-1-
芝生の続くなだらかな丘の上に家があり、近くに小川も流れてる。小川を下れば森に続いた。その森を抜けると海があり、海の向こうには孤島がある。
ここは穏やかな場所だった。悩みらしい悩みといえば、雨が少し多いくらいだ。洗濯物が溜まりがちになってしまうのが、ここの唯一の悩みであった。
危険なモンスターも観測されず、村までは少しあるがとても広大な庭もある。
文句なんかひとつもなかった。ここに、かつて水没林を救った彼と、二人で静かに暮らしていたのだ。
彼の視力が僅かながらに回復を見せた秋のこと。ハネムーンに行こうと彼が誘ってくれたから、彼女は孤島に行ってみたいと彼にせがんだ。
孤島から見れる空を飲み込むほどの流星群を、一度でいいから眺めてみたいと。
野生の竜が度々観測される孤島であるから、彼は暫し考えた。
だけど結局、いいよ、行こうって頷いたのだ。片腕になれども並大抵の竜に負ける気はしなかったし、オオシナトもついている。だから、船に乗って行ったのだ。
赴いたのは下位ハンターでも歩けるような、比較的安全圏の浜辺であった。だからこそ、散らばった積荷や破壊された荷車に、人間の残骸や血のあとを見て戦慄する。
彼の中にある数多の知識が、この惨状の犯人を直ぐに特定させた。
……なんだってこんな下位圏に、イビルジョーが現れてしまったのだろう。
その日、彼女は血塗れの積荷の影で赤子を拾った。
ユピが家族になった最初の日だった。
-2-
「……っ」
恐怖に呼吸が覚束ないけど、必死に声を押し殺す。気配を隠す技術はさほど高くないけど、懸命に彼女は悲鳴を飲み込んでいた。
ハンターでない彼女にとって、それは見たことない竜だった。
その竜は、獣竜種の祖先の一部が分化の途中で謎の進化を遂げて誕生したものという。ハンター達は決まってこいつの恐ろしさや〝やっかいさ〟を嫌煙してるし、同時に畏怖すら覚えるものだ。
彼女は知らない。この竜が、生命活動維持のため、あらゆる生命を糧とする特級の危険生物だということも。
竜は、イビルジョーと呼ばれてる。
庭先の地面を抉るようにして、突如として現れた竜は大岩のように巨大であった。
暗緑色の鱗に覆われた巨大な体躯に、首元まで裂けた口とそこに生えた無数の棘。
彼女にはなんの知識もないが、恐ろしいものだと肌で感じた。
先ず、感じたのは食欲だった。
殺意ではない。食欲なのだ。イビルジョーは彼女を敵とも思わない。肉の塊だと思ってる。それが何より恐ろしい。
壁はあっさり破壊され、台所の野菜や果実、蓄えた肉が瞬く間に平らげられた。冬を前にけっこうな備蓄をしてたというのに、食い尽くされるのは本当に一瞬のことだった。
尚も空腹を満たされないのか、イビルジョーは去る様子もなく彼女の匂いを辿ってる。
〝まだ食い物がある。匂いがする。肉を食いたい〟
そうやって、ハンモックを裂き屋根を破って、家具を踏みにじりながら近付いてくる。
彼女は納屋の影に逃げ込んで、じっと息を殺してた。
だけどイビルジョーは、多分彼女に気付いてる。
ああ、駄目だ。死んでしまう。
彼女は死の味を噛み締める。頭の中は、彼とユピのことでいっぱいだった。
その時だ。
一筋の稲妻が一閃し、イビルジョーの額を強く貫いたのだ。
一瞬だけ昼間のような光を放ち、直後にイビルジョーの呻きが聞こえる。
彼女は目を見開いた。
ジンオウガが電撃を放っているではないか。
近くに、群れが来ていると、確か彼は言っていたけど。
驚きに樽の脇から顔を覗かす。
イビルジョーの首元に、ジンオウガが噛み付いたのは同時であった。瞬間、イビルジョーは全身の血管を浮き彫りにして、古傷さえも赤く充血させながら、悍ましい咆哮を轟かす。
鼓膜が破れてしまいそうだ。彼女は咄嗟にしゃがみ込む。空気ごと破裂しかねない大音量は、咆哮だけでなく地響きによるものも含まれた。
