはホ
ンダの
ようなエンジンだけ
が優秀
なオートバイとは比
べ物に
ならない程優れてい
る。

これは確かな歴史事実だっ
た。

なぜそれができたか。
「解っている人」がヤマハの
オートバイを作り、どんどん
それを進化させて行った歴史
的事実があったからだ。
ヤマハのオートバイは「人」
が作ったのである。

上の1984年の幻のグランプリ
の英国でのエキジビションレ
ース#2ケニーロバーツ(幻の
ケニーのWGPゼッケン)の走り
の画像に、本間さんがまだ隠
し玉で持っているヤマハのシ
ャシの秘密、いわゆる「リア
ステア」の現象が克明に現れ
ている。
本当の事をいうとリアステア
というのは存在せず、二輪は
フロントのステアで曲がるの
だが、物
理的な現象としてヤ
マハのシ
ャシはリアのある動
きを発生させる
事により、結
果的にリアがステアのような
現象を現出させる。
また、それにより後軸からの
ン突きでのフロント足払い
を捨象
するフレーム作りをし
ていた。

この原理と現象については
1984年時点で柳沢雄造が私に
酸っぱく何度も説明してい
たが、そ
れを実現させるフレ
ームを作
れるのはヤマハだけ
だった。

単にフレームだけでも駄目だ。
ステムからリアから全てをト
ータルでバランスさせた上で
全体をガチガチに固めないシ
ャシを作り上げないと、この
現象を現出させての「転ばな
い」オートバイは作
れない。

これらの二輪での知見をベー
スに、私は特装車の世界でメ
ーカーシャシの上に載せる上
物のローリーの軸上のサブフ
レームの亀裂を解消する設計
提案を為して不具合問題を消
滅させる事ができた。
ライバル会社の新明和や東急
までもがその構造を模倣する
ようになった。
私がいた会社は日本初の国産
自動車を設計製造した人間
創立者の特装上物メーカー

った。日本の純国産車は大正
時代にフランスとアメリカに

官費留学して日本の自動車産
業創生に寄与した人物によっ
て造られた。10数台製作し、
それはすべて宮家に納車され
た。
走行テストは箱根越えだった。
昭和の始まりの時代、箱根を
初めての純国産自動車で越え
る事
は初めて日本人が純国産
飛行機を飛ばすよう
な実験だ
った。


戦後特装メーカーを創業し、
都バス、はとバス、東京都
塵芥車、大型港湾桟橋、ス
タジオクレーン等々を製造
した。
昭和から平成にかけては粉粒
体運搬車では国内トップシェ
アのメーカーだったが、ロー
リー系の軸上フレーム亀裂は
国内各社でその不具合を長年
解消
できなかった。
過積載せずとも亀裂が入る。
各車とも応力を逃がす設計で
はなく、亀裂が入るからとガ
チガチに固める設計に固執し
ていたからだ。
私は中途採用で中四国管轄の
統括営業責任者として中国地
区に着任する以前の東京本社
時代からヤマハのオートバイ
作り
の設計の要諦に着目し、
その良質な
設計方針を大型特
装車の世界で活か
せないかと
腐心した。
中四国着任後は現実の現場で

の車両使用状況を具に実見で
きるので、尚更自社他社の車
体改良の必要性を痛感した。
結論的にヤマハRZのエンジン
マウントにもみられる「逃が
し」とヤマハのレーシングマ
シン(特にTZ250)のシャシ設計
の発想に多
くのヒントを得て、
その知見
を大型貨物特装車の
上物に
フィードバックしてみ
た。

メーカーでの社内稟議を何度
も通して。

サブフレームの不具合は解消
された。
私は社長賞で2回表彰された。
応力計算などしたのは設計部
の人間だが、指針方向性は私
の提出した稟議による。
他にも架装物の亀裂不具合等
の解消方法を提案して、それ
を実験的に私が受け持つ統括
地域で販売する車両にプロト
として施し、経過を見た。
結果、超がつくほどの良好で、
その構造が本格的なメーカー
の標準仕様となった。
大型貨物フルトレーラーにお

いては、フルトレで片輪走行
できるテストドライバーが専
用周回テストコースで何度も
強烈
な走行をして車両をテス
トし
た。その結果を詳細に分
析し
てさらに改良を加える。
何十トンものフル積載状態で。

製品は完璧な物になって行っ
た。
そして、ディーラーではなく
末端運送業者そのものへの
アプローチをする私の販促方
針と販売営業力と併せて
優秀
な製造物はさらにトップ
シェ
アを打ち固めた。

