戦果は挙げたが……
三四三空の初陣は、昭和20年3月19日のことであった。
「古来、これで十分という状態で戦(いくさ)を始めた例はない。目標は敵戦闘機」
源田司令の訓示である。
この日、敵機動部隊艦上機来襲の報に、満を持して発進した紫電改54機、紫電7機は、圧倒的多数の敵艦上機群と空戦、52機の撃墜戦果を報告した。三四三空の損害は16機(敵発見を報じたのちに撃墜された偵察機1機をふくむ)、地上での大破5機だった。出撃した米軍機は350機以上、うち三四三空と戦ったのが約120機という。
「この日の空戦は、地上からもよく見えました。敵が来たときには、こちらはすでに発進を終え、ちょうどよい間合いで待ちかまえている。司令と並んで、始まりますよ、と見ていると、一撃するごとに敵機が調子よく墜ちてゆく。
『これは開戦時の再現ですよ』
と司令に言った記憶がありますが、結局、そのあとが続かなかった」
と、志賀。だが、空戦に戦果誤認はつきもので、じっさいには敵味方の損失はほぼ同じであったという戦後の検証もある。1機撃墜も数機で攻撃すれば重複してカウントされることがあるし、被弾して煙を噴いたり、急降下で逃げたりした敵機を撃墜したと誤認する例もあって、報告された戦果はどうしても過大になるのだ。
米側の記録によれば、この日の損失は31機で、うち三四三空との交戦によるものは、帰還後、被弾のため廃棄された機体もふくめ14機にすぎなかったという。ただ、米軍も50機の撃墜戦果を報じているから、誤認の度合いは似たようなものである。圧倒的な機数の差を考慮すれば、3月19日の三四三空は、かなり善戦したとはいえるだろう。
――だが、これはあくまで、三四三空の視点に立っての話である。
この日の米軍艦上機による空襲は、2016年公開の映画「この世界の片隅に」(片渕須直監督)にも描かれているが、米軍の目的は呉軍港と停泊する艦艇、そして阪神地区、九州北部の航空基地を攻撃することで、主な目標は呉軍港だった。
呉では火薬庫が爆破されたのをはじめ、工廠にかなりの被害を出し、在泊艦艇も、沈没艦こそ出なかったものの、少なからぬ被害を受けている。米軍としては完全に目的を達したわけで、三四三空との戦いは、いわばおまけのようなものである。
「目標は敵戦闘機」
という源田司令の簡潔な訓示は、一見、勇壮でカッコよく感じられるけれど、敵機による攻撃を阻止する「防空戦闘」の任務は、はなから放棄していた。航空作戦の勝敗は、撃墜機数や喪失機数の比較で決まるものではなく、いかに強力な戦闘機隊を編成しても、敵に目的を達成させてしまえば意味がない。
源田實はこの点で失敗したとも言えるし、敵にやりたい放題やらせた上で、目標を絞ったこんな戦い方しか選べなかったのが、当時の日本海軍航空隊の戦力の限界だったとも言える。
空戦で、戦死者の遺骨が回収され、遺族に還ることはめったにない。3月19日の初空戦で多くの戦死者を出した三四三空では、以後、搭乗員の髪の毛を刈り、「遺髪」として司令が預かることになった。海軍士官は見苦しくない程度に髪を伸ばすのは自由だったし、原則坊主頭の下士官兵も、搭乗員だけは不時着時の安全を考えて、手入れさえしていれば髪を伸ばすことが黙認されていたから、こんなことができたのだ。
志賀少佐にスカウトされ、戦闘第四〇七飛行隊分隊長として着任した速水経康大尉は、
「三四三空は全員坊主頭が決まりと聞いていましたから、転勤を言い渡されたときは嫌だなあ、と思いました。でも、どうせ刈られるんならと、髪を刈ってから着任したんです。それで源田司令に着任の申告をしたら、髪の毛を出せ、と言う。いや、来る前に刈ってきましたが、と言ったら怒られた。それじゃ、遺髪が預かれないじゃないかって」
……と、生前、筆者に語っている。
<つづく>