竜同士の戦いとは、こんなにも熾烈なものなのだろうか。
小さなジンオウガは怯むことなく、歴戦の恐暴竜と対峙していた。彼女の前に。まるで外敵から守ろうと、その背は立ちはだかるかのように勇ましい。
「あ……、ああ……」
喉が掠れる。月夜に浮かぶジンオウガの体毛は、神秘的なほど白く美しく輝いている。珪孔雀石のような青い外殻、琥珀色に輝く爪。月光を浴びた雷狼竜の背中は勇ましく、全身に怒りを体現するようだった。
雷光虫が活性化して雷を蓄え、それがパチパチと威嚇するような音を出す。イビルジョーが振りしだいた尾っぽからの一撃を、かわしたのは跳躍だった。
華麗に宙へ翻り、半月の弧に沿うようにして体躯がくるりと反転されてく。────宙返りだ。
愛する彼の見事なものと酷似していた。
彼が操虫棍で高く跳躍する様と、ジンオウガはよく似てる。
一撃のたびに真っ白い火花が散ってゆく。特に前脚は著しく強靭な筋肉を備えてて、尋常ではない膂力を発揮していた。
強い。文句なしに強かった。まだ幼いのに、このジンオウガは文句無しにとても強い。それでも彼女が抱くものは安堵ではなく、悲痛なほどの心配だった。
「だめ、だめ!いいから、」
このジンオウガが強いこと、戦いを見るのは初めてであれ知っていた。
彼は言っていたのだ。
すごく優秀。なんでもすぐに吸収してくし、ドスジャギィやロアルドロスくらいなら、もうきっと敵じゃないねって。
あの跳躍もきっと彼が教えたものだ。
狩りは、彼が教えたものだから。
あの日彼は言っていたのだ。
〝素質かな。まぁ、当然かもしれないけど。
ジンオウガってハンターにはさ、無双の狩人って呼ばれてるんだよ〟
「だめ!ユピ、逃げて!!」
それでも、彼女はユピの身を案ずる方が強いのだ。
イビルジョーは、あんなにも強大なのだから。
-3-
不思議だった。ずっと不思議だった。
どうして自分には、母のような指がないのか。母にも父にもない牙や爪を持っていて、足も二本ではなく四本もある。どうして自分は、こんなにも形が違うのだろう。すごく不思議だったけど、多分、これは戦うためにあるものなのだと、いつしか自然と理解していた。
角も爪もない母だけど、「家族だよ」って抱きしめてくれる。
〝お母さんを、守らなくっちゃ。お父さんみたいに〟
あの日、もう何年も昔の話。
生存者かも。
そう言って彼女は、イビルジョーに食い散らかされた孤島の浜辺に駆け寄った。血生臭さを怖がらない指先が、絨毯をそっと退けたのだ。
「……生きてる」
小さい。
華奢な彼女が容易く胸に抱きかかえられてしまうくらい、そこにあるのは小さな命だ。無傷ではなかった。だけど確かに、ユピの胸は鼓動に上下してたのだ。
「このジンオウガ……まだ赤ん坊じゃないか」
「赤ちゃん……。助かるかも、手当てすれば……」
あの日、もう遠い日。二人と一匹は家族になった。
…………………………
投げつけられた岩石を紙一重にかわせども、直後に放たれた龍属性ブレスはユピの腹の産毛をジリジリ焼いた。
痛みに呻くその姿に、彼女の目から雫が落ちる。
イビルジョーの追撃は止まらなかった。
ジンオウガ。雷狼竜。だから、雷を武器とした神様を名前の由来にしたのだ。
ユピ────彼女は拾った赤子をそう呼んだ。ユピテルと名付けたから。
アルファベット表記では「Jupiter」と書き、「ジュピター」と発音することも出来る。古代神話で雷を武器に、世界の秩序と正義を維持したという主権神。それがユピテルだ。
その名に相応しく、傷つきながらも立ち上がったユピテルは、天を仰ぎ咆哮をした。潰れた喉から無理矢理捻り出したその声は、酷い痛みを伴うのだろう。古傷が避け血がじわじわ滲み出る。彼女が初めて聴いたユピの声は、あまりに痛ましく嗄れて、それでも強大な怒りを孕む荒々しいものだった。
