戦史ファンはもとより、漫画やアニメの影響か、近年若い世代にもファン層を広げている。人々はなぜ三四三空に惹かれるのか、そのイメージは、いつ誰が作ったのか。
四半世紀にわたる当事者へのインタビューをもとに考察する。
今回は、源田司令と、飛行長として部隊を支えた志賀淑雄少佐の物語である第1回の後編となる。
(第1回前編はこちら)
相次ぐ戦死
昭和20(1945)年4月に沖縄戦がはじまり、「菊水作戦」と称して大規模な特攻作戦が実施されるようになると、三四三空もその一環として沖縄方面の制空戦に駆り出され、並行して、本土上空に来襲する米陸軍の大型爆撃機・ボーイングB-29の邀撃、海上に不時着水した敵のパイロットを救助するため飛来する飛行艇狩りなど、本来の任務を超えて酷使されるようになった。
そして、戦局の変化にともない、三四三空の主力は鹿児島県の鹿屋、国分、長崎県の大村へと移動を重ねた。錬成部隊の戦闘第四〇一飛行隊は、源田司令と反りが合わなかった相生副長が指揮して松山基地に残り、消耗した搭乗員を第一線に補充している。ふたたび志賀少佐の回想。
「大村基地に移動してしばらく経った頃、司令が何か考えごとをしている様子なので、さてはうちにも特攻の話がきたかと、
『司令、何かあったんじゃないですか。特攻言ってきたんでしょう』
と訊きました。司令は、
『うん』
と答えたきり、私が
『どうするんですか』
重ねて訊いても返事がない。
私は、特攻にははじめから反対でした。指揮官として絶対にやっちゃいけない。自分が行かずにお前ら死んでこい、というのは命令じゃないですよ。行くのなら、長官や司令がみずから行け、と。だから私は司令に、
『わかりました。もしそれしか戦う方法がないのなら、まず私が、隊長、分隊長、兵学校出の士官をつれて行って必ず敵空母にぶち当たってみせます。最後には司令も行ってくださいますね。予備士官や予科練の若い下士官兵搭乗員は絶対に出しちゃいけませんよ』
と申し上げたんです。ほんとうは私も行きたくないけど、「指揮官先頭」が海軍のモットーですから、どうしてもというなら仕方がない。司令は、
『よし、わかった』
と。その後、この話は立ち消えになったようで、それきり何も言ってきませんでした」
特攻出撃こそなかったが、三四三空の戦いは熾烈で、隊員たちは次々と斃れていった。
「4月21日に戦闘四〇七の林喜重、6月22日にその後任の林啓次郎、7月24日に戦闘七〇一の鴛淵、8月1日に戦闘三〇一の菅野と、飛行隊長の戦死が続き、6月頃になると飛行機や部品、搭乗員の補充もままならなくなった。そのうえ燃料も不足して、あってもオクタン価の低い質の悪いもので、そのせいで、同じ紫電改であっても実質的にかなり性能が低下して、実力を発揮できなくなってきました。
機銃弾も、戦前にスイス・エリコン社から輸入したもののなかには膅内(とうない)爆発(銃身内爆発)するおそれのあるものがあり、危険なので使用厳禁、となっていましたが、それが大村の第二十一航空廠の倉庫から間違って出てしまった。菅野が戦死したのはそのためでした……」
菅野大尉は8月1日、屋久島北方で、米陸軍の大型爆撃機・コンソリデーテッドB-24の編隊を攻撃中、20ミリ機銃の膅内爆発で主翼に大穴が開き、空戦場から離脱して単機になったところを、ノースアメリカンP-51戦闘機に撃墜されたと推定されている。この日、米軍機が単機で低空を飛ぶ紫電改を捉えたガンカメラ(機銃発射に連動して動画が撮影される、戦果確認用のカメラ)の映像が残されている。