花守の丘   作:紙粘土

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2話

-1-

 

ユピテル。

それが名前だと教えられた。〝母親〟はユピと呼びかけてくる。〝父親〟はお前と呼びかけてくる。

 

声は出せない。怪我をしてしまったせいらしい。

……なんとなく、わかる気がする。喉のざらついた爪痕に触れるたび、悍ましい記憶の残滓が脳裏を掠めてゆくのだ。自分のために、闘ってくれた誰かがいた……気がする。

生臭く、どこぞしこも真っ赤な世界の水の畔りで、怒号にも似た叫びを聞いた。焼けるような痛みと、眼前いっぱいに開かれた悍ましい口。きっと自らの声が出ないのは、この記憶に起因するなにかなんだろう。ユピは漠然とそう思ってた。

 

 

 

家族が好きった。母親が一番好きだった。

窓辺のすぐ脇にある芝生がとても心地よくて、そこで昼寝をするのも大好きだった。決まって満腹になれば眠くなる。母はそれをわかっているようで、昼食の後、天気の良い日は必ず言うのだ。お昼寝行く?と。頷けば母はニコニコしながら着いてくる。

そうやって一時間ばかりうたた寝してから、森を走り回る毎日がとても幸せだった。

そんな母親が尊敬する、片腕のない父もまた好きだった。

 

 

「この人はね、凄く強いハンターだったの」

たびたび母は語ってくれた。

 

「ハンターっていうのはね、竜と戦う強い人のこと」

 

操虫棍と呼ばれる武器と猟虫を駆使して、軽やかに舞い、鮮やかに一閃する。その話を、ユピは好きで何度も聞いた。

操虫棍……その武器は、知ってる。父がよく振り回してる。片腕しかないのに器用なもので、時折ルドルスやジャギィが家に近付いて来ようものなら、紙切れみたいに一掃されてた。もっと大きな竜も見事に狩りとってしまうらしい。見たことは、ないけれど。

 

 

「……興味あるの?」

 

ある日、ファンゴを一突きに仕留めてその皮を鞣す様をまじまじ見つめている時に父は言った。

うん。ある。……と、言いたいところだが声は出ない。しかし頷くだけで意思を伝えるのは十分だった。

 

「まぁ……お前もそういう時期だよな」

 

意外なことに、父はすんなりと了承をした。

「いいよ、教えてあげる。……どこまで参考になるかわかんないけど」

おいで。そう言って手招きされるがままに森へと踏み入る。それは母と遊びまわった場所よりも、更に深く木々の生い茂る暗い森だった。森には、特に危険な場所がある。これは母から聞いた話だ。

〝そっちは駄目、飛竜の縄張りがあるんですって〟

そう言って茂みの奥に行くのを制止されたことがある。その茂みを、今突き進む。ユピは、奇妙な高揚を覚えていた。

 

小枝や朽ちた切り株、絡みつくような蔓草のせいで足場が悪い。もたつくユピとは反対に、彼はひょいひょい森を進んでく。

「大丈夫、置いてかないよ。こっち」

 

手招きされた先には、ファンゴが数頭水を呑んでた。

 

 

「最初はファンゴから。リオレウスを撃退できたら一人前な」

 

 

父は身体を華麗に宙へと翻し、半月の弧に沿うようにして体躯がくるりと反転させた。────宙返りだ。すぐにそうとわからなかったのは、人間離れした跳躍の高さのせいだろうか。あるいは、身のこなしがあまりに美しかったせいかもしれない。

母は何度も言っていた。父は強く、とても綺麗に戦うのだと。その意味が今わかった気がする。

あれだけの大ジャンプというのに、物音ひとつ起こらなかった。足元に散らばる枯葉すら口を噤んでしまって、とても静かに、彼は月と重なったのだ。

操虫棍の切っ先が、ファンゴの一頭を真下に捉える。鋭く研ぎ澄まされた刃が一瞬きらきら光った。月光を反射したのだろう。

 

やがてト……と、腹を突き破るには小さすぎる音がした。きっとファンゴは、苦しむ一瞬すらなかっただろう。赤い雫が貫かれた腹から滴り、その眼球が白目を剥く。

瞬く間に周囲の数頭が逃げだした。だけど彼の仕留めた一頭だけは、最早ぴくりとも動かない。

 

「最初はこんな感じ。戦いの末仕留めるよりも、逃げるのを追って捕まえるよりも、気配を悟らせずに一撃で決めるのが効率いい。狩りの基本は気配を殺すこと」

 

彼は、父ではなく狩人の顔でそう言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

-2-

 

また春が来る。

 

雨が増えた。

 

最近、狩りを教えてるんだ。そう言ってガーグァの肉を剥ぎ取る彼の話を聞いて、彼女は嬉しそうな顔をする。

ユピは狩猟がうまかった。最初こそ足音で獲物に気付かれ逃げられたり、上手く間合いが取れなかったりと稚拙さが目立っていたけれど、この頃は実に見事に獲物を仕留めてしまう。

彼が操虫棍で高く飛ぶのを真似るみたいに、軽やかな身のこなしが見事であった。

 

