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Conversation

私は昨年、他の女性団体や性暴力被害者支援団体の女性たちとともに、トランスジェンダージャパン(TGJP)の性暴力問題を告発し、折に触れて、対応のまずさや、恫喝訴訟の問題を批判してきました。 それに対して、私たちに対する不満を募らせた一部の男性たちが、Xで反感を表明し続けています。 中には二次加害に該当するものも多く、私の個別の対応として、忠告するようになりました。 すると、その中で先鋭化する男性も出てきました(私の忠告の伝え方がプライドを刺激したり、機嫌を害してしまった可能性がありますが)。 ある方は、過去の私のツイートや、私が過去にいいねした投稿を掘り起こし、私に対し、「colaboバッシングをした人間」というレッテル貼りをした投稿を利用し、ネットリンチを仕掛ける人も出てきました。 そこで、私に対するこうしたデマや印象操作に抗議したく、以下、お読み頂けるとありがたいです。 私は、近年のいわゆるcolaboバッシングの文脈(公金なんとかとか)でcolaboを叩いたことはありません。 colaboに限らずですが、社会活動団体や社会活動家に対しては大概、「総論賛成、各論反対」の立場がほとんどで、各論について批判や批評を述べることはあります。 画像にあります、レッテル貼りに使われたこれらのツイートやいいねの意味も、各論で、「AV新法で仕事を失った人は福祉へ」論に反論するための投稿やリツイート、セックスワーク禁止を訴えるのはやめてほしいという投稿、支援者との相性の良し悪しによって受益者のQOLが変わることがないようにしたいという投稿、というかなり限定的な意味でしかありません。 これらを指して、colaboバッシングの人という名称のカテゴリーにされ、「こいつは叩いていい部類」と認識されてしまうのなら、colabo関係のことは誰も何も言えなくなります。 また、私の意見がおかしいのであれば、そのことへの批判やバッシングならまだ全然いいのです。 問題は、これらのスクショを見て頂いたらおわかりのように、私を批判する方々というのは、驚くべきことに、「ほら、要がcolaboを叩いた」(または、「表自と繋がってるのが嫌」)ということだけしか書いてないのです❗️ 通常、人が差別する社会的カテゴリーを作り出す理由は、それによって力関係を作り出すことができ、自分が優位に立つことができるからです。 このケースの場合、女性の人権やリベラルにとっての敵として流通した「colaboバッシングする人々」という社会的カテゴリーのレッテルが、私に貼られました。 このカテゴリーに入る人々は、徹底して民衆にとっての悪者・敵であるかのような見方を広げることができます。 こうしたレッテル貼りは、人々に、どの社会的カテゴリーに属さなければ不利にならないか、自分はどちらに見なされるように振る舞えば有利かと、人々を追い込む効果があります。 今回これらのツイートを拡散した人は、私が何を言っているかなどどうでもよく、とにかく私が悪人に見えさえすりゃいいという安易な気持ちで私を吊し上げたかったのだと思いますが、それによる効果というのは、私個人の不利益だけに止まらないことを知るべきでしょう。 普段トランス差別や暴力に反対しているような人が、ヘイターと同じやり方で、人を安易にカテゴライズし、ネガティブなレッテル貼りするのを、何の躊躇いもなく行ない、むしろそういうのを流行らせようとしているのをみると、種を巻いては芽を摘むようなことをしていると思いました。 おそらく、こういう人たちというのは、0か100か、各論がなくて総論賛成か反対かという見方でしか人をみれないのではないかと思うし、多様性や共生といいながら、一番それが難しい人たちなのかもしれないとつくづく改めて痛感しました。
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