2021.06.29
# 戦争

【戦争秘話】漫画やアニメにも描かれる「三四三空」。その偽らざる素顔に迫る。

「三四三空」の実像を追う・第1回後編
神立 尚紀 プロフィール

源田實と志賀淑雄の戦後

源田實は、昭和61(1986)年の参議院議員任期満了をもって政界を引退、元号が変わった平成元(1989)年8月15日、あたかも「昭和」に殉じるかのように、松山で脳血栓のため亡くなった。この日は44回めの「終戦の日」で、源田は85歳の誕生日を翌日に控えていた。

伊藤忠商事で副社長を務めた三田寛也が筆者に語ったところでは、源田の参議院議員在任中、かつて大本営陸軍部参謀を務め昵懇の間柄だった瀬島龍三(せじま りゅうぞう)が、勤務先の伊藤忠商事で、航空機部長時代(1960年)の部下だった三田に命じ、社内から選りすぐった美女3名をつけて選挙応援をさせたという。大本営や旧軍の人脈が、源田の大きな票田だった。

航空自衛隊時代の源田實・元司令のサイン入り写真。

いっぽう、選挙運動で訪ね回った旧海軍の戦友会では、ときに「戦闘機無用論」や「軍令部での航空特攻の推進」など、かつてのマイナス点を蒸し返され、演説中に野次や罵声を浴びることもあった。兵から叩き上げた海軍航空関係者が集う「特空会」では怒号がやまなかったというし、真珠湾攻撃に参加した生き残り搭乗員で組織していた「全国パールハーバー会」という戦友会からも、「立案だけで攻撃に参加していないから」と入会を拒否されている。

だが、三四三空の旧部下で、源田の12代あとの航空幕僚長になる山田良市大尉によると、晩年の源田は、毎朝、仏壇に向かい、数珠を手にし、過去帳を開いて、その日が命日の部下の名を1人ずつ読み上げ、呼びかけては読経するのを日課としていた。さらに、飼っていた犬、猫、鳥の墓まで、庭の隅に設けて毎日手を合わせていたという。広島出身の源田はまた、広島カープの熱心なファンでもあった。

「毀誉褒貶はありますが、眼光炯々、いつも毅然としていた源田さんに魅力を感じていたのは、こんな真摯さと、人間的な奥の深さゆえだろうと思います」

と、山田は回想している。

 

飛行長・志賀淑雄少佐は、戦後、警察装備を扱う会社を経営し、商品をつくるだけでなく、平成元(1989)年1月24日、昭和天皇大喪の礼のさいには、皇居から多摩御陵までの沿道を埋める菊の花の手配まで手がけた。

「大喪の礼を3日後に控えた1月21日、皇居で行われた『殯宮伺候(ひんきゅうしこう)』に参列を許されました。陛下の棺に、内々に最後のお別れをする儀式です。

私は、この日のために、戦死した上官、同僚、部下たちの氏名を記した巻紙を用意して、背広の内ポケットに忍ばせていたんですが、しわぶき一つ聞こえない部屋で、とても巻紙を広げることはできず、心のなかで陛下に、彼らの名前を奏上するとともに、軍人としての至らなさをお詫び申し上げました」

志賀はつねに

「戦果はすべて部下の手柄、失敗はすべて自分の責任」

と言い、このことと、

「日本海軍にエース・パイロットはいない。そんな称号も制度もなかった。あえて言うなら、その任を全うして戦ったすべての搭乗員がエースである。しかし、くれぐれも旧軍人を英雄視してはいけない」

ということは絶対に譲らず、そんな姿勢は最後までブレることはなかった。

紫電改は日の丸が米軍の星のマークに塗り替えられ、昭和20年10月16日、志賀少佐以下、三四三空の搭乗員の手で横須賀基地に空輸された。

平成17(2005)年11月25日、死去。享年91。

東京・練馬区の江古田斎場で営まれた葬儀には、速水経康大尉、山田良市大尉、関西から駆けつけた宮崎勇少尉、笠井智一上飛曹ら、三四三空時代の部下たちの姿も多く見られた。そしてこれが、結果的に、全国から三四三空の隊員たちが集う最後の機会になった。

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