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おはようございます。 今日は朝から「軍艦島」のニュースが目に入ったので軍艦島での朝鮮人労働者の有り様をご紹介します。 この原稿は数年前に坂本道徳先生から頂いたものです。 写真も先生から頂いた一部です。 当時の様子がよく分かるかと思います。 ニュース 『軍艦島元島民、NHKに謝罪と検証番組要求 韓国で教科書にも使用 「炭坑内との確認得られていない」と認め調停成立』 news.yahoo.co.jp/articles/65301 『坂本 道徳のプロフィール 1954年福岡県筑豊に生まれる。小学6年生のとき炭鉱に勤務する父の仕事の関係で端島に移住。長崎県立高島高校を卒業後、長崎大学商業短期大学部に入学、翌年同大中退。20歳で上京し、コンピューター関係の会社に勤務。82年長崎市に戻りパソコン教室などを経営。99年に25年ぶりの同窓会で端島へ渡航した際、風化する島の現状に衝撃を受け、その保存を考えるようになる。2003年にNPO法人「軍艦島を世界遺産にする会」を設立。現在、軍艦島ガイドとしての活動を続けながら、軍艦島講座の講師や各種執筆、講演などで精力的に活躍中。 ・軍艦島ツアー・シーマン協会 ・軍艦島を世界遺産にする会 ・軍艦島物語(朝鮮人の思い出)』 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 軍艦島(端島)には病院、映画館もあり、パチンコもあり食堂もあった。 島の平坦な部分は炭鉱のための施設であり、残りの空間に住居があり限られたスペースに人を住まわせるという技術は、並大抵のものではなかったと思う。 外側から見ると、なんとも窒息しそうな感じだが、意外と中の通路はきちんと整備されていたし、人が往来するには十分であった。 島には病院もありお産婆さんもいて、お寺もありました。生まれてから死ぬまでの設備が整っていたのである。 そして戦前には3軒の遊郭があったのである。 島には家族で住んでいた人が大半であるが独身者も、また大正6年(1917)の朝鮮人工夫募集によって朝鮮からの労働者もいたからこういった施設も必要だったのかもしれない。 「本田」「森本」は日本人の遊郭、「吉田」は朝鮮人専用であった。 昭和8年(1933)の新聞に「本田伊勢松氏の経営する料亭本田屋が多情多彩の情緒をもって炭紛にまみれた坑夫たちの荒くれた心身を愛撫してくれるのも炭坑端島のもつ柔らかな一断面である」と記事がある。料亭すなわち遊郭のことであるが危険な仕事を終えた後の彼らの心身に少なからず影響を及ぼしたのであろう。日本人も朝鮮人も。 私の義理の叔父が子供のころ、その遊郭の女性たちと道端で会うと「ピータン、ピータン」と呼び掛けていたと話してくれた。 いまだに韓国人から強制労働などといわれのない発言や謝罪などと言われているが それならば朝鮮人労働者の為に遊郭を経営することに大きな矛盾があるのではないかと思う。 また過酷な状況で一番危険な仕事をさせられたと証言があるが炭鉱は誰にとっても過酷で危険な仕事である。だからこそその見返りとしての多額な賃金が提供されたのである。 私の父親はこの島で石炭を掘っていた一人である。戦時中は朝鮮半島出身者も一緒に働いていた。石炭を掘る仕事は様々なグループで掘り進める作業であり、リーダーが居て採炭の指示をしていく。仲間の結束が乱れると様々な事故が起こるだけではなく他のグループを巻き込んだ大事故につながるのである。 だから仕事が終わるとみんなで集まり今日の反省と明日への労いのために酒盛りがありました。朝鮮半島出身者とも同じ仲間として一緒に酒を酌みかわしたと聞いている。誰もが仕事から無事に帰ってくることを祈りながら。 また通常の生活の中でも朝鮮人と学校で机を並べていたとも聞いています。 私も筑豊出身で小学生の頃にこの島に来たのであるが筑豊でも私の隣の席には朝鮮人の綺麗な人がいた。鄭さんと言った人で明らかに戦後日本に移り住んだ家族である。また他にも 朝鮮人の男の子と仲良くなりよく自転車で遊んだものである。 軍艦島(端島)に来てからはほとんど朝鮮人と思われる方とは交流はなかったが それは終戦後彼らがほぼ全員朝鮮に帰ったと聞いている。その日のことを複数の方から聞いている。朝方、朝鮮人の子供たちが友達の自宅を訪ねて国に帰るからこれでお別れだと言って回っていたと聞く。