咆哮を合図に周囲の雷光虫が一気に集まる。角や蓄電殻が上向きに展開され、全身から光が迸るようだった。活性化した雷光虫は超電雷光虫と呼ばれており、これらがジンオウガに落雷にも匹敵するほどの力を齎しているのだという。
この姿になったジンオウガは、「超帯電状態」と呼ばれていた。無双の狩人の真骨頂だ。
力や俊敏性が飛躍的に上昇し、ユピテルは疲れを見せる事無く矢継ぎ早にイビルジョーへ攻撃を仕掛ける。
側面の畳まれた二本の鉤爪が土台へ展開し、より攻撃的な形態へと姿を変えた。総じて見ると通常時より戦闘能力が跳ね上がるのだ。痛ましくも力強い咆哮が、蓄電殻や帯電毛から蒼白い電光を発させていた。
討伐に乗り出したハンターたちを悉く粉砕し、「人間の敵うモンスターではない」とまで言われたジンオウガは、自然界においても相当な強者として認識されている。森の中を歩けば、その進路上の小型及び中型のモンスターは一目散に逃げ去るほどだ。
無双の狩人。
いつからか、誰かがその王者たる風格に感嘆し、あるいは〝無双〟と呼ぶに相応しい膂力に敬意と畏怖を示してそう呼んだ。
並ぶものがないほど強い、無頼であり無二のもの。それを人は無双と呼ぶのだ。
・ ・ ・
〝お母さん〟
そう、呼べない。ジンオウガの声帯は、声は出せども言語のように発音を細かく使い分けられるよう出来てはいない。
だから、声が出せても母と呼ぶことは出来そうにない。
ユピは、声さえ出せれば呼ぶことができると信じてた。だのに嗄れた喉は獣の呻きばかりを発し、優しい言葉を紡げない。
悲しい瞳で母を見た。
やはり声は、ぐる、と可愛げのない音で鳴るだけだった。古傷のせいで酷く痛む。
母は涙を落としてた。
「……ユピ、わかるよ。……ありがとう、ありがとう……。死なないで、逃げて……」
母がそんなことを言うものだから、唐突にユピは理解する。「お母さん」と呼べなくとも、目だけで彼女にはわかるのだと。
もうずっと、ずっとずっと前からちゃんと家族だった。
「────やっぱイビルジョーか……。くそ、俺の家族になにしやがるんだ」
駆けつけたのは彼だった。右腕のない操虫棍使い、かつて水没林を救った英雄。そして、ユピの父であり彼女の愛する人だった。
「よかった、無事で。撃退する、下がって」
彼は言う。オオシナトがひらひら舞ってた。
きっとこんな大物に一緒に立ち向かってゆくのは、今夜が最初で最後だろう。彼はそれを悲しく思う。しかし同時に、誇りに思った。
「行くぞユピテル、貪欲の恐王を狩る」
-4-
群れで子育てを行う習性を持つが故に、人里離れた渓流の奥深くにしかその姿を見せないジンオウガは、元来人目に触れる事が滅多にない竜だった。
そのためユクモで〝とある事件〟が起こるまでは、生態研究も積極的でなかったらしい。森の深くへ進む中、彼はそんな話をしてくれた。ユピに最後のお別れをするのに、どうしても同行したいとせがまれて、結局彼は折れたのだ。
イビルジョーは恐ろしかった。家は粉々にされたから、暫くまた村に戻ることになるだろう。
彼女はこんな目に遭ったというのに、新居を建てるならまたここがいいだなんていう。ユピとの、思い出がたくさんある場所だから。
「共生関係にある雷光虫は、最初、親のものから移ってくるんだ。ユピも赤ん坊の頃から背中が少し光ってただろ」
まだ粉ミルクを与えていた頃だ。楽しかったり機嫌が悪かったりと、感情の起伏でユピの背中は直ぐに光った。だから気持ちは手に取るようにわかったものだ。もっとも、彼女はそんな生態ではなく、表情で判断していたようだけど。
「自分の群れの出身かどうかっていうのは、雷光虫の質で判断できるんだよ。観測隊と連絡を取ってわかったんだけど、この奥に観測されたジンオウガは、孤島から移ってきた可能性が高いって」
「じゃあ……ユピの?」
