2024.10.02
# 教養

「神風特別攻撃隊」が初めて敵艦に突入してから今年でちょうど80年…日本海軍における「特攻」誕生の経緯

神立 尚紀 プロフィール

航空機による体当り攻撃も

航空機による体当り攻撃も着々とその準備が進められようとしていた。その中心となったのは源田実中佐である。昭和7年から9年にかけ、現代の航空自衛隊「ブルーインパルス」の元祖ともよべる日本初の編隊アクロバット飛行チーム「源田サーカス」を率い、戦闘機パイロットの草分けとして有名だった源田は、昭和19年当時は海軍の作戦をつかさどる軍令部第一部の部員(参謀)を務めていて、航空作戦のすべてを動かしうる立場にあった。

軍令部参謀源田実中佐(のち大佐)。初期の段階で航空特攻を積極的に推進、「桜花」の開発にも関与した

源田は、昭和16年の開戦時には機動部隊の航空参謀として真珠湾攻撃の実行に携わり、翌年6月のミッドウェー海戦では自らの判断ミス――敵艦隊発見の報告をうけたさい、正攻法にこだわって攻撃機の兵装を転換したり、護衛戦闘機を用意している間に戦機を逃し、攻撃を受けた――で主力空母4隻を一挙に失った。連合艦隊先任参謀の黒島亀人と機動部隊航空参謀の源田実は、太平洋戦争前半における海軍作戦の車の両輪とも呼べる関係にある。

 

そして、海軍航空隊の総本山である横須賀海軍航空隊の飛行隊長・中島正少佐も、零戦隊を率いてガダルカナル戦に参加し、日米の戦力差をまのあたりにした経験から、

「もう体当り攻撃をやらなきゃダメだ」

と考え、自ら零戦を操縦して体当り攻撃の研究を重ねながら源田の構想を支えた。中島はその後、第二〇一海軍航空隊飛行長としてフィリピンに転出し、昭和19年10月、最初の特攻隊を出撃させる役回りとなる。中島はフィリピンでの特攻作戦を事実上主導し、自分の部下から約350名もの特攻戦死者を出した。

特攻を推進し、自ら出撃を命じた中島正少佐(のち中佐)
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