消耗した三四三空
開隊以来の隊長全てを失った三四三空は、三個飛行隊のうち、飛行隊長は林啓次郎大尉の後任として三代めの戦闘第四〇七飛行隊長になった光本卓雄大尉がただ一人となり、戦闘第七〇一飛行隊は山田良市大尉、戦闘第三〇一飛行隊は松村正二大尉と、分隊長が飛行隊長の代理を務めた(両大尉が飛行隊長に昇格したと書かれた本があるが誤り)。
7月以降、戦闘七〇一飛行隊に着任した歴戦の佐々木原正夫少尉や中村佳雄上飛曹の回想では、さすがにこの頃になると、搭乗員たちにも、「どうせ死ぬんだ」と、捨て鉢な気分が蔓延しだしたことがうかがえる。
なかには、ラバウル以来歴戦の搭乗員でありながら隊を脱走し、行方不明のまま終戦を迎えた者もいた。その搭乗員の名は、三四三空戦友会がまとめた名簿には残されていない。
筑波海軍航空隊飛行長として、京都府の福知山基地で訓練を重ねていた進藤三郎少佐の回想によると、筑波空は近く、戦力を消耗した三四三空と交代する形で、大村基地に進出する予定だったという。
筑波空は、7月14日に発令された新司令・五十嵐周正中佐が戦闘第四〇三飛行隊(隊長・三森一正大尉)を率いて姫路基地に、進藤少佐が戦闘第四〇二飛行隊(隊長・藤田怡與藏少佐)を率いて福知山基地に展開し、使用機も紫電から紫電改へと、順次更新が進んでいた。
進藤少佐は、紫電改への更新は戦闘四〇二が優先され、三四三空から搭乗員をもらい受ける交渉も、三四三空でのカウンターパート(人事権を持つ飛行長どうし)である志賀少佐との間で始まっていた、と筆者に語っている。
三四三空と筑波空との交代は実現しないままに戦争が終わり、この話の詳細については、進藤も志賀もそれ以上のことは承知していない。進藤は、
「おそらく、三四三空の戦闘三〇一と七〇一を解隊するか後方に下げ、代わりに筑波空の戦闘四〇二と四〇三を三四三空の指揮下に入れる形だったんじゃないか」
と推測している。もし進藤の推論どおりなら、戦闘三〇一と七〇一に後任の飛行隊長が発令されなかったことも説明がつくが、終戦時、筑波空に配備されていた戦闘機は、紫電61機に対し紫電改は15機だったから、交代するにしても、機材は三四三空の紫電改を流用する形になったと思われる。
8月に入ると、三四三空では燃料不足と機材不足のため、飛行作業を一日おきに休むこととし、たまたま「敵機が来ても邀撃しない」と決めた8月9日、大村基地と目と鼻の先の長崎に原爆が投下される。(『被爆直後の長崎上空を飛んだ日本のパイロットは何を見たか』)
たとえ数機でも上空哨戒に飛ばせていれば事態は違っていたかもしれない。これも源田の判断ミス、とまで言うのは酷だろうか。
8月15日、天皇の玉音で終戦が告げられたとき、司令・源田實大佐は40歳(8月16日で41歳)、飛行長・志賀淑雄少佐は31歳だった。編成以来約8ヵ月間で、三四三空の三個飛行隊を合わせた搭乗員の戦死者は、戦闘機88名、偵察機3名にのぼる。さらに、訓練や要務飛行での殉職者が21名。錬成部隊の戦闘四〇一飛行隊の8名、本部や整備などの地上員58名もあわせると、計178名もの隊員が三四三空で戦没した。