新明和、東急からは私を指し
て「あいつを潰せ」との号令
まで出たそうだ。
軒並み両社のお客さんをゴソ
ッと私と私の社の製品が獲っ
てしまったから。
やがて東急車輛は会社自体が
消滅した。
新明和に至っては、我が社に
OEMで自社ブランド名で我が
の製品を販売させてくれと
2社間協定を提案してきて、
3年
程新明和のブランドで我が
の製品をトラックシャシに
我が社で架装して販売した。
購入したあるユーザーは言っ

た。「おたくの車もいいけど、
今度納車してみた新明和がか
なりいいよ」と。
いえ、それうちの製品ですか
ら(笑
極東開発工業は自社製品に

公に我が社の製造品として
謳って販売をするようにな
った。これはOEMというよ
りも製造元の開示販売形式

だ。
それほどの良製品に仕上が

った。「ハンドリングのヤ
マハ」のように(笑


その後新明和のみはOEMを解
消してまた
熾烈な競合市場戦
争状態(二輪
のHY戦争のよう
な)に入ったが、
私が統括者と
して展開した販
売路線と徹底
したアフターに
より我が社の
業界シェアは揺
るぎないもの
になっていた。

HY戦争はホンダが勝利したが、
特装架装の世界ではヤマハが
勝利した、みたいな図式だっ
た。

あれは面白い仕事だった。

人の三倍の時間働いて身体を
壊し早期退職したが、人の三
倍の給料は貰ってはいなかっ
た(笑
なお、私が社内で担当した部
署の統括責任者は、何人もが
身体を酷使して死亡している。
私も前々任者が仕事中に死亡
したため、東京本社からの代
理としての赴任で中国地区に
転住赴任したのだった。
だが、適当にやれば適当に
やれるが、本気で業界を獲り
に行こ
うとすれば、いくらで
も身体を
酷使してやれた。
結果は市場と史上を塗り替え
るし、塗り替えた。教科書に
は出てこないが
歴史に残る大
仕事を担当でき
る。そんな部
署だった。

いわば海援隊のような仕事が
可能な権限とポジションを与
えられる仕事だった。金も大
きく動かせ、また金を生んだ
し、何よりも物が流通して物
流世界の構造そのものを変え
られる事が「人の暮らしに役
立つ」という面から実行でき
る。やりがいのある仕事だっ
た。
私の事を匿名裏ネットやSNS
で誹謗中傷する人らも、
実は
自分らの日常的な食生活はま
ず100%
私の仕事、私の残し
た功績に
深く関与している。
乳製品、
鶏卵、鶏肉、国産豚
肉、国産
牛肉等々。それら全
ては私が手掛けた
製品車両な
くしては
成立しない。
私の事をどんなに忌避し、誹
謗中傷しようとも、私の残し
た功績の上にそれらの排外者
たちの食生活は成り立ってい
る。
痛快だ。
多くの人々の生活の為になる
仕事をした結果は、私的な偏
頗で偏狭な勝手な思惑での感
情論を木っ端微塵に事実上は
粉砕している。
私が残した足跡と仕事の上に
それらの人間の生命も存続し
ているのだ。

だが、本気を出したら死ぬほ

ど激務だし、本当に死んでし
まう。
つい先ごろも北海道の担当者
が若くして死亡してしまった。

もうひとつ、構造物について。
ガチガチな刀は折れるのだ。
かといって、中にアンコの
芯鉄を入れたからと折れな
いのではない。
日本刀が折れず曲がらずとい
う特性を備えるのが、戦国期
の量産工法である芯鉄組み合
わせ構造による、とか思い込
んでいるのは日本刀のド素人
だ。
日本刀の頑丈さの秘密の根幹
は、素材の在り方と衝撃の
「逃がし」の構造によって日
本刀は折れないのだ。
積層組み合わせ構造のペタン
張り合わせではなく、無垢で
中味が両手の指が絡み合って
がっちり合体するような内部
構造の刀が折れず、斬鉄剣と
なる。

その重要な日本刀の作り方の
根幹も大型貨物特装車の車作
りには大きな参考となった。
ヤマハの二輪も同じだ。
ヤマハのオートバイは、よく
切れるがガチガチですぐに刃
こぼれしたり折れたりする包
丁のような刃物ではなく、し
なやかでありながら頑丈な日
本刀の設計思想と通じる点が
極めて濃厚なのだ。
ヤマハのオートバイは駄物で
はない優秀な日本刀=斬鉄剣

なのである。
かつては。


 

 
 


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