三四三空は、愛媛県の松山基地(現・松山空港)に本拠地を置き、司令・源田實大佐、副長・中島正中佐(のち、相生高秀少佐)、飛行長が志賀少佐で、主力機となるのは、志賀が心血をそそいだ紫電改である。
戦闘機隊は、戦闘第七〇一飛行隊(飛行隊長・鴛淵孝〈おしぶち たかし〉大尉)、戦闘第四〇七飛行隊(飛行隊長・林喜重〈はやし よししげ〉大尉)、戦闘第三〇一飛行隊(飛行隊長・菅野直〈かんの なおし〉大尉)の三個飛行隊で、それに偵察機「彩雲」で編成された偵察第四飛行隊、錬成部隊として戦闘第四〇一飛行隊が加わった。
3人の飛行隊長は、いずれも源田司令みずから調査、指名したつわもの揃いで、鴛淵大尉、林大尉は第二五一海軍航空隊でラバウル、ソロモンの激戦をくぐり抜け、菅野大尉は戦闘第三〇六飛行隊長としてパラオ、ヤップ、フィリピンで活躍している。しかもこの3人は、海軍兵学校でそれぞれ1期違いで在校期間が重なっている上に、昭和18(1943)年秋には同じ厚木海軍航空隊にいたことがあり、互いに技倆も性格も知り尽くした仲だった。
ほかの搭乗員たちも、海軍戦闘機隊屈指のベテラン、磯崎千利(ちとし)中尉や松場秋夫少尉らが中心になって名簿をあたり、集められた搭乗員が基幹となっている。志賀の回想――。
「しかしそれでも、隊員のほとんどは18歳から20歳そこそこの若い搭乗員で、正直な話、技倆の点では開戦当時の精鋭とは比べられないですね。速水経康(はやみ つねやす)大尉だけは、横須賀海軍航空隊にいて私が優秀な男だな、と目をつけていたのを司令に推薦しましたが、搭乗員全員をこちらで選べるものでもないですし……。
それでも、士気はきわめて旺盛でした。松山に着任したとき、若い3人の隊長――鴛淵25歳、林24歳、菅野23歳――に、紫電改や空戦についての注意事項を教えようとしたら、みんな馬耳東風、全然相手にしてくれない。私は当時30歳、まだまだ飛ぶつもりでいたんですが、これは俺の出番はないな、と。
それで司令に、私はこれから甲板士官(隊内の軍紀風紀を取り締まる)に徹します、と宣言して、主計科や整備との連携に力を入れることにしたんですが、それが結果的にはよかったと思っています」
3人の飛行隊長の個性や、搭乗員たちの気風について、志賀は次のように語っている。
「ひと言で言えば、鴛淵は知将、林は仁将、菅野は勇将、その異なった個性が、じつにみごとなチームワークを生んでいました。
搭乗員も、南方から帰ってきた連中、とくに戦闘四〇七なんか、暴れん坊が揃っていましたね。整列すると、野獣が飛行服を着たようなのが並んでるんですから。
案の定、いろいろと問題を起こしてくれました。長崎県の大村基地に進出したあとのことですが、酔っぱらって、大村駅から次の竹松駅まで機関車を運転して警察につかまったのもいるし、よその部隊との喧嘩はしょっちゅうです。そのたびに私が出ていくんですが、隊員たちには、喧嘩したら絶対に負けるな、ただし絶対にやるな、と言っていました」