「まだ小さいのに、ユピ、凄いですね」

 

「そうかな。俺の親父もハンターでさ、初めて操虫棍振り回したのは四歳だったよ。そういうものじゃない」

 

ふふ、と彼女は淡く笑った。

 

「素質あるよ。まあ、当然かもしれないけどな」

 

育てることに最初こそ乗り気でなかった彼だけど、熱心に狩りを教える様が微笑ましいのだ。残った左腕一本で、彼は一生懸命ユピに狩りを教えているのだ。それを愛情だと彼女は思う。

 

 

「ユピは?」

 

「水浴び。あいつ、水遊び好きだよなぁ」

 

「可愛いですよね。この間、ちょっと滑って転んでしまって心配しましたけど、へっちゃらみたいで……」

 

「怪我なんてしょっちゅうするくらいでちょうどいいよ」

 

「男の子ですものね」

 

この幸せが、いつもでもいつもでも続いたらいい。彼女は心から願っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

-3-

 

紅葉がひらひら舞う秋だった。

 

「この花は?」

 

「シオンです。この間ね、ユピが摘んできてくれたんですよ」

 

テーブルの上の小さな花瓶に、薄紫の可愛い花が咲いている。花びらはやぶれ茎も折れてしまっていたが、彼女は大切に飾っていたのだ。

 

 

 

その朝珍しくユピは未だ寝息を立てていて、久方ぶりに二人きりの朝食になる。

昨晩、彼と一緒に狩りに出かけていたのだが、成長したユピの前にドスジャギィすら敵ではなかったというから驚きもする。素質あるよ。彼は前にそう言ってたが、その成長スピードは素人の彼女さえ目を見張るものだった。

 

「観測隊が教えてくれたんだけど、……この頃、近くにジンオウガの群れが観測されたらしい」

 

食後のコーヒーを一口飲んで、息を吐いた時だった。彼女はミルクを回す手をピタリと止める。

 

「ジンオウガ……」

 

「うん。ジンオウガは群れで子育てするから、縄張り意識が強いんだ。あんたは暫く、森へは近付かない方がいい」

 

「そう……ですか……」

 

彼女の瞳に不安が陰る。何か言おうとした唇は、二、三度ぱくつくものの結局言葉を紡がない。

この幸せな平和が唐突に終わってしまうような、そんな不安が浮かぶのだ。

秒針の音すら拾えるくらい、それは悲しい静寂だった。

 

 

「…………ユピと、狩りに……今夜も行きますか」

 

暫し彼女が何か言うのを待ってたら、質問は遠回りなものだった。ジンオウガの群れが観測された森の深くに、彼はユピと行くのだろうか。ユピは、子供ながらに確かな実力を備えているけど。

 

 

 

「……行くよ。あいつのためになることだからね。それに上手くいけば……」

 

 

 

上手くいけば。

その先を、不意に彼は止めてしまった。

彼女が悲しそうな顔をしたから。

 

 

 

 

………………………………

 

 

 

 

 

澄んだ翡翠色の瞳が、が月明かりに照らされていた。幼いのに凛々しさのあるユピの面立ちを見ていると、彼女は哀しくなるときがある。美しいほど青いユピの目はいつも、真っ直ぐに彼女を見てくれるのに。

 

「また怪我したのね。心配よ」

腕をとって傷口を消毒してやれば、痛そうにユピが顔を顰める。

とてとてと馳け廻る足音すらも可愛かった。まだ幼いのに、彼は「天性の狩人」だなんていう。武芸のことはよくわからない。ただ、きっとユピは強くなる。……いや、今だって十分強い子だ。そしてとても優しい目をする。

 

 

「いい子。大丈夫、ずっと家族だからね」

 

祈るような声色だった。

赤子のユピを拾った日から、いくほど時が過ぎたのだろう。もう何度目の十五夜だろう。

小さく弱々しく、彼女の胸に抱かれていたというのに、あっという間に大きくなった。怪我が回復して歩けるようになって、かと思ったらすぐに走るようになる。ユピは走るのが好きだった。かけっこだってした。ガーグァが好きだった。寝顔がとても愛らしかった。声を出すことはできないけれど、なんでもすぐに覚えてしまうほど聡明だった。

……どうして今夜は、こんなことばかり思い出してしまうのだろう。何故かどうしても今、ユピに名前を呼んで欲しいと思ってしまった。出来ないのに。

 

 

「おまたせ。行ってくる」

 

準備を整えた彼が玄関の戸を開く。オオシナトがひらひら飛んだ。

 

「大丈夫だよ。ジンオウガの群れが攻撃的にしてきたら撃退する。ユピのこと、ちゃんと守るから」

 

「……ええ。……いってらっしゃい。ユピも、気をつけてね」

 

風が鳴る。森の木々がさわさわ揺れてた。今夜はとても、月が綺麗だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

-4-

 

母は瞳を覗き込めばいつも、「綺麗な目ね」って褒めてくれてた。頭を何度も撫でてくれたし、櫛で梳いてくれたりもする。

母の名前も知っている。父が呼ぶのを聞いて覚えた。だけどこの喉は、お母さんとすら呼ぶことが出来そうにない。きっと呼べたら、喜ぶってわかってるのに。

 