「うん。家族かもしれない。孤島の雷光虫はこの森に生息してるやつより体格がデカイからね、すぐにわかる。ユピのもそうだろ。もしかしたらあのイビルジョーも、群れを追ってこっちに来たのかもしれない。幼体のジンオウガを狙ったのかも」
昨晩の死闘が嘘のように、静まり返った夜だった。生い茂る草木を払いのけ、やがて開けた河原が見える。
ガーグァが好み、また雷光虫の多く生息する水辺というのは、ジンオウガが子育てするのに最適な環境と言われてた。ガーグァはジンオウガの好物なのだ。
しっ、と彼は指を立て、気配を殺すよう彼女に指示する。河原の先には、一頭のジンオウガとその子供達が寛いでたのだ。
親であろうその一頭は雄だった。雌は見えない。成体であろう体格は、ユピの二倍はありそうだった。
水辺に遊ぶジンオウガの幼体たちと、ユピは面立ちが良く似てる。
「……もし、予想通りなら、大丈夫なはずだよ。ほら、行きな」
彼はそう言って、ユピテルの額を優しく撫でた。
昨晩の傷は手当が済んでいる。
このまま一緒にずっと暮らしてゆくのもいい。きっと暖かく幸せな生活になるだろう。
けど、ユピにとって……いや、ジンオウガにとって、どちらが幸せなのかなど、考えるまでもないことだ。
彼女はユピに抱きついて、涙を溜めながら囁いた。
「ずっと家族だからね。離れても、もう会えなくても、家族だからね」
────元気で。
彼女の頬から落ちた雫が、ユピの鼻先を濡らしてた。
「ああ。お前はずっと、家族だよ」
彼もまた、緩む涙腺にこめかみの痛みを覚えてた。
くうん、と悲しげな声を残し、ユピが彼女の頬撫でる。
やがて、振り返らずに、ユピテルはジンオウガの群れに近付いた。
-5-
イビルジョーに破壊されたかつての家の整地が済んだと、報せが来たのは一ヶ月後のことだった。
また同じ場所に家を建てよう。それが彼女の希望であったし、彼も同じ気持ちになった。
来週から木材を運ぶ。
そんな折だ。頼んだ業者が戸惑い顔で訪ねてきたのは。
「その……一応お知らせしたほうが良いかと思いまして」
「なにか困ったことが?」
「いえ、困ってはないのです。ただ、我々が片付けてしまって良いものなのかと……」
「どういうこと?」
「それがですね、ご自宅の場所に────」
………………………………
芝生の続くなだらかな丘の上に、かつて家は建っていた。
やがて秋は終わりを迎え、北風の吹く冬が来る。青々としていた芝生も、すっかり琥珀色になっていた。
夕陽が、その日の終わりを惜しむように沈んでく。彼方の西が燃えるような赤だった。優しい色だと彼女は思う。
「ほら、あそこ」
「わぁ……」
まだ、家があった頃。彼女のベッドがあった位置を中心に、薄紫の花びらがいくつも咲いていた。
ここに生えてきたのではない。どこかから運ばれてきたのだろう。
拙く、茎は折れ、歪んでしまったものもある。青、薄紫、白もある。いくつもいくつも広がっている。彼女が好きだと言った花だった。
……ユピがかつて彼女にシオンを一輪摘んできた時、こんなふうに、やはりシオンは折れていたのだ。
ユピには、ジンオウガには、器用に花を運ぶ指がないから。咥えて運んだせいだろう。
あの日花瓶に挿したよれたシオンと、ここに広がるシオンの様子は良く似てる。
ユピは聡明だった。彼女の教えたことはすぐに覚えたし、忘れてしまうこともなかった。
日が暮れてゆく。
彼女とユピが共に過ごしたその場所に、綺麗な花が置かれてる。
あの日、彼女はユピに教えたのだ。
〝シオンっていうのよ。とっても好きな花なんだ、ありがとう。
花言葉っていうものがあるの。
シオンの花言葉は『追憶』とか、『追想』、それから────〟
ユピは、目をまん丸くキラキラとさせ、彼女の話を聞いていたのだ。
シオンの花言葉は『追憶』や『追想』……
それから、
『あなたのことを、忘れない』