そして500名近くの朝鮮人たちは涙の別れをしていったのである。 近年韓国で制作された「軍艦島」の映画がいかにフェイクであるかがよくわかる。 しかしこれを見た韓国の若者たちが軍艦島のクルーズに訪れて横断幕を広げて口々に地獄の島だったと叫ぶのである。私がそれを否定して映画はフィクションであり真実ではないと諭しても決して自分たちの主張を翻すことはない。韓国の観光旅行の集団は韓国のガイドを雇い日本人の観光客とは別の位置で私たちにとっては真実ではない内容のガイドをしていることもあった。映画やマスコミの間違った歴史認識のミスリードで私たちも韓国の若者たちも間違った歴史に翻弄されるのである。 また韓国のテレビクルーが取材許可もなしに船舶に乗り込んで私がガイドを始めると突然カメラを向けてくるような迷惑な取材をされたこともある。 そして彼らは必ず強制連行の話をしてくるのである。韓国でどんな人の取材をしてそして裏付けもなくすべてが強制連行ありきで来るのである。 私は現在、軍艦島保存の活動とガイドをしている。 2009年に軍艦島が世界遺産の暫定リストに記載された頃から韓国のテレビ局から何度か取材を受けたことがある。必ず彼らはビデオを見せながら当時軍艦島(端島)に住んでいた韓国人の証言だと言って過酷な環境で差別されてきたと老人の姿を見せるのである。 それが本当かどうかの証明ができないままに私にかわいそうでしょうと尋ねる。しかしその老人がどこに住んでどんなグループと炭鉱で作業をやっていたかを語ることは皆無であった。端島の戦前の人たちはみんな仲良く暮らしていたと証言をしてくれる。 もし何百人も端島に家族で来ていたなら別の証言もあってもいいはずである。 活動の中で様々な元島民と話をしてきました。炭鉱の内部の話や戦前、戦中の話も伺いました。その中に90歳で他界した私の叔父から聞いた話がある。 第二次世界大戦末期に端島に電気を供給していた隣の高島炭鉱の発電所が、アメリカ軍によって攻撃された。当然は端島の電気はすべて止まり竪坑櫓(たてこうやぐら)と呼ばれる地下に昇降するための電動エレベーターがありました。これで海底下600m降りて各採炭場所へと向かうものである。 電気が止まって、当然エレベーターは停止した。地下600mに鉱員達は取り残された。その中に叔父もいたのである。彼らは垂直の非常階段をひたすら地上に向かって登り始めた。 キャップランプの薄暗い明かりの中では何も見えない恐怖と生きて帰りたい執念。上から落ちてくる同僚の汗と涙、小水。すべてを頭に受けながらも必死で最後の日の光が見えるまで登りつめまたのである。全員が無事に生還出来たそうだ。その日が昭和20年7月31日、終戦の半月前である。そんな危険な出来事があったことさえ韓国人の人々からの証言がないのは残念である。 共に働き共に生きて帰る。その執念の中に炭鉱で生きてきた人々の記憶が残っている。差別があればそんな運命共同体の生活はできなかったはずである。 また、元島民の長老たちが、小学校で朝鮮人の子どもと一緒に机を並べて勉学に励んだ思い出を語るときの笑顔が印象的であった。手作りのキムチを近所に振舞った朝鮮の婦人たちもいたと聞いたこともある。 端島では虐殺や虐待があり、日本が隠蔽しているという話がありますが、それが間違っている証拠である。 島への愛着と同時に私はこの島の人々が嘘の歴史を語るはずはないと思っている。 この島の人々の記憶と証言に向き合ったときに、良いことも悪いこともその正直な姿がそこに現れる。 皆さんに訴えたい。私のふるさと軍艦島が「戦時中、韓国の人を奴隷のように強制労働させたアウシュビッツのような地獄の島」という誤解が国際社会に広まっています。そういう誤解によって私たち端島の名誉が傷つけられています。悲しいことです。 誰もが故郷を持っています。その故郷の歴史をあるがままに伝えていくのは我々の責務です。汚名を着せられたままに歴史を伝えていくのは私には耐えられません。 運命共同体として小さな島での確かな歴史を残していきたいのです。先人が残した言葉と証言こそが歴史の真実です。 皆様には是非軍艦島を訪問し、真実の姿を見ていただきたい。私たちは皆様をいつでも歓迎し、喜んで軍艦島をご案内します。なぜなら軍艦島は地獄の島ではなく、私たちの故郷だからです。
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