母は淡い色の儚げな花が好きだった。森で見つけて持ち帰ったら、きらきらと瞳を輝かせて喜んだ。早く見せたくて急いだせいか、花びらは千切れかけてしまっていたのに、「とっても綺麗」と言ってくれた。よれてしまったっていうのに、花瓶にいつまでも飾ってくれた。

 

 

「シオンっていうのよ。とっても好きな花なんだ、ありがとう。

花言葉っていうものがあるの。

シオンの花言葉は『追憶』とか、『追想』、それから────」

 

あの、暖かな声が好きだった。

 

 

────お母さん、森の深いところには、切り立った谷が聳えてるんだ。そこにあの花は、シオンはたくさん咲いていた。綺麗な薄紫の花びらが、谷の天辺を埋めていたんだ。

だけどあそこは行っちゃ駄目ってお父さんが言ったんだよ。リオレウスの巣がそばにあるから。

お父さんは、リオレウスに勝てたら一人前って教えてくれた。だから、一人前になったら、あの谷へ連れて行ってあげたいんだ。シオンがたくさん咲いていた、すごく綺麗な谷だから────。

 

そう、言葉に出来たならよかったのに。

 

 

 

「ユピ、もうすぐ……ジンオウガの群れに追いつく。さっき教えた通りにやるんだよ。大丈夫だ、駄目だったら、俺がちゃんと守るから」

 

父は強い狩人だった。片腕しかないというのに、森のどんな竜より強かった。たくさんの知識を与えてくれた。

 

ユピは一度頷いた。

わかったよ、やってみる。そんな意思を示すため。

緊張だろうか、鼓動がばくばく高鳴ってくる。ジンオウガの群れ……それがどんなものなのか、期待と恐怖が綯い交ぜだった。

 

「ユピ、家族だからな」

 

父は言った。

 

うん。家族だね。

 

そうやってもう一度頷いた。

 

 

 

 

その時だ。

悍ましいほど低く強欲さを孕んだ怒号が、彼方から鼓膜を撫でたのだ。

耳がぴくりと反応をして、思わずユピは振り返る。どこか記憶を擽る咆哮だった。

 

「……?どうした?」

 

父はキョトンとした顔をした。聞こえなかったのだろうか。……いや、ユピは聴力に自信があったし、遠くの物音を敏感に拾うことに長けていた。

確かに、彼方で咆哮が響いたのだ。そしてそれは、遺憾なことに自宅の方向からだった。

 

聞き覚えのある声は、同時にぞわぞわとした戦慄を胸に齎した。……なんで、知ってるんだ?父と何度も森で狩猟の練習をしてきたけれど、こんな咆哮をする竜など見たことがない。いや、違う。もっと前だ。ユピは記憶を掘り起こす。この咆哮を聞いたのは、父と連れ立つよりも遥かに昔だ。喉の古傷がぴくりと痛む。

 

〝生臭く、どこぞしこも真っ赤な世界の水の畔りで、怒号にも似た叫びを聞いた。焼けるような痛みと、眼前いっぱいに開かれた悍ましい口〟

 

物心ついた頃に自覚した、それが人生最初の記憶だ。喉の傷。この記憶。今聞こえた遠くの咆哮。それらがふつふつ繋がってゆく。この声の主を知っている。

 

 

「ユピ……どうしたんだ」

 

父が呼びかけているというのに、足は根が生えたように動かない。

 

……そうだ、だれかが、自分のために戦ってくれていたような気がする。

あれは……

 

多分、〝本当の〟母親だった。

 

 

 

「ユピ、一体どうし、」

 

父の声を遮るように、二度目の咆哮が響き渡った。

先ほどよりも更に巨大な声量は、今度は父の耳にも届いたらしい。顔がさあっと青褪める。

 

 

悍ましい口。喉の奥まで続きそうな牙の群れ。涎。あの口は、自分を丸呑みにしようとしていた。

あの竜の名は……

 

 

「……!やばい、戻ろう!!」

 

咆哮が家の方かもしれないと、父も直ぐに察したらしい。

ユピは体躯を翻し、全力で森を走り抜けた。

その速度は、父を遥か置き去りにしてしまうほど、恐ろしく速いものだった。

 

〝お母さんが、危ない〟

 

破れたシオンを胸に抱いて、ありがとうと笑ってくれた、大切な家族が危ないのだ。

あの竜がどれほど危険なものなのか、本能が警報を鳴らしてる。身をもって知ってるはずなのだ。赤子の頃に、喉を裂いたあの爪や、丸呑みにしようとしたあの大きな口。か弱い母などきっとすぐに食われてしまう。だから早く、行かなくては。

 

父が後ろから叫んでる。だけどユピは、振り返る間も惜しむように暗い森を疾駆してゆく。

 

 

 

ユピの喉に傷を遺し、そして、今しがた響いたこの咆哮の持ち主を、人間はイビルジョーと呼んでいた。

 

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